アールヌーヴォーとは何か
「アールヌーヴォー」という優美な響き、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
日本でも大人気のアールヌーヴォーは、19世紀終わりから20世紀初めにかけて流行した美術やアートを指します。当時、ヨーロッパでもてはやされたジャポニズム(日本趣味)の影響も受けました。神秘的で世紀末的な魅力が特徴のアールヌーヴォー、モチーフにした文具やグッズもたくさん売られています。
「アールヌーヴォーという言葉は知っているけど実際はどんなアート?」と思う方も多いはず。この記事ではアールヌーヴォーの特徴や魅力について、アートリエ編集部がわかりやすくご紹介します!
アールヌーヴォー誕生の背景
世紀末美術とも呼ばれるアールヌーヴォーは、どのような時代に誕生したのでしょうか。アールヌーヴォーが生まれた当時の時代背景を解説します。
アールヌーヴォーはどんなふうに生まれた?
アールヌーヴォーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米に広がった装飾美術です。フランス語で「新しい芸術(Art Nouveau)」という意味があります。
この名称は、1895年末に美術商のサミュエル・ビングがパリにオープンしたお店「アール・ヌーボーL’art nouveau Bing〉」に由来します。
ビングのショップ「アールヌーヴォー」には、東洋趣味の工芸品が置かれ、新時代的な装飾で人々の目を引いたそうです。ビングはマーケティングの才能もあったようで、1900年にパリで開催された万国博覧会にも有名な工芸家3人と出展しました。この展示がまた大変な人気となり、ビングのお店の名前「アールヌーヴォー」が様式名として定着したのです。 アールヌーヴォーは、豊かな曲線と女性的な抒情性が特徴。アカデミックな芸術というよりも、挿絵やポスター、工芸などの応用美術や装飾美術において傑作が残っています。
アールヌーヴォーが生まれた時代
19世紀、ヨーロッパでは貴族の没落が顕著になりました。革命や封建制の崩壊で、貴族はそれまでの特権が維持できなくなり、市民階級が台頭してきた時代。都市化や工業化の加速化もこの時代の特徴です。
こうした新しい社会の風潮を受けて、芸術の世界もこれまでにない造形を作り出そうとしていました。アールヌーヴォーも、そうした動きの中で生まれたアートです。19世紀後半、ヨーロッパで愛されていた女性的な文化「ベルエポック」も、アールヌーヴォーと相互作用をもたらしました。
この時代に日本を訪れたヨーロッパ人によって伝えられた東洋のイメージも、アールヌーヴォーに影響を与えます。アールヌーヴォーという言葉を生み出したサミュエル・ビングは、同名のショップオープン直前に月刊誌『芸術的日本』36号を刊行するほど、日本の文化に興味を持っていたことがわかっています。 1900年のパリ万国博覧会で紹介された東洋の文化は、ヨーロッパのアーティストには大きなインパクトとなり、刺激を受けた作品が次々に生まれました。印刷などの複製技術が進んだことも、アールヌーヴォーの発展に寄与したといわれています。
アールヌーヴォーは多岐にわたる芸術運動
アールヌーヴォーといえば、ポスターや挿絵が有名です。こうした絵画だけではなく、彫刻やガラスなどの工芸品、建築や室内装飾にまで影響を及ぼしたのがアールヌーヴォーです。
アールヌーヴォーの代表的な芸術家には、絵画のミュシャ、ガラス工芸のガレやルネ・ラリックなどが有名ですが、イスや壁紙などをデザインしたウィリアム・モリスもいます。
いずれも、植物をモチーフにした優雅なラインが特徴で、現在も絶大な人気を誇っています。
アールヌーヴォーの代表的な画家たち
幻想的な画風が特徴のアールヌーヴォーの絵画。とくにミュシャは日本でも大人気です。
