シュルレアリスムとは何か
シュルレアリスムとは、第一次世界大戦後からフランスの詩人アンドレ・ブルトンを中心として起こった芸術運動で、日本語では「超現実主義」と訳されます。
シュルレアリスムの画家たちは目に見える出来事ではなく、夢や無意識、偶然といった人の意識ではコントロールできない領域を表現しようとしました。現実と虚構が入り混じった神秘的なイメージや、思わぬモチーフの組み合わせ、しばしば不気味で唐突な世界観といった特徴のあるシュルレアリスムの作品は、多くの人が一度は目にしたことがあるでしょう。しかし強烈で難解に見える作品が多いゆえに、具体的にどのような芸術運動だったのか、どのような時代背景のもとで生まれたのかなどについては知らない人も多いかもしれません。
そんな方に向けて、魅惑的な謎に満ちたシュルレアリスムの運動と代表的な画家たちについてアートリエ編集部が詳しく解説します。
シュルレアリスム誕生の背景
ダダの運動
シュルレアリスムを語る上で、ダダの運動を見逃すわけにはいきません。ダダとは、第一次世界大戦における機械による大量虐殺への抗議として、ニューヨークとチューリヒの芸術家たちが同時期に起こした芸術運動のことです。既存の道徳や美的な価値観のすべてが大戦により無意味になったことを受けて、市民社会の文化・倫理の合理性、また近代の芸術をも否定する運動を展開しました。マルセル・デュシャンはダダの代表的な芸術家として知られています。彼は既製品に自身のサインを入れたり、単純に組み合わせたりすることで芸術作品とした、「レディ・メイド」と呼ばれるオブジェ作品を生み出しました。このようにダダイストたちは無意味性と非合理性を追求し、それまでの芸術的な価値観を根底から覆すような作品を発表していきました。
シュルレアリスムの誕生
全てを無意味化しようとするダダの動きを受けて、シュルレアリスムはこれまで無意味とされてきた夢や無意識に意味を見出そうとしました。ダダの運動にも参加していた詩人のアンドレ・ブルトンは、トリスタン・ツァラとの対立を機にダダと決別し、詩人のロートレアモンやランボー、精神分析学者のフロイト、形而上絵画のデ・キリコなどに影響されながら、人間の精神を解放する具体的な方法を模索し始めます。1924年にはパリにシュルレアリスム研究所を設立し、同年に『シュルレアリスム宣言』を刊行しました。宣言によるとシュルレアリスムは精神の自由および生きることの自由を目指すために、夢や驚異、想像、無意識、狂気などに注目すると記されています。
シュルレアリスムという単語は「超現実主義」と訳されるがゆえに、しばしば「現実を超えた」世界の表現と誤解されがちです。しかし実際は現実を「超えた」というよりも、現実をさらに突き詰めて凝縮した「強度な現実」という意味です。
シュルレアリスムの代表的な画家たち
アンドレ・ブルトン
ダダとの出会いと訣別
アンドレ・ブルトンは、1896年にフランス・オルヌの貧しい家庭に生まれました。大学では医学と心理学を専攻し、特に精神疾患に興味を持ち勉強していましたが、第一次世界大戦に徴兵され勉強を中断せざるを得なくなります。大戦中に働いていたナントの精神病院でジャック・ヴァシェと出会い、彼の反社会的態度と伝統的な芸術への反抗精神に大きな影響を受けました。
ヴァシェは23歳の若さで自殺してしまいますが、ブルトンはいかなる文学作品よりもヴァシェから最も強い影響を受けたとのちに語っています。1919年に彼はルイ・アラゴンとフィリップ・スーポーとともに評論集『リテラチュール』を創刊し、のちに登場するシュルレアリスムにおける重要な手法である「オートマティスム(自動筆記)」の実験を誌上で行いました。ダダイストのトリスタン・ツァラと交流を深めてダダの活動を行うも、1922年ごろに決別します。
シュルレアリスムの中心として
1924年に彼はシュルレアリスム研究所を設立したのち『シュルレアリスム宣言』を出版し、シュルレアリスムという単語に明確な定義づけを行いました。そしてその後すぐに情報誌『シュルレアリスト革命』を創刊すると、感化された多くの芸術家たちがパリに集まるようになり、ブルトンは以後もシュルレアリストの中心的存在として、多くの著作や評論を著しました。第二次世界大戦中にニューヨークに亡命しても活動をやめることはありませんでした。代表的な著作としては『溶ける魚』『ナジャ』『狂気の愛』などがあります。
サルバドール・ダリ
シュルレアリスムとの出会い
1904年にスペインのカタルーニャ東北部フィゲラスの裕福な家庭に生まれたダリは、幼い頃から絵に強い関心を持っていました。6歳の頃に最初の油彩画を描き、10歳の頃にはピカソの友人である画家ラモン・ピチョートに才能を認められました。1922年にマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学し、当初は印象派やキュビスムなどから影響を受けていましたが、やがてシュルレアリスムに道を見出し、1927年にパリに赴き、1929年に正式にシュルレアリスムのグループの一員となりました。
