近代アメリカの巨匠、エドワード・ホッパー。
本国アメリカやヨーロッパでは高い人気を誇る画家ですが、日本では近年ようやく認知度が高まってきたところで、まだまだどんな作家なのか知られていないのが現状です。 そこで今回はエドワード・ホッパーの来歴や画風、代表作などをアートリエ編集部が解説します。
エドワード・ホッパーとは
エドワード・ホッパーはその人生のほとんどをニューヨークで過ごし、アメリカの近代生活の情景を描いて名声を博した、アメリカを代表する画家の一人です。
現実の光景をそのまま写し取るのではなく、彼の視点で切り取られ歪曲された風景は、まるで舞台か映画の一場面のよう。絵画に漂う静寂と孤独感が観る者に物語を感じさせ、共感や没入を促します。
一度見たら心に残り続ける独特な絵は多くのパロディ作品を生み出し、ホッパーの名前は知らなくても作品は見たことがある、という人が多いのも特徴です。
エドワード・ホッパーの来歴
今でこそ高く評価されているホッパーですが、画家として成功したのは40代になってからと、かなり遅咲きです。
彼の絵画が世間に認められるまでには、多くの苦労や葛藤がありました。ホッパーがいかにして彼独自の画風に辿り着き、名声を勝ち取ったのか、その来歴を追ってみましょう。
生い立ち
エドワード・ホッパーは1882年、ニューヨーク州ナイアックに生まれました。地元で洋品店を営む父と、芸術に造詣の深い母の下、二歳年上の姉と共に育ちました。
若年期〜学生時代
ニューヨーク商業美術学校でイラストを学んだ後、ニューヨーク美術学校に入学。六年間の在学期間の内、最初はイラストを学び、後に絵画を学びました。師事したのはロバート・ヘンライ、ケネス・ヘイズ・ミラー、ウィリアム・メリット・チェイスらで、中でもロバート・ヘンライは、芸術の上でというより人柄の面でホッパーの重要な師でした。
フランスの画家を推奨していたこの師の影響で、卒業後の1906年から1910年の間に三回ヨーロッパに赴き、旅行の大半をパリで過ごしたホッパー。パリで本格的にフランス絵画に触れた彼は、印象派に傾倒していきました。
不遇の時代
パリでの短期滞在を繰り返している間から、ニューヨークでは生活のためにイラストレーター兼デザイナーとして活動を始めていました。
しかしホッパーはこの商業的性質の強い仕事が大層嫌いだったそう。そのため画家としての自立を目指し、並行して絵画を制作していました。ただ、残念ながらそれらの作品は全く評価されなかったのです。
当時のアメリカでは、初期のホッパー作品のようなヨーロッパ的な作品は受け入れられませんでした。特に1910年代後半以降はナショナリズムが台頭し、アメリカ人作家はアメリカの画題を描くべきという風潮が顕著になっていました。極端に言えば、アメリカ的な作品を描けば何であれ賞賛されるような時代。
しかも売れない画業とは反対に、イラストレーターの仕事は非常に成功していました。数々の雑誌にイラストが掲載され、ひっきりなしに依頼が舞い込むので、絵画制作にかけられる時間は限られてしまいました。思うように絵が描けず、ホッパーは苦悩します。
栄光の時代
ようやく評価されるようになったのは1920年代、40歳を過ぎてからのことでした。この頃、彼の画風はヨーロッパから脱却し、細部を詳しく描写するリアリズム的な手法を用いてアメリカの風景を描くようになっていました。
もちろんまるきり絵が変わったわけではなく、初期から繰り返し描いていたモチーフは画業の後期にも継続して現れていますし、彼特有の光の使い方なども初めの頃から見られています。要は自分なりの落とし所を見つけ、方向転換を果たしたのです。
とりわけ1929年に世界恐慌が起こると、世の中の暗いムードがホッパーの絵と符合し、急速に作品の価値が高まりました。その後は数多くの賞を受賞して一躍時の人となったのでした。
ちなみに絵が評価されるようになってからも浮かれず、慎ましやかな生活を送っていたのだそうです。