アールヌーヴォーの代表的な画家たちについて、ミュシャを中心に詳しく解説します。
アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)
アールヌーヴォーの代名詞ともいえる画家、それがアルフォンス・ミュシャです。女性と花が美しいミュシャの作品は、誰もが1度は目にしたことがあるのではないでしょうか。ミュシャは1860年生まれ。チェコスロバキア東部、モラヴィア出身です。
6人兄弟の3番目に生まれたミュシャは、子どものころから優れた画才を見せていました。「走ることよりも先に絵を描くことを習得した」という言い伝えものこっています。ところがその才能はアカデミーの世界では認められず、プラハの美術学校は不合格。ミュシャはウィーンの舞台美術の工房で働いた後、25歳でミュンヘンに向かいます。ミュシャの才能に着目したある貴族がパトロンとなってくれたため、ミュンヘンの国立美術アカデミーで学ぶことができたのです。そして1888年、ミュシャはパリに移住します。1890年頃には援助が打ち切られたため、ミュシャは挿絵画家として自活するようになりました。
ミュシャに幸運をもたらしたのが、世界的な名声を誇った大女優サラ・ベルナールとの出会いです。1894年の暮れ、ミュシャはサラ・ベルナールの作品を制作する幸運を得て、大流行画家の仲間入りをしました。《ジスモンダ》《椿姫》《ロレンザッチョ》《ハムレット》など、6年に渡ってサラ・ベルナールのポスターを描き、画家として不動の地位を築いたのです。
ミュシャがサラ・ベルナールのために描いた華麗な女性像と花は、アールヌーヴォーの典型的な様式として定着しました。イタリアではアールヌーヴォーのことを《花の様式》と呼びますが、これはミュシャの画風によるものです。この画風は、女性的な「ベルエポック」の象徴としても普及していきました。
不動の名声を手にしたミュシャはその後、アメリカを旅し、教鞭も取りました。1910年にチェコスロバキアに帰国、1913年にロシアを旅してスラブ民族としての意識に目覚めます。1918年から手掛けた大作《スラブ叙事詩》は、全20作の大作。その後もプラハで国章やステンドグラス、切手、紙幣のデザインを手掛けたほか、聖ビート大聖堂のステンドグラスの意匠を担当しました。晩年は写真家としても活躍しています。
ミュシャは彫刻家のロダンとも親交があり、相互に影響し合ったといわれます。しかしミュシャが目指したのは、高尚な芸術ではなく、大衆のためのアートでした。広告の媒体に過ぎなかったポスターの価値を高めたのも、ミュシャの功績と言えるでしょう。
オーブリー・ビアズリー(1872-1898)
アールヌーヴォーの代表的な挿絵作家として有名なオーブリー・ビアズリー。流麗な線、黒と白の対比、デカダンなイメージがビアズリーの特徴。イギリス世紀末美術の鬼才と呼ばれる所以です。
オーブリー・ビアズリーは1872年、イギリスのブライトン生まれ。若い頃は、ロンドンの保険会社に勤めていたビアズリーは、ラファエル前派の巨匠バーン=ジョーンズに見いだされ、ウエストミンスター美術学校の夜間コースに通いました。
ラファエル前派や日本の浮世絵の影響を受けて、独自のスタイルを確立したビアズリー。1892年、若き出版者ジョゼフ・デントの依頼で、マロリーの『アーサー王の死』の挿絵を担当しデビューしました。
古典的なポーズ、浮世絵的な装飾性、複雑な構図など、ビアズリーの魅力は流行作家オスカー・ワイルドの心を捉えました。その結果誕生したのが、オスカー・ワイルドとの共作『サロメ』です。ワイルドの耽美的な作風はビアズリーのスタイルと奇妙に合致し、発表当時から大いに話題になりました。
ビアズリーは挿絵作家として文芸雑誌『イエローブック』 や『サヴォイ』 の創刊にもかかわっています。
