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2024.08.26

佐伯祐三とは?早世の画家の生涯や画風、代表作、驚きの「妻による加筆」エピソードまで、詳しく解説します。

佐伯祐三とは?早世の画家の生涯や画風、代表作、驚きの「妻による加筆」エピソードまで、詳しく解説します。

「夭折の天才画家」として知られる佐伯祐三。1924年フランスに渡りパリで才能を開花。わずか4年余りの画業の中で独自の風景画を確立、後世に大きな影響を与えます。病のため30歳の若さで亡くなりますが、死の間際まで絵筆をとり多くの作品を残しました。この記事では佐伯祐三の短くも鮮烈な生涯をアートリエ編集部が詳しく解説します。

佐伯 祐三とは

佐伯祐三の肖像

生い立ち

佐伯祐三は1898年、大阪・中津の名刹・光徳寺の次男として生まれました。活発な少年でしたが、虫1匹殺さない殺生嫌いだったそうです。旧制中学時代(現在の高校)は野球やバイオリンに熱中。身なりは全く無頓着で性格もずぼら。勉強はあまりできるほうでなかったようです。
祐三は5歳年上の従兄の影響で、梅田にあった画塾に通いデッサンを学びます。医師にしたいという父の思いを振り切り、洋画家を志すようになります。19歳で旧制中学を卒業すると東京美術学校(現東京藝術大学)受験準備のため上京。川端画学校に入り、藤島武二に師事します。

学生時代

1918年、佐伯は東京美術学校西洋学科に進学し引き続き藤島武二に師事。学生時代は自画像を多く描いていました。この頃に描いた自画像は印象派風の穏やかなもので、その後の彼のダイナミックな作風とは異なるものでした。

病弱だった佐伯は、在学中も喀血を繰り返していました。この頃は父と弟が相次いで病で亡くなって、死を身近に感じていた時期。佐伯はさまざまな思いを込めて自画像を描いたと思われます。

佐伯は、後に洋画家になる山田新一と親交を深めます。山田とは川端画学校で出会い、東京美術学校でも同級生でした。山田は佐伯に洋画家の里見勝蔵を紹介するのですが、里見との出会いは佐伯の画業に大きな影響を与えることになります。

佐伯は、在学中に足の不自由な画学生の池田米子と知り合い、22歳で学生結婚しました。

1回目の渡仏

1923年、佐伯は東京美術学校を卒業。11月には妻・米子と2歳になる娘の彌智子とともに神戸からパリへ旅立ち、翌24年1月に到着します。渡仏の2か月前、関東大震災で渡航用の荷物が全焼してしまうアクシデントがありましたが、佐伯の意志は揺らぎませんでした。

当時、日本の画家が箔をつけるためにパリで修行するのは珍しいことではなく、この頃は100人以上の日本人画家がパリに滞在していたと言われます。佐伯が渡仏する10年前には藤田嗣治が渡仏し大成功を収めていましたが、ほとんどの日本人画家は高い評価を受けることはありませんでした。

パリに到着した佐伯は、モンパルナスにアトリエ兼住居を借りて制作に励みました。セザンヌやゴーギャン、ルノワールらの作品を研究、パリ滞在初期の作風は特にセザンヌの影響がみられます。

ヴラマンクとの出会い

佐伯は、里見勝蔵や小島善太郎らフランス滞在中の画家たちと交流し、パリに馴染んでいきます。佐伯は里見勝蔵に連れられて、ゴッホの終焉の地オーヴェル・シュル・オワーズに向かい、フォービスムの巨匠モーリス・ド・ヴラマンクのアトリエを訪問しました。佐伯は持参した自信作をヴラマンクに見せますが、「生命感がない」「アカデミック!」と罵倒されてしまいます。セザンヌやゴッホに影響を受けアカデミックとは無縁と思っていた佐伯は、「保守的」と批判されショックを受けます。

その頃描いた「立てる自画像」は、パレットと絵筆を持って立つ自身の顔をパレットナイフで荒々しく削り取ってあって、彼の絶望と決意を表しています。

ヴラマンクとの出会いは画家としての大きな転換点になり、佐伯は独自の表現方法を模索。荒々しいタッチでフォービスム風の風景を描き始めます。やがてユトリロの描くパリの街並みに感銘をうけた佐伯は、独特の重厚なタッチでパリの風景を描くようになりました。

佐伯はパリの靴屋の壁を描いた作品「コルドヌリ」で、サロン・ドートンヌに入選。作品も売れて成功を収めつつありましたが、1926年3月、結核の病状を心配した家族の意向で一時帰国の途につきました。

