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2023.12.18

エゴン・シーレが送った人生とは?作品の特徴や代表作も徹底紹介!

エゴン・シーレが送った人生とは?作品の特徴や代表作も徹底紹介!

エゴン・シーレは、20世紀初頭のオーストリアの画家で、その生涯と作品に独自の魅力を感じる方も多いのではないでしょうか。この記事では、彼の短く激しい生涯と、その特異な絵画スタイルに焦点を当て、彼の代表作を紹介します。

エゴン・シーレの芸術は、主観主義的な感情を表に出し激しい筆致や色彩の使用が特徴のエクスプレッショニズム(表現主義)と、過去の様式にとらわれない自由で国際的な芸術表現である「セセッション(ウィーン分離派)」の要素を融合し、独特な特徴と影響力を持っています。その魅力的な芸術を探求してみましょう。

エゴン・シーレとは?

エゴン・シーレ

19世紀末から20世紀初頭にかけてオーストリアで活躍した画家で、短い生涯の中で芸術の爛熟期を迎えました。ウィーン分離派や象徴派、表現主義の影響を受けながら、彼自身の個性的な画風を築き上げた若き天才です。

エゴン・シーレは「常識」に反発し、自分の世界観を模索しました。彼の作品は生々しく、死と生を率直に表現し、独自の魅力を放っています。エゴン・シーレの芸術は、その短い生涯にもかかわらず、芸術界に深い爪痕を残した不朽の遺産といえるでしょう。

エゴン・シーレが送った人生とは?

ここでは、エゴン・シーレの生涯を紹介します。エゴン・シーレがどのような人生を送ってきたのか、見ていきましょう。

生い立ち

エゴン・シーレは、オーストリア・ハンガリー帝国のウィーン近郊、トゥルン・アン・デア・ドナウで生まれました。

父親は鉄道員で、後に駅長として働き、母親はチェコ系オーストリア人です。中産階級の家系で、シーレには2人の姉と4歳年下の妹ゲルトルーデ(通称ゲルティ)がいました。シーレが15歳のときに父が梅毒で亡くなり、叔父に引き取られました。シーレはウィーン工芸学校で学んでいましたが、学業は伸び悩んでいました。そんなシーレを叔父は咎めることなく、代わりにシーレが幼少期から興味と才能を示していた芸術分野での活躍を応援していました。シーレは工芸学校卒業後、ウィーン美術アカデミーへ進学します。しかしアカデミーと方向性が合わず、シーレはクリムトへの弟子入りを志願することにしました。

クリムトへの弟子入り

エゴン・シーレにとって、ウィーン美術アカデミーは失望の場でした。この保守的で古典主義的なアカデミーには、シーレのような斬新なアーティストには場違いだったようです。

彼はアカデミーの授業を受けることを拒み、代わりにウィーン工芸学校時代の先輩であるグスタフ・クリムトの元で弟子入りを志願しました。クリムトはシーレを大いに支援し、モデル雇用費を立て替えたり、援助を惜しまなかったのです。

クリムトの支援により、シーレは1908年に最初の個展を開き、翌年にはウィーン美術アカデミーを正式に退校しました。

独自の活動

エゴン・シーレは展覧会の刺激を受け、アカデミーの制約を超えて独自の創作活動を展開します。

彼は情熱を注ぎ、試行錯誤を繰り返し、人体の研究にとどまらず、性や死といった一般的に避けられるテーマを探求しました。シーレはタブー視されるほどの領域に挑戦し、過激な表現を追求したのです。

彼は自分の画風を表現主義の躍動感ある描き方に傾倒し、特にフィンセント・ファン・ゴッホの作品に賞賛の意を示し、同じ構図の向日葵を制作しました。また、ゴッホの影響を受けたドイツ表現主義の画家たちからも影響を受けています。

ヴァリとの別れ・エーディトとの結婚

シーレはヴァリという女性と同棲していました。同棲して3年経った1914年、シーレはウィーンに戻り、向かいの家に住むエディトとアデーレ姉妹と親しくなりました。彼女たちは中産階級職人の娘で、裕福な暮らしをしていました。社会的信用を得るためにヴァリを捨て、エディトとの結婚を決めました。

