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2024.08.01

黒田清輝とは?来歴や画風、代表作、そして社会問題にまで発展した「腰巻事件」まで詳しく解説します!

黒田清輝とは?来歴や画風、代表作、そして社会問題にまで発展した「腰巻事件」まで詳しく解説します!

黒田清輝は、明治から大正時代にかけて活躍した洋画家です。日本が近代国家へと生まれ変わろうとしていた時代に、黒田清輝の作風や思想は文芸界全般に大きな影響を与えたといわれています。日本美術史を語るうえで欠くことができない存在といわれている黒田清輝は、どんな画家だったのでしょうか。

黒田清輝の特徴や魅力、そして功績について、アートリエ編集部が詳しく解説します。

黒田 清輝とは

黒田清輝は、明治から大正時代に活躍した洋画家です。

1884年(明治17年)にフランスに留学し、フランス絵画の影響を受けた作品を数多く制作、東京美術学校西洋画科の新設にも活躍しました。外光派と呼ばれる明るい画風を日本の美術界に持ち込み、西欧絵画の正統を根付かせようとさまざまな分野で活動しました。当時としては革新的な作品が、社会的な事件に発展したこともあります。

またフランスの印象派の影響を受けたみずみずしい作品を発表する一方、後進育成のために美術行政に尽力したことでも知られています。「近代洋画の父」と呼ばれた黒田清輝は、画家としても教育者としても歴史に残る功績を残した偉人です。

黒田 清輝の来歴

黒田 清輝

日本の美術界に大きな足跡を残した黒田清輝。その来歴をご紹介します。

生い立ち

黒田清輝は1866年(慶応2年)生まれ。現在の鹿児島市に、薩摩藩士黒田清兼の子として誕生しました。幼名は新太郎。画家としては「くろだせいき」の発音で知られていますが、本来は「きよてる」と読みます。

黒田清輝はやがて叔父の黒田清綱の養子になりました。養父となった黒田清綱は幕末の王政復古運動に奔走した政治家であり、明治天皇や大正天皇の和歌の師も務めた歌人です。清輝は1872年(明治5年)に上京し、叔父の薫陶のもと教養を身につけていきます。

ラファエル・コランに師事

1884年、18歳になった黒田清輝はフランスに留学します。留学の目的は法律の勉学でしたが、黒田清輝はアカデミー・コラロッシのラファエル・コランの講義に通い、画業にもいそしみました。ラファエル・コランは、象徴主義的な作品で有名な画家です。やがて哲学者の井上哲次郎にさとされ、黒田清輝は法律学校を退学。画業に専念するようになりました。

9年に渡る留学中、黒田清輝はパリ郊外のグレー村を拠点にし、ベルギーやオランダを旅行しました。≪読書≫や≪婦人像≫を諸サロンに出展。そして1893年の春、のちにスキャンダルを起こした≪朝妝 (ちょうしょう) ≫をソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールに出品後、日本に帰国しました。

帰国後は若手の画家たちと白馬会を立ち上げ、洋画研究所を設立。コランに学んだフランスのアカデミズムと印象派を折衷した外光派によって、正統の洋画の普及を目指しました。

美術家・美術教育家として活動

画家として有名な黒田清輝ですが、明治時代にフランスに留学した彼は開明的な思想の持ち主でした。留学の経験を活かし、美術教育家としての活動も活発に行っています。

留学から帰国した直後、天真道場を設けて後進の指導に当たったほか、東京芸術大学美術学部の前身である東京美術学校新設の中心メンバーになりました。同校の西洋画科の主任を務め、本格的なヨーロッパ式の美術教育を開始。博覧会審査官や文展の審査員も率先して行い、1913年(大正2年)に設立された国民美術協会の会頭、帝室技芸員となるなど、公的な場でも活躍は目覚ましいものがありました。

1917年(大正6年)には養父の跡を継いで子爵となり、1920年(大正9年)には貴族院議員に当選。アーティストとしてだけではなく、近代日本の美術行政に貢献した人生でした。

1924年(大正13年)に亡くなった際には、遺産の一部を美術発展に寄贈。その意志によって、黒田記念館が建てられました。

黒田 清輝の画風やエピソード

『昔語り』

日本における洋画を牽引した黒田清輝には、パイオニアゆえのエピソードもたくさん残っています。黒田清輝の画風やエピソードをご紹介します。

外光派を確立

外光派はフランス語で「Pleinairisme」と呼ばれ、戸外で絵画を制作し自然の空気や光を作品に再現しようとしたグループを指します。19世紀後半にフランスで盛んになった外光派を日本で普及させようとしたのが、黒田清輝でした。