オスカー・ワイルドとは恋愛関係もささやかれたビアズリー。ワイルドと並んで、1890年代後半のイギリス世紀末のシンボルとなっています。独特の官能的な雰囲気は唯一無二の魅力です。
1898年、25歳の若さで惜しまれながら亡くなりました。
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928)
アールヌーヴォーの画家の中でも多彩な才能を発揮したのが、チャールズ・レニー・マッキントッシュです。1868年にイギリスのグラスゴーで生まれたマッキントッシュは、グラスゴーの美術学校で建築や設計を学び、1891年にイタリア留学。美術学校の仲間と「四人組」というグループを結成しました。
マッキントッシュの活躍は1893年頃から本格化。植物や古代ケルト人のモチーフを用いたポスターや工芸品は、アールヌーヴォーの代表的な傑作として認められています。マッキントッシュもまた、ミュシャやビアズリーと同じように浮世絵の影響を受けたひとりです。
食器や家具のデザイナーとしても活躍したマッキントッシュですが、晩年は水彩画に専念し、画家としての人生を全うしました。
斬新な構図、人体や植物をベースにした躍動的な曲線が、マッキントッシュの絵の特徴です。のちのウィーン分離派と呼ばれる芸術運動にも大きな影響を与えた人でした。
コロマン・モーザー(1868-1918)
19世紀の芸術を表現する要素のひとつに、「幻想」があげられます。とくにビアズリーの作品は幻想的と言われますが、アールヌーヴォーの幻想性はのちに「ウィーン分離派」の誕生に影響を与えました。
ウィーン分離派と聞いてもピンときませんが、このグループの代表が有名なクリムトです。コロマン・モーザーはオーストリアのウィーン生まれ、クリムトとともにウィーン分離派を創設したひとりです。
モーザーは世紀末のウィーンで活躍したアーティストの中でもとくに、日本美術の影響を強く受けたといわれています。挿絵や絵葉書、ポスターなど、寓話や神話をテーマに多数の作品を生み出しました。 装飾性と表面性を強調した、強いインパクトがモーザーの魅力です。
ジュール・シェレ(1836-1932)
芸術の国フランスを代表するアールヌーヴォーの画家が、ジュール・シェレです。カラーリトグラフやポスターの発展を語るうえで、外せない芸術家のひとり。
シェレはパリ生まれ、父親は印刷職人でした。シェレ自身も13歳で石板工の見習いになり、職を転々としながら国立デッサン学校で学びました。1859年から滞在したロンドンで印刷技術を取得、そのあとはパトロンを得てアフリカやイタリアを見聞しています。
古典作品に刺激を受けたシェレはパリに戻り、カラーリトグラフやポスターの製作を開始。ぼんやりとした背景からくっきりと浮かび上がる人物像はみなしなやかで、南欧らしい陽気さを振りまいています。
シェレは生涯に1000点を超えるポスターを制作、ベルエポックやアールヌーヴォーを体現したアーティストとして確固たる地位を築きました。
テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(1859-1923)
スイスに生まれ、フランスで活躍したテオフィル・アレクサンドル・スタンラン。パリのモンマルトルに住み、庶民の生活の哀歓を作品に残しました。その豊かな抒情性は、若いピカソにも影響を与えたといわれています。
スタンランの代表作といえばかわいい黒猫です。スタンランが出入りしていた芸術家のたまり場「Chat-Noir(黒猫の意味)」というお店にちなんだ作品はとてもモダン。現代の私たちにも「かわいい!」と思わせてくれます。
スタンランは社会主義的な一面もあり、急進的な雑誌の表紙や挿絵も製作しました。社会的なメッセージだけではなく、人々の生きた感情が表現されたスタンランの作品は、のちの芸術家たちにも大きな影響を与えたといわれています。