2回目の渡仏

日本に帰国した佐伯は、電信柱や帆船のマストなど線の描写に力を入れ、新たな表現を模索します。しかし1927年8月に再びパリへ戻り、何かに追われるように制作に励みました。「5か月で107枚の絵を仕上げた」と里見勝蔵への手紙に記しています。

最初のパリ滞在の時と変わらず描くのは下町の風景でしたが、日本に帰国した際に磨いた線の描写に力を注ぐようになりました。古い建物の壁の質感の表現にこだわり、場末の壊れかけた建物に書かれた文字や破れたポスターを線描で捉える画風へと変化します。

体調が悪い中、寒い屋外で制作を続けたせいで1928年3月には風邪をこじらせて喀血。結核にむしばまれ寝込むことが多くなった佐伯は、精神的に追い詰められて失踪します。自殺を図るものの一命はとりとめ、精神病院へ入院しますが病はよくならず、8月に死去してしまいます。その2週間後には娘の彌智子までもが結核で亡くなりました。

佐伯 祐三の画風

ガス灯と広告
出典:東京国立近代美術館

強い筆致と厚塗り

力強いタッチと大胆な筆致。佐伯祐三の作品はダイナミックな筆致が特徴的です。佐伯は驚くほど速く絵を描くことでも知られています。特にヴラマンクとの出会い以降は1日に2、3枚の作品を仕上げることも。このスピード感が、荒々しい躍動的なタッチを生んでいます。

また厚く塗り重ねた絵具は独特の力強さを生み出し、それが観る者を惹きつけます。この厚塗りを可能にしているのは、自作のキャンバス。佐伯は自分で麻布を買ってきて、下地も自分で塗りました。乾きの遅い油絵具でも短時間で複雑な表現を可能にするため、佐伯は下地を工夫したのです。厚塗りで知られるルオーは絵具を厚く塗り重ねましたが 、佐伯はオリジナルの下地を厚く塗ることで独特の重厚感を生み出していました。

暗く重厚な色彩

佐伯の作品には、黒や茶色、グレーや暗い緑など暗い色調が多く使われています。彼はパリの古びた建物や街角を題材に描きましたが、パリの曇り空や石造りの建物に、力強いタッチと暗い色調がよく馴染みます。厚塗りの技法による物質感と重厚感が加わり、独特の深みを醸し出しています。

暗い色調は、健康への不安、経済的不安、孤独、苦悩など、画家の内面的な感情を反映しているとも言われ、作品に深い重みを与えています。

不規則な構図

ヴラマンクに傾倒していた佐伯は、表現主義の影響を強く受けていました。表現主義は印象派など外部の世界を描きだす絵画と異なり、心の内面や感情を表現する技法。見たままを描くのではなく、画家の感情を表現するため建物や風景が歪んだ視点で描かれることがあります。パリの下町の雑然とした街並みや古い建物を、高低差のある場所から不規則な構図で描き、雑多な街の雰囲気や佐伯自身の感情を強調しました。

佐伯は「ガラスの器を石の上に叩きつけてはじけて割れた時の、さまざまな鋭角的なパーツのような複雑なものを描きたい」と友人に語っていたといいます。その言葉通り、鋭く複雑な要素が佐伯の絵の隅々にみられます。

写実と表現主義の融合

佐伯は表現主義の影響を受けていましたが、作品には同時に写実的要素も見られ、写実主義と表現主義が融合した独自のスタイルを有しています。

佐伯はパリの街並みを観察し、細部まで捉えて具体的に描写しました。

建物や人物の描写がリアルである一方で、暗い色調や荒々しいタッチ、歪んだ視点で内面的な苦悩や孤独感を表現。現実の風景を通じて自身の内面や感情を描いているのです。この写実と表現主義のバランスのよい融合が佐伯祐三作品の魅力となっています。

佐伯 祐三のエピソード

1930年協会

佐伯祐三が日本に一時帰国した1926年。1920年代前半を佐伯と共にパリで過ごした小島善太郎、木下孝則、里見勝蔵、前田寛治と結成したのが「1930年協会」です。エコール・ド・パリの雰囲気の中で修行した画家たちは、日本の硬直した既成画壇や当時先鋭化していたプロレタリアに対抗して純粋な芸術を目指すことを謳いました。会の名前はミレーやコローのバルビゾン派の別名「1830年派」に倣ったものです。