黒田清輝は久米桂一郎らとともに外光表現や思想を実践し、日本の絵画に大きな影響を与えました。陰影部分の表現に紫をよく使ったことから紫派と呼ばれることもあり、大正時代中期まで日本洋画界の主流となりました。

明治美術会から独立し白馬会を発足

明治時代初期、洋風美術を推進することを目的に明治美術会が設立されました。黒田清輝も当初は明治美術会に所属していましたが、暗い作風や官僚的な組織を嫌った黒田は脱退。

1896年に久米桂一郎らとともに結成したのが、白馬会です。芸術家の自由、明るい外光派の作風が特徴だった白馬会には、文芸界の浪漫的風潮に呼応した人材が集結しました。

山本芳翠、藤島武二、和田英作といった画家だけではなく、評論家の吉岡芳陵、版画家の合田清、彫刻家の菊地鋳太郎、佐野昭も参加。明治美術会を圧倒した白馬会は、明治から大正時代の洋画の主流となったのです。

白馬会の付属として設立された白馬会絵画研究所からも、若い才能が次々に生まれています。ちなみに白馬会という名前は、メンバーたちが「白馬(どぶろくのこと)」を飲みつつ議論を交わしたことに由来しています。

腰巻事件

黒田清輝が新進気鋭の洋画家としてフランスから日本に帰国したあと、腰巻事件と呼ばれる事件が起きます。

発端は、帰国前の黒田清輝がソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールに出品した≪朝妝 (ちょうしょう) ≫でした。日本人として初入選したこの作品は、鏡の前で身支度をする裸体の女性を描いたものです。透明感のある空気の中にすらりと立つ女性の美しさは日本ではなかなか評価されず、各方面から批判されることになりました。

1894年(明治27年)の第六回明治美術展では問題視されなかったものの、翌年の内国勧業博覧会で論争を巻き起こすことになりました。作品を春画とみなす非難まで噴出したのです。

黒田清輝が描く女性の裸体については、1897年(明治30年)発表の≪智・感・情≫も問題視されることに。1901年(明治34年)の≪裸体婦人像≫には警察が介入、作品の一部を腰巻で覆うという事件に発展しました。

美しい肉体を芸術とみなす西洋古来の概念と、日本の道徳観が拮抗する中で起こった腰巻事件。西洋化に向かう日本の美術界の葛藤だったといえるかもしれません。

構想画への取り組み

黒田清輝は「知識とか、愛とか云ふ様な無形的の画題を捉へて、充分の想像を筆端に走らす如きは無論高尚なこと」と語り、歴史や神話、思想や哲学を明確なイメージにして構想画へとつなげる重要性を主張していました。

黒田清輝は特に、≪昔語り≫や≪智・感・情≫などの作品で、群像や人物の構図による構想画を追求したといわれています。歴史の逸話や抽象的な概念を、理想的な形で絵画にするという構想画への取り組みは、黒田清輝が生涯こだわり続けた課題となりました。

黒田 清輝の代表作

日本における洋画の先駆けとなった黒田清輝。その代表作をご紹介します。

朝妝(焼失)

『朝妝』

フランスに留学しラファエル・コランに学んだ黒田清輝が、若き才能を開花させて伸び伸びと描いた≪朝妝(ちょうしょう)≫。透明感のある明るさが特徴です。

女性の裸体が芸術として描かれた記念碑的作品であり、フランスのソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールで入賞した傑作でもあります。

フランスでは認められたこの作品、日本では批判の対象になりました。裸体を描いたことへのあらゆる非難に対して黒田清輝は沈黙を守りましたが、批判にめげることなく、この後も女性の裸体が描かれた作品を残しています。

残念ながら≪朝妝(ちょうしょう≫は、太平洋戦争中に焼失しています。

湖畔

湖畔

黒田清輝の作品としてはもっとも有名といっても過言ではない≪湖畔≫。箱根の芦ノ湖を背景に、うちわを持って涼む浴衣姿の女性が印象的です。切手にもデザインされた≪湖畔≫は、日本人にはなじみ深い作品になっています。