アールヌーヴォーの画家たちの中では比較的地味な画風をもつスタンランですが、人々への優しいまなざしが伝わる絵は、今も多くの人の心を捉えています。
アールヌーヴォーの代表的な作品
アールヌーヴォーの絵画は、アートの知識がなくてもその魅力を感じることができます。飾ってみたいなと思える作品もたくさんあります。
アールヌーヴォーの代表的な作品について解説します。
ミュシャ《ジスモンダ》
アールヌーヴォーの記念碑的作品として燦然と輝くミュシャ作《ジスモンダ》。
1894年、大女優サラ・ベルナールのためにミュシャが描いたポスターは、2mを超える大作です。
年末のホリデーシーズンに依頼されたため時間の余裕がなく、背景の一部が白いまま。当時の状況を伝えているところが面白いですね。ビザンチン貴族の衣装を身につけたジスモンダは、舞台の最終シーンと同じように椰子の枝を手にしています。
花で囲まれた頭部の背後には、アーチ形のモザイクが後光のような役割を果たしています。この部分の装飾様式が、この後のミュシャのスタイルとなっていきました。
1895年1月1日にパリの街に張り出されたこのポスターは、センセーションを巻き起こしたそうです。サラ・ベルナールも大いに気に入り、このあと6年間、ミュシャはサラ・ベルナールを描き続けました。
ミュシャ《四季》
1895年にサラ・ベルナールのためのポスターを描いてから、ミュシャの元には注文が殺到しました。
1896年に描いた《四季》は、パリの印刷業者シャンプノワの依頼で描いた連作。シャンプノワの意見も入れながら、理想的で寓話的な女性たちをシーズン別に描きました。
春夏秋冬を表す女性たちは、初々しさ、官能性、豊穣、冷やかさとともに表現され、大変な人気を博しました。ミュシャ自身も、この作品を機軸にしてスタイルを発展させていった経緯があります。
ミュシャは同じテーマで1897年にも連作を描いています。
ビアズリー《サロメ》
1893年にパリで出版されたオスカー・ワイルドの劇《サロメ》。1894年にビアズリーによる挿絵入りで英語版で出版され、アールヌーヴォーの代表作となりました。当時のビアズリーは若干22歳。鬼才と称されたビアズリーによって、《サロメ》は世紀末的幻想を体現する名作となったのです。
アールヌーヴォーの時代にもてはやされた「ファム・ファンタール(運命の女)」風の官能が随所に見られ、鑑賞する人に強いインパクトを残します。
日本の美術や文学にも影響を与えた傑作です。
スタンラン《黒猫一座の巡業》
パリのモンマルトルにあった「ル・シャ・ノワール(黒猫)」は、芸術家たちのたまり場でした。同店に集っていた芸術家のひとりスタンランが1896年に描いたのが、《黒猫一座の巡業》です。
謎めいた表情でこちらを見つめる黒猫はとてもモダン。美術史上、最も有名な黒猫といわれています。黒、赤、黄色のみで構成されているのは、印刷費を抑えるためだったという説もありますが、逆にとても強い印象を残します。
赤い台座とクルンとしたしっぽも愛嬌があり、アールヌーヴォーを知らない人にも愛される不朽の名作です。
シェレ《ムーラン・ルージュ》
フランスを代表するアールヌーヴォーの画家ジュール・シェレ。お酒とナイトライフを楽しむ《ムーラン・ルージュ》のオープンに合わせて、シェレが1889年に描いたポスターです。
《ムーラン・ルージュ》は「赤い風車」という意味。赤い風車を背景に、軽やかに踊る女性が描かれています。自由な精神を持つ世紀末的な女性の象徴として、シェレが描く女性たちは「シェレット(Cherette)」と呼ばれるようになりました。
アールヌーヴォーを象徴する素敵な女性たちが魅力的です。
アールヌーヴォーの主なテーマと特徴
モダンでファンタジックなアールヌーヴォーの作品。主にどんなテーマで描かれているのでしょうか。テーマの思想も気になりますね。 アールヌーヴォーの絵画作品におけるテーマと特徴を解説します。
ベルエポックの影響を受けて女性が主役!
