和服を着た小さな女の子が微笑んでいる…そんな独特で少し不気味にも感じられた絵を見たことがある方も多いのではないでしょうか?そんな《麗子微笑》の絵で有名な画家が、岸田劉生です。彼は今までの西洋画とは異なる日本独自の絵画表現を生み出し、日本の近代美術に新たな方向性を示したことで、日本の美術界における重要な転換点を築いた洋画家です。
彼の作品には独自の「写実主義」と、書こうとする対象の内面や存在の本質を捉えようとする姿勢が特徴としてみられます。本記事では、短い生涯でありながら数々の名作を生み出した岸田劉生の生涯から画風、代表作などについてアートリエ編集部が詳しく解説いたします。
岸田劉生とは
岸田劉生は明治時代に生まれ、38歳という若さで短い生涯を終えた日本の洋画家です。彼は、写実主義を基礎としながら、独自の表現方法を確立していきました。特に娘・麗子を描いた「麗子」シリーズの作品で知られています。
岸田劉生の作品は西洋の影響を受けつつも、日本的な感性と深い内省が織り交ぜられており、特に「麗子」シリーズに代表されるような、対象の内面や本質を捉えることに重きを置いた画風が特徴です。
また、西洋画家からの影響も受けており、ルネサンス絵画に見られるような細部へのこだわりと写実表現を作品の中で発展させました。また、岸田劉生の作品では、対象を極限まで観察し、内面的な要素を描き出すことに重点が置かれていました。
岸田劉生の来歴
岸田劉生はどのような人生を送り、どのような名作を残したのでしょうか?以下では岸田劉生の来歴についてご紹介いたします。
幼少期と学生時代
岸田劉生は1891年に東京・銀座の裕福な家庭に生まれました。父親はジャーナリストで、かつ実業家だったこともあり、幼少期から絵画に強い関心を持っていました。
また、両親を若くして亡くしたことでキリスト教に傾倒するようになりました。その影響で、美術を通じた自己表現を追求するようになり、それが彼の人生や芸術に影響を与えたと言われています。
黒田清輝に師事
画家を志した岸田劉生は、当時日本の洋画界において大きな影響力を持っていた画家・黒田清輝が指導する葵橋洋画研究所で、17歳となる1908年から絵を学び始めました。
黒田清輝は当時、日本の洋画界において大きな影響力を持つ画家でした。なお、外光派はフランス印象派の影響を受け、自然光の下で風景や人物を明るい色彩で描くことを特徴としており、日本での外光派の代表画家でもあり「外光派の父」とも呼ばれていた黒田清輝から指導を受けることで、岸田劉生も西洋絵画の技法を習得し、その後の彼自身の作風に大きな影響を与えることに成功しました。
ヒョウザン会を結成
1912年に岸田劉生は斎藤与里らと共にフュウザン会という、新しい芸術運動を模索するための美術団体を結成しました。
ヒョウザン会は、実際には「フュウザン会」(Fusain会)と呼ばれており、印象派や後期印象派の影響を受けた新しい絵画表現を模索するために設立された団体です。この会に属していたメンバーたちは、伝統的な手法にとらわれず、自由な発想で創作活動を行うことを目指しており、この「フュウザン会」という名前はその理念を反映した名前として選ばれました。なお、この「フュウザン」という名前はフランス語で「木炭」を意味しており、木炭は絵画の下絵を描くために使われることが多い事から、新しい芸術表現を探し求めるといったことを表現するためにも、このヒョウザン会という名前が名付けられたと言われています。
草土社時代
草土社は、岸田劉生が1915年に木村荘八や中川一政らと共に創立した美術団体で、新しい美術表現を追求する場として、1915年から1922年までの間に9回の展覧会を開催し、大正期の日本美術界における重要な流れを作り上げました。この時期に、娘の麗子を描いた《麗子五歳之像》や《道路と土手と塀(切通之写生)》、《B.L.の肖像(バーナード・リーチ像》など、多くの代表作を生み出し、その作風を確立しました。
晩年とその活動
1923年、関東大震災をきっかけに京都に移住し、ここで初期の肉筆浮世絵や中国宋元画に深い関心を寄せました。その後1929年、満州への滞在後、38歳の若さで病に倒れ亡くなりました。また、この晩年の時期には、岸田劉生は制作活動よりも鑑賞や収集に熱中していたと言われています。
岸田劉生の画風
岸田劉生の画風は、西洋画家の影響を受けた写実主義が特徴で、対象の内面や本質を深く描写していることが特徴として挙げられます。以下では、そんな岸田劉生の画風について詳しくご紹介いたします。