理想的な日本人女性の美として定着した≪湖畔≫は、1897年(明治33年)、第2回白馬会展に≪避暑≫という題で出展されました。「避暑(湖辺婦人)」「Au bord du lac」などのタイトルを経て、≪湖畔≫に落ち着いたという経緯があります。

重要文化財にも指定されている不朽の名作です。

読書

読書

20代半ばの黒田清輝が、フランス留学中に描いた1枚≪読書≫。黒田清輝が滞在していたグレー村の少女がモデルになっており、部屋の片隅で読書にふける姿が描かれています。

西洋において理想的な閑暇の過ごし方とされていた読書をテーマにし、技法だけではなく思想的にも新しい時代を切り開こうとした黒田清輝の心意気が伝わる一作。1891年のサロンに出品され、入選しました。

東京国立博物館が所蔵しています。

舞妓

舞妓

1893年(明治26年)、フランス留学から帰国したばかりの黒田清輝が描いた作品が≪舞妓≫です。京都の鴨川を背景に、華やかな衣装の舞妓が静かな水面から際立つように描かれています。

フランスで身につけた技法を日本的な題材に生かし、若々しくみずみずしい作品に仕上げられた≪舞妓≫。明暗の諧調や明るい色彩は、印象派に影響を受けた黒田清輝の才能がいかんなく発揮されています。

国の重要文化財に指定されている≪舞妓≫は、東京国立博物館で鑑賞できます。

黒田 清輝作品を収蔵する主な美術館・博物館

黒田記念館

出典:Wikimedia commons

日本人ならばぜひ鑑賞したい黒田清輝の作品。どの美術館が所蔵しているのでしょうか。

黒田清輝の作品が鑑賞できる主な美術館をご紹介します。

東京国立博物館(東京)

1872年(明治5年)に、日本で最古の博物館として創設された東京国立博物館。国宝や重要文化財を含む11万点超の作品を所蔵しています。

また黒田清輝の代表作、重要文化財≪舞妓≫や留学中にサロンに出展した≪読書≫も東京国立博物館所蔵。すべての時代の日本美術を楽しめる東京国立博物館で、黒田清輝の輝かしい傑作を鑑賞するのも一興です。

黒田記念館(東京)

1924年(大正13年)に亡くなった黒田清輝は、遺産の一部を美術の奨励のために役立てるよう遺言を残しました。遺族の尽力で、1928年(昭和3年)に建設が始まったのが、黒田記念館です。油彩画130点、デッサン170点が収められ、貴重な写生帖も記念館で鑑賞することができます。

黒田清輝を知りたいと思ったら最初に訪れたい黒田記念館には、肖像画や風俗画、風景画や静物画などが揃い、彼の才能を実感できます。

日本人ならばおなじみの代表作≪湖畔≫、構想画として有名な≪智・感・情≫も黒田記念館所蔵。黒田清輝の世界にどっぷりと浸ることができます。

鹿児島市立美術館(鹿児島)

黒田清輝の生まれ故郷にある鹿児島市立美術館。1954年に設立された鹿児島美術館には、黒田清輝作≪アトリエ≫があります。

フランス留学中の黒田清輝がラファエル・コラン教室の様子を描いた作品で、ともに学びのちに白馬会を創設した久米桂一郎の姿も見られます。

鹿児島は黒田清輝だけではなく、彼とともに白馬会に参加した和田英作や藤島武二の故郷でもあります。黒田清輝と日本の洋画の発展に尽くした画家たちの作品を、常設展で鑑賞できます。

まとめ:近代日本の美術界を牽引した巨匠、黒田清輝

近代日本の美術を語るうえで欠かせない画家、それが黒田清輝です。明治時代にフランスに留学し、ヨーロッパの技法を学んだ黒田清輝は、印象派の影響を受けた清明で格調高い画風が特徴の画家です。

≪湖畔≫や≪舞妓≫など、新しい技法で日本の美しさを表現するだけではなく、裸体の神々しさを描いた≪智・感・情≫などの作品を数多く制作、議論を巻き起こしたこともありました。公的な立場からも日本の美術界に貢献し、美術教育や美術行政に多大な功績を残した偉人。日本人として、ぜひ黒田清輝に興味を持ち、傑作を鑑賞したいものです。

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