ダリは1930年ごろに精神分析学者のフロイトや哲学者ラカンの研究などを援用した「偏執狂的批判的方法」と称する制作方法を確立しました。これは自身の記憶や夢、幻想や妄想に形や構造を与えて、未知の非合理なイメージを表現する方法のことを指します。この頃からのダリの旺盛な制作活動を支えたのが妻のガラでした。ガラはダリのマネージャーとしても活動し、またダリのミューズとして制作上のインスピレーションを与え続けました。
奇才の芸術家
ダリは自らを天才と称することを憚らず、彼の数々の奇行や逸話は今でも語り継がれています。「毎朝目覚めると、私は最高の喜びを感じます。それは自分がサルバドール・ダリであるということです。」という言葉を残しているように、ダリは自信家であり、自分の天才ぶりを公言していました。このような自信に満ちた発言の数々と、ワックスで整えた特徴的な髭はダリのトレードマークとなり、奇才の芸術家としてのイメージは世界中に広まりました。
マックス・エルンスト
マックス・エルンストは1891年にドイツ・ブリュールに生まれました。ボン大学で哲学を専攻し、この頃からフロイトの精神分析についての研究に触れていました。第一次世界大戦の従軍を終えるとダダの運動に参加するようになります。この頃からコラージュの制作を開始し、1922年にはパリに移住してシュルレアリスムの運動に参加しました。シュルレアリスムの運動に参加してからは特にフロッタージュの技法を用い、自身の強迫観念や幼少期の体験を基にした作品を描きました。
第二次世界大戦が始まるとアメリカへ亡命し、ニューヨークに滞在しながらデカルコマニーの技法を作品に取り入れ始め、偶然性からなるイメージを描き出します。晩年はパリの市民権を得て回顧を開催したり、またバレエの舞台装置、挿絵なども手がけました。エルンストは正規の美術教育を受けてはいないものの、生涯に渡って様々な技法を用いてシュルレアリスムの多様な表現を追求しました。
ルネ・マグリット
青年時代とキリコ作品との出会い
ルネ・マグリットは1898年にベルギーのエノー県レシーヌに生まれました。幼い頃の記録はあまり残っていませんが、少年時代は弟といたずらを繰り返す悪童だったといいます。1912年に母が謎の入水自殺を遂げてしまい、このことはマグリットに大きな衝撃を与えました。彼は1916年にブリュッセル王立美術アカデミーに入学し、キュビスム、未来派、ダダなどの運動の影響を受けながら画家としてのスタイルを模索しました。また生活費を得るために壁紙工場で製図者として働いたり、ポスターや広告のデザイナーとしても働きました。
1922年に幼馴染のジョルジェット・ベルジェと結婚し、彼女は後のマグリット作品に登場する女性のモデルとなりました。また翌年にマグリットはジョルジョ・デ・キリコの作品《愛の歌》の複製に出会い、感涙するほど大きな衝撃を受けました。このエピソードはその後の芸術的方向性を決定づけることとなりました。1927年にはブリュッセルで初めての個展を開催するも批評家から酷評され、意気消沈してしまいます。
パリ時代
個展での失敗を機にマグリットはパリに移り、アンドレ・ブルトンと友人となりシュルレアリスムの運動に参加するようになりました。3年間のパリ滞在の中で彼はシュルレアリスム運動の中心メンバーとなり、ダリやキリコ、ピカソらとともにパリのギャラリーで展覧会を行うなど積極的に活動しました。1929年には最後の「シュルレアリスム革命展」に出品し、有名な《イメージの裏切り》を出品しました。会場では『言葉とイメージ』と題したエッセイが配られ、物とイメージと言葉のあらゆる関係性について作品と文章で考察しました。
ブリュッセルへ帰還
パリのギャラリーが閉鎖されて契約収入が途絶えると、マグリットは1930年にブリュッセルに戻り、以降はほとんどベルギーを離れることはありませんでした。広告業界での仕事をしながら制作を続け、ニューヨークやロンドンで展覧会を行いました。
マグリットはダリのような奇人とは正反対の平凡な市民でした。妻と愛犬とのつましい生活の中、アトリエも持たずに台所の片隅にイーゼルを立てて制作していました。しかしそんな彼の作品は1960年代から一般に注目されるようになり、ポップアートやコンセプチュアルアートなどに大きな影響を与えました。
ジョルジョ・デ・キリコ
青年時代
ジョルジョ・デ・キリコは1888年にギリシャのヴォロスに生まれました。1900年からアテネ工科大学にてデッサンと絵画を学び、父の死後、1906年にドイツへ移住しミュンヘン美術アカデミーに入学しました。大学ではアーノルド・ベックリンやマックス・クリンガーらの絵画に学びながら、ショーペンハウアーやニーチェなどの哲学者たちの著作を読んでいました。