エドワード・ホッパーの画風
エドワード・ホッパーの絵は構図や光線などに独自の方法を用いて作り上げられています。彼の様式を構成しているのは、どのような要素なのでしょうか。
彼は油絵と商業イラスト以外に、水彩画やエッチングも手掛けているので、そちらも合わせてご紹介します。
同時代のアメリカ美術との関わり
ホッパーを取り囲むアメリカ美術の世界には、いくつかの芸術運動が存在していました。
まず彼の師、ロバート・ヘンライがその創始者の一人でもあるアシュカン派。下町や労働者の日常などを題材とし、それを写実的に描写しました。
そしてアメリカン・シーン絵画。アメリカの芸術家としてのアイデンティティを重視し、アメリカらしいテーマに取り組んだ画家たちによる絵画です。大別して抽象的な系列と写実的な系列があり、ホッパーは「アメリカの特性というものは画家自身の中に存在する。つまり、それを求めて努力することはない」と批判しています。
特に抽象画系列について「知的な思いつきだけであり、そこには心から感じるものは何もない」と痛烈に非難しています。実際は抽象画もホッパーの絵も鑑賞者の想像を喚起するという点で、大きな差はないようにも思われますが、精神の上で激しく対立していました。
他に、都市環境を描写したフォーティーンス・ストリート・スクールなども活動していましたし、ヨーロッパの抽象芸術がアメリカへ流入してきた時代でもありました。
ホッパーはこれらの諸流派には与せず、写実的でありながらシュルレアリスムに近い、独特な画風を研ぎ澄ませていきました。
現代のアメリカ生活のビジョンの反映
ホッパー以上にアメリカの特性をよく把握して描く画家はいないとまで言われていますが、彼は摩天楼などいわゆるアメリカを連想させるようなモチーフは一切描きませんでした。リージョナリズム(地方主義)や「アメリカが一番」というような思想も、微塵も見られません。
そういったイメージのアメリカではなく生活の中で見かけた近代生活の光景を画面上に再構成したのでした。そこには自然と隔てられた近代文明の中の、孤独な人間の姿があります。
こうした理由から彼の絵は、当時のアメリカが舞台であることがはっきりと分かる上に、時代を超えた普遍性を持っているのです。
単純化された構図と色彩
彼の作品は一見写実的ですが、考え抜いた構図とデザインで日常を非日常へと変換しています。この異化作用がホッパーの最大の特徴です。後期になればなるほど、細心の注意を払って不要なディティールを捨て去り、構図と色彩を徹底的に簡素化していきました。
単純化した画面では、あるものが極端に強調されたり、逆に排除されたりしていて、暗示に満ちているように思わせます。それが観る者を絵に惹きつけ、どんな物語が隠されているのかと考えさせるのです。けれどホッパーの絵は詳細を語りませんし、見方も限定されていません。そのため絵を見ているうちに、鑑賞者はいつの間にか自分を重ね、自身の内面を覗き込むことになるのです。
ちなみにホッパーは「様式、色、形態は目的のための手段」であり、「関心を抱いているのは、経験と感情」だと述べています。彼の目論見は成功し、まさしく様式によって、鑑賞者の経験と感情が引き出される絵だと言えるでしょう。
大胆な明度対比、強調された輪郭線
彼は光の扱い方も独特です。光と影の対比はある場所では輪郭を強調し、またある場所では曖昧にしています。色よりもむしろ光で、物の境界線を自在にコントロールしているのです。この作為的な光も、作品に人工的で不思議な感じを与えています。
中でも建物に当たる白い光が印象的です。強い光は当たった部分を浮き立たせながら、他の部分に濃い影を作り出します。全く物に溶け込まないまばゆい光は、冷酷にすら感じられます。
孤独な印象を与える人や家