創立時は5名での活動でしたが、瞬く間に400人の集う勢力へと成長しました。しかし、創立メンバーの佐伯の死、里見の脱会、前田の死など画壇再編の渦に巻き込まれます。その後、新たに誕生した「独立美術協会」へ合流するように消滅しました。

妻の佐伯米子による加筆

佐伯祐三は短い生涯の中で数多くの作品を残しましたが、妻で洋画家の米子がかなりの数を加筆して仕上げていたことが、米子の手紙に書かれています。米子はパリのサロン・ドートンヌに入選、帰国後も二科展に5点入選するなど、かなりの腕前の持ち主でした。

1995年に発見された書簡は鑑定が行われ、米子の筆跡であることが確認されました。手紙には具体的な加筆の方法や、次のような内容が描かれています。

「秀丸(佐伯の幼名)そのままの絵では誰も買ってくださらないので、私が手を入れておりますのよ。秀丸もそれを望んでおりましたし。…秀丸そのままの絵に一寸手を加えるだけのことですのよ。…私が仕上げればすぐに売れる画になりますのよ。」

米子による加筆は佐伯の作品が高く評価されるきっかけになったとされる一方、オリジナルの純粋性が損なわれたという否定的な評価もあります。

佐伯 祐三の代表作

モランの

1928年2月、佐伯はパリから電車で1時間ほどの郊外にある村、モランに滞在します。モランの村で佐伯が繰り返し描いたのが、サン=レミ教会です。

佐伯はこの教会をさまざまな視点から描いた連作を残しました。焼失してしまったものもありますが、15点描いたと言われています。

素早い筆致で描かれた黒く太い輪郭と白い壁が印象的な作品。厚塗りの技法で絵の具を盛り上げるようにして描いており、独特の迫力があります。彩度を抑えた色彩を用い、教会の存在感を表現しています。

パリの裏道

激しい筆致で重々しく描かれた、古びた石壁の建物。その横には細い路地が奥へと続いていますが人の気配はなく、暗い色調と相まってうらぶれた印象を与えます。

広角レンズで撮った写真のような独特の構図と、踊るように書かれた看板の文字が画を引き締めリズムを生み出しています。佐伯はパリの風景を好んで描きましたが、この作品のように重厚で暗い色調を多く用いました。美しい街並みよりも街の雑多な陰影の強い場所を選び、鋭い観察力でリアルなパリを描き出しました。

カフェの広告

出典:アーティゾン美術館

1927年11月の作。パリ14区にある佐伯のアトリエ近くのポール・ロワイヤル通りのカフェを描いた作品です。パリの風物詩であるカフェ。店内の椅子やテーブルは鮮やかな色で大胆にデフォルメされ、まるで踊っているかのよう。素早い筆致で踊るように描かれた壁の文字は装飾的で、これも画にリズミカルな効果を生み出しています。

佐伯 祐三を収蔵する主な美術館

大阪中之島美術館

大阪市北区に生まれた佐伯祐三。彼の作品は大阪の美術コレクター・山本發次郎に見出されました。山本は150点もの佐伯作品を収集していましたが、戦災で100点以上を喪失。疎開して難を逃れた33点が、山本の遺族から大阪市へ寄贈され大阪中之島美術館が収蔵しています。その後も購入と寄贈により、現在60点もの佐伯作品のコレクションを持つ、佐伯祐三作品の宝庫として知られます。「郵便配達夫」「立てる自画像」など佐伯の代表作とされる作品を収蔵しています。

アーティゾン美術館

2020年、ブリヂストン美術館から館名変更、新たな一歩を踏み出したアーティゾン美術館。株式会社ブリヂストン創業者・石橋正二郎氏のコレクションを基礎とし、他にも購入、寄贈を受けた作品が収蔵されています。青木繁や藤島武二など日本の洋画家と、彼らが手本としたフランスの画家たちの作品が中心となっています。

佐伯祐三作品は「コルドヌリ(靴屋)」「テラスの広告」など5点を所蔵しています。

東京国立近代美術館

19世紀末から現代までの近現代美術約13,000点の国内最大級のコレクションを誇る東京国立近代美術館。「モランの寺」や「ガス灯と広告」など、佐伯祐三の代表的な作品を所蔵しています。

まとめ

荒々しいタッチで重厚なパリの街並みを描いた佐伯祐三。その個性あふれる作品は今なお斬新で、観る者に強烈なインパクトを与えます。佐伯祐三の短くも激しい人生を振り返りながら作品を観れば、きっとまた違った魅力が見えてくるでしょう。

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