形而上絵画の発明
1909年から1919年にかけて、彼は「形而上絵画」と呼ばれる作品を描きました。形而上絵画は現実と神話を組み合わせ、郷愁や孤独、疎外感といった言葉では表現しがたい気分を呼び起こすような、キリコ独自の絵画のスタイルです。1920年代初めにブルトンがキリコの作品に魅了され、キリコの影響を受けた画家たちはパリのシュルレアリスムグループの中核をなすようになりました。キリコ自身もパリを訪れグループに熱烈に受け入れられましたが、形而上学的作品から古典的絵画を意識した画風へ変化すると猛烈な批判を受け、グループとの関係が悪化し、ついに訣別してしまいます。その後も彼は「ネオバロック様式」と呼ばれるスタイルを取り入れたりと、古典的な作品を描き続けました。形而上絵画の方が優れているという批評に対しキリコは不満だったようですが、実際に形而上絵画はマックス・エルンストやダリなどのシュルレアリストたちに大きな影響を与えました。同時代の画家だけでなく、1950年代から1970年代の映画監督らなど、後世にも多大な影響を与えています。
シュルレアリスムの代表的な作品
記憶の固執の崩壊
本作はダリの代表作《記憶の固執》のリメイク版として1954年に制作されました。原題は《記憶の固執の崩壊が始まっている高度に着色された魚の目の染色体》であり、1954年にニューヨークのカーステアーズ・ギャラリーで初めて展示されました。
ダリの初期の作品である《記憶の固執》はチーズのようにドロドロに溶けた時計を中心モチーフとして、懐中時計に群がる蟻や人の横顔のようなイメージが、荒涼とした風景の中に描かれています。本作はダリがフロイトの夢判断に最も影響を受けていた時代に描かれました。夢や妄想のようなイメージに形を与え現実化する手法によって、ダリ自身の性的な倒錯と固執を具現化しています。一方で《記憶の固執の崩壊》は当時ダリが関心を持っていた量子力学の影響を見ることができます。《記憶の固執》の画面左側にあった机のような平面と地面はブロック状にバラバラになり、原子ミサイルを象徴する尖った筒状のモチーフが浮遊しています。「物理学の世界は、心理学の世界を超越している」とダリが述べたように、本作ではフロイトの影響から脱して、人類に破滅をもたらす現実世界の脅威を表現しています。
ゴルコンダ
《ゴルコンダ》は1953年に描かれたマグリットの代表作です。「ゴルコンダ」とは、1687年にムガル帝国によって滅ぼされたインドの都市の名前で、マグリットの友人である詩人のルイ・クテネールによって名付けられました。赤い屋根の建物と青空を背景として、黒いオーバーコートと山高帽を被った何十人もの男性が浮遊しています。これはマグリット自身もよく着ていた服装であり、ごく普通の目立たない人間の象徴として他の作品にも多く登場します。本作において男性たちはクローン人間のように同じに見えますが、実はよく見ると一人一人の顔が異なっています。集団と個の表現、タイトルと描かれたモチーフの飛躍といったマグリットの作風の特徴がよく表れている作品と言えるでしょう。
大家族
マグリットの作品として日本でも有名な《大家族》は1963年に制作された作品で、現在は宇都宮美術館に所蔵されています。
波が押し寄せる海の上に曇天の空が広がっており、巨大な鳥の形が空を切り抜くように描かれています。鳥の輪郭の内側には青空が広がっています。マグリットは大空を見ると鳥を連想し、鳥を見ると大空を連想したそうで、このようなモチーフの関係を彼は「選択的親和性」と呼びました。マグリットは他の作品において鳥を幸福の象徴としていることから、本作の鳥も家族の愛や連帯を表すものであるという説があります。「大家族」というタイトルは「ゴルコンダ」と同じく、言葉と描かれているもののずれを生じさせており、鑑賞者の深い思索を誘うものとなっています。これこそマグリットが得意とした手法であり、彼が哲学的な画家と言われるゆえんでもあります。
通りの神秘と憂鬱
《通りの神秘と憂鬱》は1914年に制作されたデ・キリコの代表作です。極端な遠近法によって黄色に輝く道が遠くまで続いており、輪を転がす少女ともう1人の人物が影となって道に映っています。左側には白い壁のアーケードが、右側には暗い陰の中に建物と馬車が描かれています。本作が描かれたのは第一次世界大戦が始まった直後であり、またキリコが従軍する前年でした。戦争への不安が表現されているようにも見え、実際にキリコは「戦争の結果は、おそらくこのような絵のものになる」とも語っています。本作はキリコの形而上絵画の代表的な作例であり、不思議な孤独感と不安感を誘うキリコ作品の特徴がよく表れています。
沈黙の眼