ホッパーの絵に描かれるモチーフはいつも孤独です。人々は消耗して、自分の内側に閉じこもっています。家は自然の中にぽつんと佇んでいます。街はがらんとして、子供のいないこの世界には未来もないようです。
こういったものが組み合わさり、互いに密接に関係し合うことで、それぞれがより孤立していきます。
水彩画
ホッパーは1923年に水彩画を始めました。水彩画は彼にとって、気の向くままに描ける習作でした。制作は戸外で行われ、旅の間に描くことも多かったといいます。
油彩画の方はほとんどの場合スタジオで描かれ、入念にモチーフを定め構図を考えて作り上げていく難しい作業だったため、自由な水彩画は息抜きのような存在だったのかもしれません。
エッチング
水彩画より前、1915年にはエッチングを始め、以降8年間におよそ75点を制作しています。制作のきっかけは金銭的な理由でしたが、結果的に彼の画業に寄与することになりました。
まず、エッチング技法は大変で、強い集中力と構図力を身に付けるのに役立ちました。それにエッチング作品が好評を得たことは、油彩画が売れていない時期のホッパーに、作家としての自信を持たせてくれたのでした。
エドワード・ホッパーのエピソード
自分自身や作品について多くは語らなかったというホッパー。そんな彼のエピソードのいくつかを抜き出してみました。作家本人を知ることで、作品の理解も深まるかもしれません。
フランスへの傾倒
彼の画業の原点はフランスの印象派にあります。
アメリカ全体の傾向としても、1900年代まではヨーロッパの文化が基盤にあり、伝統あるヨーロッパの芸術を崇拝していました。ホッパーもその流れの中にいたのです。
彼は特にエドゥアール・マネとエドガー・ドガに強い影響を受けました。そういった画家の模倣からスタートしたホッパーの初期作品は、柔らかで細部を簡略化した、実に印象派的なタッチで描かれています。
国内や隣国への旅行
生涯を通じてニューヨークに住み続けたホッパーは、同時に旅も愛していました。三度のヨーロッパ旅行は彼の一番の遠出でしたが、もっと近場へは晩年まで度々小旅行で訪れていました。
若い頃は定期的にニューイングランド地方のメイン州を旅して回っていますし、結婚後は夫婦で南西部を何度も訪れています。隣国のカナダやメキシコへも赴きました。
さらに1933年にはマサチューセッツのサウス・トルロの土地を購入。スタジオを建てて、毎年夏から秋にかけてはそこで過ごすようになりました。
描きたいモチーフを探したり、旅先で制作をしたり、旅行は彼の創作のために必要な時間でした。
妻ジョセフィン・ニヴィソンとの結婚とブレイク
1924年に結婚した妻、ジョー(ジョセフィン・ニヴィソン)は、ホッパー同様ニューヨーク美術学校で学んだ画家でした。時には大喧嘩もした二人ですが、ホッパーが亡くなるまで四十年以上連れ添いました。
ジョーは生活のパートナーであると同時に、絵のモデルを務め、さらに批評家とマネージャーも果たし、夫の成功を手助けしました。
エドワード・ホッパーの代表作
エドワード・ホッパーの最も有名な作品、「ナイトホークス」をはじめとする代表作を四枚ご紹介します。これらの絵には彼が繰り返し用いたモチーフや独特な技法が明確に表れています。
ホッパー入門に、まずはこちらの作品をぜひチェックしてみてください。
ナイトホークス
1942年作。夜、煌々と明かりのついたバーに居合わせた、四人の人物。彼らを覗き見するような視点で捉えています。
グリニッチ街にあるレストランに着想を得た作品で、その情景を単純化・誇張することで大都市の孤独を表現しています。ホッパーの代名詞的作品ですが、実はホッパーの絵としては珍しい点もいくつか見られます。
まず画面の大部分を占める大きなガラス。彼の描く窓には通常ガラスは嵌め込まれておらず、室内と外を隔てるものが見える形で描かれているのはこの作品のみです。