セザンヌの影響
セザンヌから受けた影響として、形態の解釈や色彩の扱い方が岸田の作品に反映されています。
セザンヌは物体を幾何学的に捉え、色彩の変化を用いて空間を表現する手法で知られている事から、岸田はこのセザンヌの技法を学ぶことで、彼自身の作品においても複雑なディテールを省略し、対象物の本質を捉えながら、絵全体が力強く見せることに成功しました。また、色彩の使い方によって、絵の中に奥行きや立体感、質感を生み出し、より深みのある作品に仕上げることが可能となっています。これにより、作品を見た者に対して強い印象を与える作品を生みだすことができました。このセザンヌからの影響は、特に岸田劉生の「麗子像」シリーズにも反映されています。
また、セザンヌの絵画に見られる「内的な視点」や「感覚の再構築」といった要素も、岸田劉生の独自の写実主義に取り込まれており、それがさらに彼の作品に独特の深みを与える要因にもなっています。「内的な視点」や「感覚の再構築」は、絵を描く際に見たものをただそのまま描くのではなく、自分の中で再解釈して新しい形で表現することを意味しています。岸田劉生は、セザンヌのこれらの技法をただ模倣するだけではなく、方法論も自分の表現に組み込んで、独自の芸術スタイルを確立していきました。
デューラーの影響
デューラーのルネサンス絵画も岸田劉生の作品に影響を与えました。
デューラーはドイツ・ルネサンス期の著名な画家で、細密な描写と優れた技術で知られています。デューラーの細やかな描写技術や表現が岸田劉生の写実主義に大きな影響を与えていました。彼はデューラーの作品から、描く対象を詳細に観察して、内面的な本質を描き出す技法を学び、そしてそれを自身の絵画に取り入れました。
岸田劉生のエピソード
他の芸術家との交流
岸田劉生が他の芸術家と交流が最も盛んだった時期は、彼が「フュウザン会」を結成した1912年から、1915年の「草土社」を設立した頃にかけてでした。この時期、岸田劉生は白樺派だった斎藤与里や武者小路実篤などと積極的に交流することで、西洋美術や思想の影響を受けながらも、日本独自の表現技法を発展させることに成功しました。白樺派は、日本における西洋美術や思想の紹介に貢献した文学・芸術グループで、彼らとの交流を通じて、岸田劉生はゴッホやセザンヌといった西洋の巨匠たちの作品に触れることができたのです。この影響により、岸田は自身の画風を発展させ、新しい表現を模索することに繋がりました。
娘・麗子への深い愛情
岸田劉生の娘、麗子は、彼が28歳になる年の1914年に生まれました。岸田劉生は、娘・麗子を愛し、彼女をモデルに多くの肖像画を描きました。特に「麗子」シリーズは、彼の作品の中で最も有名な作品の一つです。岸田劉生は麗子を非常に大切に思い、その愛情が彼の芸術作品に強く反映されています。彼は麗子をモデルに多くの肖像画を描き、その中で彼女の成長や個性を丁寧に描写しました。「麗子像」シリーズは、岸田劉生にとって非常に重要な作品であり、彼の内面的な感情や父親としての愛情が表現されています。
また、両親を若くして亡くした岸田劉生にとって、家族、特に麗子は彼にとって非常に大切な存在でした。そのことからも、彼は麗子を通じて、自分の内面的な世界や人生観を絵画に反映させ、彼女の成長や個性を描くことで、自分の愛情や想いを作品で表現していたのです。
極度の潔癖症
岸田の極度の潔癖症は、彼の作品制作や生活習慣にも影響を与えたと言われています。岸田劉生の潔癖症に関するエピソードとして、特に食器の扱いに非常に厳格だったと言われています。食器が少しでも汚れていると感じたら、それを使わずに捨ててしまうほどの徹底ぶりでした。また、制作中の絵画にもその潔癖性が影響し、完璧を追求するために何度も手を入れることがありました。この徹底した几帳面さが、彼の作品の細部へのこだわりに反映されていると言えるでしょう。
岸田劉生の代表作品
岸田劉生が残した作品の中で、どんな作品があり、その中でも代表作と呼ばれるものはどれなのかを、以下にてご紹介いたします。
「麗子」シリーズ
岸田劉生の娘、麗子を描いた肖像画で、彼の代表作です。特に《麗子五歳の像》(1918年)や《麗子十六歳の像》(1929年)が有名です 。