1943年から44年にかけてマックス・エルンストが制作した《沈黙の眼》は彼の代表作として知られ、のちにSF作家の多くに影響を与えました。曇り空の下で、硬い奇岩のようなものと有機的な柔らかいものが渾然一体となったものが高くそびえており、所々に目のようなものが描かれています。植物のようであり、岩石のようでもあり、有機的な建物のようにも見える不思議なモチーフが池の周りを囲っています。本作は、絵の具を乗せた紙を畳んだり他の紙で押し当てて偶発的な模様を得るデカルコマニーの手法が使われています。偶然できた模様を生かして岩石や構造物に似たモチーフを描き出しました。第二次世界大戦のさなか描かれた本作は、破壊と再生、死と生が混ざり合ったような不穏な世界を描いているようにも見えます。
シュルレアリスムの主なテーマと特徴
シュルレアリスムの基本概念として最も重要なのが「オートマティスム」です。オートマティスムとは理性や先入観の制約から脱して、無意識な思考を表出させて書き取ろうとする手法です。シュルレアリストたちはできるだけ無意識に近い状態で浮かんでくる言葉を書きつけたり、時には身の危険を犯して催眠状態となってまで実験を行いました。
絵画制作においては、無意識の表現と偶然性を狙って様々な技法が編み出されました。既存の印刷物や写真を切り取って組み合わせるコラージュや、板や石の表面に紙を当てて凹凸を擦りだすフロッタージュ、二つ折りにした紙に絵の具をのせ、紙を開いて偶発的な模様を写し出すデカルコマニーといった手法が考案され、積極的に利用されました。このような多様な表現手法からは、シュルレアリストたちがいかに強く無意識を求め、新しい絵画表現を追求しようとしていたかがわかります。
幅広く浸透したシュルレアリスムの運動
シュルレアリスムの最初期の活動は文学において試みられ、オートマティスムの実践などによって人間の無意識の領域に光を当てました。絵画においても様々な技法が試みられ、それまでに誰も見たことのないイメージが次々と生み出されました。シュルレアリストたちはダダとは違った形で社会的な規範や抑圧を根底から覆そうとしました。シュルレアリスムはダダのように全てを無意味化するのではなく、無意味なものに意味を見出そうとした運動だと言うことができるでしょう。運動は文学や美術だけにとどまらず、映画、演劇、音楽、政治などの領域にも波及し、各分野において多大な影響を及ぼしました。
シュルレアリスムは1920年代の日本にも大きな影響を与えました。当初はまず詩の分野で開花し、1930年代ごろから絵画へ波及しました。画家としては古賀春江、福沢一郎、阿部金剛、三岸好太郎、北脇昇などが代表的です。また日本では「ナンセンス」や「不条理」といった意味合いで「シュール」であるという表現を俗語で使いますが、これはシュルレアリスムが語源となっています。
現代におけるシュルレアリスムの受容
現代においてもシュルレアリスムの作品は高い人気を誇っています。特に2010年代に入ってからシュルレアリスムのアートマーケットはどんどん拡大しました。
中でもマグリットの作品は近年人気が高まっており、この数十年のオークション価格は急上昇しています。2022年に行われたロンドンのサザビーズオークションでは、マグリットの代表作の一つ《光の帝国》が、当時のレートで約91億6050万円で落札されて大きな話題となりました。この結果はベルギーのシュルレアリストおよびマグリットのオークションでは新記録となりました。他には特にジョアン・ミロやダリの作品が高値で取引されています。シュルレアリスムの作品は現代でも根強い人気があり、マーケットでの注目度も年々高まっています。
シュルレアリスムの作品が楽しめる場所
スペインのフィゲラスには1万点以上に及ぶダリの作品を収蔵している「ダリ劇場美術館」があり、観光名所となっています。ダリ自身が外観デザインを手がけた建物で、スペインの中でも人気の高い美術館として有名です。またベルギー王立美術館の中にはマグリット美術館があり、200以上のマグリットの作品が所蔵されています。
日本では福島の諸橋近代美術館でアジア随一の規模と言われるダリのコレクションを見ることができます。横浜美術館や箱根のポーラ美術館、群馬の大川美術館ではダリのほか、マックス・エルンストやマグリットの作品を見ることができます。
まとめ
シュルレアリスムは当時の芸術分野に幅広く影響を与え、個性的な芸術家を多数輩出した運動であることがお分かりいただけたと思います。彼らの作品は、現代に生きる私たちにも新鮮で知的な驚きを与えてくれ、未だに衰えぬ人気を誇っています。
アートリエでは世界に大きな影響を与えた美術様式や、芸術家の生涯などについての解説記事を今後もアップしていきます。
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