アールヌーヴォーは、ベルエポックと同時期に開花した芸術。「良き時代(Belle Epoque)」とはその名の通り、パリの万国博覧会を中心に明るいニュースが多かった時代です。19世紀末から第1次世界大戦開始前までの、幸福な時代でした。
ベルエポックは女性的な文化と表現されますが、新しい化粧方法や宝飾品が美しい女性たちを飾り立てた華やかさも特徴。女性たちが美しく描かれ、現在も女性たちに人気があるアート。それがアールヌーヴォーの特徴といえますね。
アールヌーヴォーの主題は?
アールヌーヴォーは舞台やポスターと関連し、大衆にウケた芸術です。テレビがなかった時代、人々は舞台や音楽に娯楽を求めていました。
ミュシャが女優のサラ・ベルナールのポスターを描いたことから始まったアールヌーヴォーは、世紀末の文学や舞台と結びついて、数多くの傑作を生みだしました。
自由な女性、庶民階級の女性たちもアールヌーヴォーの主役。フェミニズムの観点からも大きな意味を持つアートといえます。
アールヌーヴォーの思想は?
アールヌーヴォーは、それまでのアカデミズムに対抗する形で生まれたアートです。油絵として描くのではなく、工業化によって進化した印刷技術によって庶民階級に広がりを見せました。
自然主義の画家たちがこだわった奥行きには重きを置かず、あくまで平面的な表現が一般的。明快で分かりやすいことを第一に考えたのがアールヌーヴォーです。
この思想が、アートには興味がない人にも愛される理由といえるでしょう。
アールヌーヴォーとその後の世界
アールヌーヴォーは、その後の芸術や文化に大きな影響を与えました。大衆に夢を与えたアールヌーヴォー、その後の世界を解説します。
アールヌーヴォーの日本への影響
ヨーロッパのジャポニズムに影響を受けたアールヌーヴォーは、日本に逆輸入されるという経緯をたどります。明治30年代にはアールヌーヴォーは日本の知識層によく知られるようになり、1900年のパリ万博を見聞した日本人によって広がりました。
画家の黒田清輝もアールヌーヴォーに影響を受けたといわれ、彼から刺激を受けた杉浦非水が日本のグラフィックデザインの祖となったのです。
1900年発刊の雑誌『明星』の表紙も、アールヌーヴォー風のテイストになっています。
アールヌーヴォーと象徴主義の関係
「象徴主義」は、1880年頃のフランスで生まれた概念です。文学の世界で誕生した「象徴主義」はやがて、アートの世界にも浸透。19世紀終わりに活躍したゴーギャンは、象徴主義を代表する画家とされています。
象徴主義とはどんな芸術なのでしょうか。
19世紀初頭まで芸術の機軸であった写実主義の反動で生まれた美術運動で、「個」の内面的な表現や情緒的世界の探求を特徴としています。代表的な作品はムンクの《叫び》。
アールヌーヴォーとは同時期に盛んになり、複合しつつ普及していきました。
象徴主義はやがてウィーン分離派などを生んで、クリムトもこの流れにあります。
アールヌーヴォーとアールデコの違いは?
アールヌーヴォーとよく似た響きを持つ「アールデコ」。この2つのアートにはどんな違いがあるのでしょうか。19世紀終わりに盛んになったアールヌーヴォーと異なり、アールデコは20世紀に入ってから生まれた芸術です。
1925年にパリで開かれた「現代装飾美術・産業美術国際展」の特色を示す言葉で、本来は「アール・デコラティフ(装飾芸術)」という名称でした。アールヌーヴォーは、うねるような曲線によって描かれるのが特徴でした。一方アールデコは、ジグザグや同心円などの幾何学をベースにする作品が目立ちます。
機械中心の時代の象徴でありながら、合理的精神よりもエレガンスを際立たせるところもアールデコの特色。 アールデコの流れには、有名なファッションデザイナー、ココ・シャネルがいます。
アールヌーヴォー、現在の評価は?