岸田劉生の「麗子シリーズ」は、彼の娘・麗子をモデルにした一連の肖像画で、彼の作品の中でも特に有名です。麗子シリーズは、彼が麗子に対する深い愛情を込めて描いたシリーズで、彼の写実主義が最もよく表現されています。初期の《麗子五歳之像》(1918年)から、晩年の《麗子十六歳之像》(1929年)に至るまで、麗子の成長を追うように描かれており、父親としての愛情とともに、岸田劉生の画風の変化も反映されています。これらの作品は、当時の日本画壇においても高く評価され、現在でも日本の近代美術を代表する作品として知られています。岸田は、麗子を描くことで単にその外見だけでなく、内面的な美しさや成長の過程をも表現しようとしていました。彼の作品は、見る者に対して深い感動を与えるものであり、特にその繊細な描写と強い感情表現が特徴的です。
「道路と土手と塀」
1915年に描かれたこの作品も、岸田の重要な作品として知られています。《道路と土手と塀》(1915年)も、岸田劉生の代表作の一つであり、彼の写実主義の技法が卓越している作品として知られています。この絵は、東京の一風景を描いたもので、静けさと寂しさを感じさせます。彼は、この作品の中で非常に細かな描写を行い、風景の持つ本質を捉えることに成功しています。また、この作品は岸田が創設した草土社の活動の一環として発表され、画家としての地位を確立することに貢献しました。
B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)
1913年に描かれたこの肖像画も重要な作品の一つです。《B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)》は、1913年に岸田劉生が友人であり、陶芸家として知られるバーナード・リーチを描いた肖像画で、彼の初期の代表作の一つでもあります。この作品の中で岸田劉生の写実主義と精神的探求の両面を表現しています。リーチは、岸田劉生にとって重要な芸術仲間であり、この肖像画の中で、リーチの内面性や知的な雰囲気を捉えようとする努力が感じられます。
岸田劉生はリーチの顔立ちや表情を詳細に描くことで、作品に人物の内面の深さを与えていました。また、リーチの持つ静かな知性や精神的な側面が、細やかな筆遣いによって表現されています。この作品では、彼が写実主義の技法を駆使しながらも、単なる外面的な描写に留まらず、被写体の内面的な特徴・性質を探求しようとする姿勢が顕著に現れた作品だと言えます。
岸田劉生を収蔵する主な美術館
岸田劉生の作品をどこで見ることが可能なのか、その場所と名称をお伝えします。
東京国立近代美術館(東京)
東京国立近代美術館(MOMAT)は、東京都千代田区に位置する日本初の国立美術館で、近代から現代にかけての日本の美術作品を展示しています。館内には、岸田劉生の《麗子五歳之像》や《B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)》、《道路と土手と塀(切通之写生)》などの主要な作品が所蔵されています。 これらの作品は、日本の近代美術を理解する上で非常に重要な作品となっています。
京都国立近代美術館(京都)
京都国立近代美術館(MOMAK)は、京都市左京区に位置し、日本の近代および現代美術を展示する国立の美術館です。麗子シリーズやその他の肖像画、風景画なども所蔵されています。この美術館は1953年に設立され、京都の文化的な背景を反映しながら、日本と海外の優れた近代美術作品を収蔵・展示しています。館内では、絵画、彫刻、工芸品、版画など、さまざまな分野の美術作品が紹介されており、地元の文化と広く国際的な美術との交流を促進する場となっています。
笠間日動美術館(茨城)
笠間日動美術館は、茨城県笠間市に位置し、1966年に設立された美術館です。主に日本と海外の近現代美術作品を所蔵・展示しており、特にフランス印象派やエコール・ド・パリ、日本の近代洋画を中心としたコレクションが充実しています。また、岸田劉生の《猫図》などの作品も所蔵しており、展覧会を通じて彼の初期から晩年までの作品を紹介しています。美術館は美しい自然環境に囲まれており、訪れる人々に豊かな芸術体験を提供しています。
まとめ
岸田劉生は、日本の近代美術における重要な画家で、セザンヌやデューラーの影響を受けたことにより、彼独自の写実主義を確立することに成功しました。娘を描いた彼の代表作として有名な「麗子シリーズ」ですが、この記事を見た後に改めて作品を見ると、きっと今までとは違った作品の見方ができると思うので、ぜひ一度美術館へ足を伸ばして作品を見てみてくださいね。
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