また、カウンター内の人物はカップルに声をかけているようです。描かれた人々の間に対話があるように見えるのも珍しいことです。ただしこの描写によって、却って左の一人客の孤独が強調されています。孤独はホッパーのお決まりのテーマであり、「ナイトホークス」ではこの男性こそが絵の中心なのではないかと思わされます。
オートマット
1927年作。夜の食堂で一人コーヒーカップを見つめている女性の姿が描かれています。背後の窓から外は見えず、室内が反射して暗い中に電灯が並んでいます。それはまるで内省的な女性の心理を表現しているかのようです。
左手だけに手袋を嵌めているなど、細かいポイントも不自然な雰囲気を作り出すのに一役買っています。ちなみにタイトルのオートマットとは自動販売機のことで、舞台が自動販売機式食堂であることを示しています。
線路脇の家
1925年作。ホッパーは道路や踏切といったモチーフを執拗に描いています。それら文明の象徴は自然の中に巧妙に配され、文明と自然の分離を明示します。
「線路脇の家」もそういった作品の一つ。空虚な空を背景に、線路と家が描かれています。工業化以前のスタイルの家はここでは自然側の要素であり、文明を象徴する線路と対立しているのです。
家の基礎部分が線路によって隠されているため、非常に不安定で孤独な表情を浮かべています。
夜のオフィス
1940年作。どこか白々しい光に照らされたオフィスで、二人の男女が働いています。室内には不自然さが漂っており、何か奇妙なことが起こりそう、或いはすでに起こっているという気がします。実際、この作品は当初「内密にて。1005号室」と名付けられていたそうです。
高架鉄道から見えたオフィスの風景が制作のきっかけとなっており、ホッパーはこの作品で「私にとっては明確な意味をもつオフィス家具を使って、孤独で寂しい感じを出すこと」を目指したと語っています。
エドワード・ホッパーを収蔵する主な美術館
エドワード・ホッパーの作品を観るなら、やはり本国アメリカです。中でもおすすめの美術館をピックアップしました。アメリカを訪れる際はぜひこれらの美術館に立ち寄って、ホッパー作品の実物を観てみてくださいね。
ホイットニー美術館(アメリカ)
1931年にニューヨークのマンハッタンに開館した美術館で、アメリカのモダンアートを牽引する存在です。
ホッパーの死後、妻のジョーが彼の作品をすべてここに寄贈したため、油彩・水彩・エッチングなど三千点以上の作品が収蔵されています。一部は常設展で観ることができます。
ニューヨーク近代美術館(アメリカ)
こちらもニューヨークにある、モダンアートの殿堂です。現代美術の発展に寄与してきた存在で、世界的にも頭文字を取った略称「MoMA」の名前で親しまれています。
ホッパーとも関わりの深い美術館で、1929年に開館した翌年に「線路脇の家」が収蔵されています。1933年に開催された大規模な展覧会は、ホッパーが名声を得るきっかけにもなりました。
シカゴ美術館(アメリカ)
1879年に開館した、メトロポリタン美術館とボストン美術館に並ぶアメリカの三大美術館の一つです。国や時代を問わない充実したコレクションの総数は三十万点を超えます。
1942年、完成間もない「ナイトホークス」を購入し、今も収蔵しています。
デモイン・アート・センター(アメリカ)
アイオワ州にある美術館で、現代アートを中心に約五千作品を所蔵しています。その中には世界的なアーティストの作品も含まれており、ホッパー作品では「オートマット」が収蔵されています。
まとめ:閉ざされた奇妙な世界を描いた画家、エドワード・ホッパー
エドワード・ホッパーの絵画は、一見するとリアルなようでいて、実は何とも奇妙です。その孤独で静かな風景を観ているうちに、知らず知らず自身を省みていることに気付きます。
今回記事を読んで下さった皆さんも、ホッパーの世界がますます気になってきたのではないでしょうか。
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