アールヌーヴォーの作品、現在の評価が気になりますね。
アートの世界におけるアールヌーヴォーの評価、作品の価格についてご紹介します。
再評価が高まるアールヌーヴォーの作品
アールヌーヴォーの作品は、発表された当初の評価は決して高くありませんでした。それまでの高尚な美術ではなく、大衆を対象にしたアートであったことがその理由です。
アールヌーヴォー以前は二義的な要素とされていた装飾が強調された点も、当時の批評家たちには不評だったようです。
しかしアールヌーヴォーの独特の曲線と美しい装飾によって、ポスターや挿絵も芸術品として評価されるに至りました。 近年、アールヌーヴォーは再評価されています。後世のアートに大きな影響を与えたことや可能性を広めたことが理由にあげられます。そしてなによりも、「アールヌーヴォーの作品は時代を超えて人気がある!」という事実が、価値を高めたことは間違いありません。
アールヌーヴォーの作品の価格
アールヌーヴォーの作品は世界的な人気を誇ります。印刷技術によって複数の作成が可能であるため、芸術作品の中では比較的入手しやすい値段となっています。
しかし大人気のミュシャのオリジナル・リトグラフなどは、オークションなどで高値がつくこともしばしば。
近年の例を見ると、ミュシャの描きかけのデッサンに500万円の値段がついたこともありました。
アールヌーヴォーの作品が楽しめる場所
魅力的なアールヌーヴォーの作品を所蔵している美術館はたくさんあります。人気のミュシャをはじめ、アールヌーヴォーの絵画を鑑賞できる国内外の美術館をご紹介します。
世界で特にアールヌーヴォーの作品が充実している場所
アールヌーヴォーを代表する画家ミュシャの作品は、晩年を過ごしたプラハで見ることができます。
1988年にオープンした「プラハ・ミュシャ美術館」にはパリ時代のポスター、女性をモチーフにした代表作、資料、素描などが多数所蔵され、ミュシャのファンにはたまりません。親族が秘蔵していた作品も公開されており、凝縮されたミュシャの世界を堪能できます。
ミュシャに次いで人気のあるビアズリーの作品は、イギリスとアメリカを中心に各地の美術館が所蔵しています。とくにまとまったコレクションがあるのは、大英博物館。イギリスではビアズリーをテーマにした美術展もよく開かれますので、機会があったらぜひ。
フランスのアールヌーヴォーをけん引したジュール・シェレの作品は、ニースにあるボザール美術館で鑑賞可能。ジュール・シェレ・コレクションとして、多数の作品を見ることができます。
日本国内でアールヌーヴォーの作品が見られる場所
アールヌーヴォーは日本でも愛されるアートです。まず大人気のミュシャの作品を見たいと思ったら、堺市にある「境アルフォンス・ミュシャ館」へ。所蔵数は500点超。ポスターや絵画、彫刻が鑑賞できるほか、ミュージアムショップも人気です。
ビアズリーに関しては、2025年に三菱一号館美術館がビアズリー展を開催予定です。この機会にぜひ、ビアズリーの妖艶な世界を堪能したいですね。 絵画ではありませんが、アールヌーヴォーのガラス工芸の美術館もおすすめ。諏訪市にある北澤美術館は、ルネ・ラリックやエミール・ガレのコレクションで有名です。諏訪を訪れる機会があったら、幻想的なアールヌーヴォーの工芸品にも注目してみてください。
まとめ:理屈抜きで美しさを愛でられるアールヌーヴォー!
19世紀後半から20世紀初頭にかけてさかんになったアールヌーヴォー。この芸術運動は、自然の形態や曲線美を取り入れた有機的なデザインが特徴です。
ミュシャをはじめとする多くの芸術家によって、幻想的で神秘的な作品が数多く生み出されました。これらの作品は、当時の人々に大きな影響を与えました。
100年以上経った現在も、その独自の美しさは色褪せることなく、多くの人々の心を捉え続けています。
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