シーレはヴァリを繋ぎとめるため、結婚後も関係を続けようと説得しますが、ヴァリはシーレの元を去り、2人はその後二度と会うことはありませんでした。その後、ヴァリは1917年にわずか23歳で病死します。この出来事はシーレに深い悲しみと喪失をもたらし、彼の人生に大きな影響を与えました。

第一次世界大戦への従軍

第一次世界大戦が勃発したのは、シーレがエーディトと結婚してわずか3日後です。当時24歳のシーレは、オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集され、作品制作を中断せざるを得ませんでした。しかし、この出来事が後のシーレの芸術的飛躍につながる結末となります。プラハ駐屯部隊に配属された彼は、軍に自分の画家としての活動を説明し、前線での勤務を免除されました。

シーレは後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争の中でスケッチや作品の構想を続けられたのです。さらに、1917年にウィーンに転属となり、作品制作を再開しました。

画家としての成功と病死

第一次世界大戦が終結に近づく中、ウィーン分離派展に50点以上の新作を展示し、その作品は一躍注目を浴びました。彼の絵画の価格は急上昇し、多くの人々から絵画の買取依頼が殺到します。成功の兆しを感じ、シーレは富裕層が住むウィーン13区に新しいアトリエを構えました。

しかし、成功とは裏腹に、妻エディトがスペインかぜにかかり、シーレの子供を宿したまま亡くなりました。さらにシーレも同じ病に倒れ、3日後に亡くなります。シーレと妻エディトはウィーン13区のザンクト・ファイター共同墓地に埋葬されました。

エゴン・シーレの作品の特徴

妻エーディトとシーレ

エゴン・シーレの作品の特徴は、当時の社会規範や倫理観に挑戦した点にあります。彼は「死」や「性行為」など、当時の文化や美学でタブー視されたテーマを積極的に描いていました。

これらのテーマを強調し、不快に思われることを恐れなかったのです。当時、裸体や性的な描写に対する社会的な規制は緩和されつつありましたが、シーレの作品は極端なほど過激で、多くの人々からは理解されませんでした。

エゴン・シーレの代表作

ここでは、エゴン・シーレの代表作を4つご紹介します。挑戦的な彼の作品をぜひチェックしてください。

ほおずきの実のある自画像

ほおずきの実のある自画像

シーレの最も有名な自画像で、22歳の若さで描いた作品です。そのほかの自画像と比べて歪みが少ない特徴があります。

顔の色彩と質感はシーレ独自の画風を反映しており、まるで怪我をしているような印象を受けます。

絵からは自信と輝きに満ちたエゴン・シーレの視線が感じられ、彼の画家人生の集大成を表しているかのようです。

アントン・ぺシュカ

アントン・ぺシュカ

アントン・ペシュカはシーレのウィーン工房での同級生で、親しい友人でした。この作品は、アール・ヌーボー様式の油彩画として知られています。この絵は1909年にサザビーズで競売にかけられ、7百万ポンド以上の値段がついたとされています。

アントン・ペシュカの肖像は、シーレの芸術的才能と友情の証、そして彼の代表作の1つとして広く評価されています。

黄色い街

黄色い街

エディトとの結婚生活が安定した頃、シーレはヌード画やポートレート作品以外にも多くの風景画を描きました。

その中でも「黄色い街」は特に注目されています。この作品は、美しいゴールドのような黄色が特徴で、グスタフ・クリムトの影響も感じられるでしょう。密集した住宅が描かれており、荘厳な雰囲気が漂っています。

死と乙女

死と乙女

シーレが同棲していたヴァリとの別れの瞬間を描いたもので、非常に感情豊かな内容を含んでいます。

絵の中でシーレは死神として描かれ、ヴァリがシーレに縋りつく様子が表現されています。この作品は、別離の痛みと死の不可避性をテーマにしており、その情熱的な描写は観る者の心に深い感銘を残すでしょう。

まとめ

筆

エゴン・シーレは、オーストリアの画家で、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍しました。

幼い頃から絵の才能を持ち、師匠であるクリムトからの支援を受けながら活動し、第一次世界大戦後には個展を開催します。個展は大盛況でしたが、妻に先立たれたのち、シーレも28歳の若さでこの世を去りました。

シーレは当時タブーとされていた題材を描き続け、社会規範や倫理観に果敢に挑戦しました。シーレの独特なスタイルは、現代アートにも大きな影響を与えています。迫力あるシーレの作品を、ぜひ楽しんでください。

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