こんにちは、アートリエ編集部です。
エドガー・ドガは、19世紀フランスの印象派を代表する画家の一人です。
バレエダンサーを題材にした作品で特に有名ですが、その生涯や画風、数々のエピソードを通じて、絵画だけでなく彫刻も制作していたなど多面的な芸術家だったこともわかります。
本記事では、エドガー・ドガの来歴、画風、代表作、そして彼の作品を収蔵する日本の美術館について詳しく解説します。
エドガー・ドガとは
エドガー・ドガ(Edgar Degas)は、1834年にフランス・パリで生まれました。
本名はイレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガであり、銀行家の家庭に育ちました。
彼は、昔からある伝統的な絵の描き方を学びながらも、新しいやり方やテーマに挑戦したことで知られています。
エドガー・ドガの来歴
ドガは、どのようにして芸術の巨匠となったのでしょうか。
ここからは彼の生涯を追い、ドガが影響を受けた要素や、どのようにして彼の独自の表現が確立されたのかを見ていきましょう。
生い立ち
ドガは1834年7月19日にパリで生まれました。
父親は銀行家で、家庭は裕福で文化的な環境に恵まれていました。
幼少期から芸術に興味を示し、いずれ美術館や教会、ルーヴル美術館で古典作品を模写するといった活動を行うようになります。
ドガの家庭環境は彼の芸術的な成長などに影響を与えたとされています。裕福な家庭に生まれた彼は、文化や芸術に触れる機会が多く、若い頃から多くの美術品に接することができたのです。
特に、波乱の人生を送りつつも商才に恵まれ、一代で大家族を築き上げた祖父、そして音楽や芸術に関心が高かった父の存在が彼の芸術への関心を深め、彼の技術を磨く基盤となりました。
また、ドガはパリの有名なリセ・ルイ=ル=グランに通い、知識と教養を深めました。彼の初期の作品には歴史画が多く、こうした教育の影響が色濃く反映されているという見方ができます。
歴史画家を目指して
初期のドガは歴史画家としての道を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学びました。
この頃の作品には、歴史や神話を題材にした大規模なキャンバスが多く見られます。
ドガは、敬愛していたドミニク・アングルをはじめとしてルネサンスやバロックの巨匠たちの作品を研究し、技法を取り入れたとされています。
しかし、彼は次第に古典主義など伝統的な絵画・技法が持つ制約に疑問を抱くようになり、より自由な表現を求めるようになりました。
この時期のドガは、歴史画や宗教画から、次第に現実の生活や人々の日常を描くことに興味を持つようになりました。
彼はパリの街角や劇場、カフェなどでスケッチを重ね、そこで見た光景を作品に取り入れました。こうして、彼の作品には生き生きとしたリアリズムが加わっていったのです。
印象派へ
1874年、モネやルノワール、ドガなどの芸術家たちは、自分たちの作品を発表するために画家、彫刻家などで構成されたグループを結成し、第1回印象派展を開きました。
ドガはこの時期、光と影、動きの表現に重点を置き、バレエダンサーや日常生活の瞬間を捕らえる作品を多く制作。
印象派展は権威あるサロン展から独立し、新しい美術を広めるための試みとして約1ヶ月間行われましたが、当時はまだ批判が多く「サロン落選組の展覧会」と嘲笑されていました。
しかし、光や自然を重視した印象派の技法は次第に評価され、後に美術界に影響を与えるようになりました。
印象派展は新しい芸術を生み出す一歩として1886年まで続き、ドガにとっての革新的な表現を追求する転機だったとされています。
パステル画・彫刻作品などの増加
1870年、ドガは普仏戦争のために軍隊に入りました。
その際、射撃訓練中に彼の視力に問題があることがわかり、寒さの影響か右目の視力がさらに悪化しました。
視力の問題は、ドガの一生にわたって大きな影響を与えたと考えられています。
視力が低下するにつれ、ドガは油絵を描くのを徐々にやめ、やがて晩年になるとパステルを使った作品に力を入れるようになりました。
パステルを用いた作品は、その鮮やかな色彩と柔らかい質感で高く評価されています。ドガはパステルの柔らかさを活かし、人物や風景を鮮やかに描き出しました。
また、ドガは多くの彫刻を制作し、動きの表現に一層こだわったとされます。特に、蝋(ろう)を使った彫刻に力を入れ、その作品は彼の独自の技法で成立しています。
ドガは彫刻を発表するつもりはほとんどなく、こうした作品は主に絵を描くための参考や試作品として作られたものでした。しかし、彼の死後、こうした蝋彫刻が見つかり、友人や彫刻家たちによってブロンズに鋳造され、多くの人々に評価されるようになりました。
視力の問題にもかかわらず、ドガは触覚とイメージを駆使して彫刻を制作し、その作品は今でも多くの人々を魅了しています。彼が作った彫刻は、運動の瞬間や人の動きをリアルに捉え、まさに生きているような感覚を与えるものです。
エドガー・ドガの画風やエピソード
エドガー・ドガがどのような影響を受け、どのようにして独自の表現を確立したのかを知るために、ここからは彼の画風や交流に重点を置いて、そのエピソードを見ていきましょう。
ドミニク・アングルの影響
1855年にドミニク・アングルに出会ったことが、芸術人生に特に影響したとされています。
アングルは、ドガに「とにかくたくさん線を描こう」とアドバイスをしました。この言葉はドガにとって重要であり、生涯にわたりその教えを胸に刻んだとされています。
同年、ドガはエコール・デ・ボザールに入学し、アングルの弟子であるルイ・ラモットからドローイングやデッサンを学びました。彼はアングルのスタイルを取り入れ、自分の技術を磨いたのです。
さらに、ドガはエル・グレコやマネ、ピサロ、ゴッホなどの同時代の画家たちの作品も収集しており、中でもアングル、ドラクロワ、ドーミエの3人は特に崇拝していたようです。
このようにドガにとって、アングルとの出会いは彼の芸術の基盤を築く重要な出来事であり、その影響は彼の生涯を通じて続きました。
ジャポニズムの影響
19世紀後半、フランスではジャポニズム(日本趣味)が流行しました。ドガもこの流れに影響を受け、日本の浮世絵などを収集、インスピレーションを得ました。
彼の作品には、日本の版画に見られるような大胆な構図や、平面的な色彩の使い方が取り入れられています。
以来、ドガの作品はよりダイナミックで視覚的に印象を残すものとなりました。また、日本の美学に触れたことで、ドガは「異なる文化や視点を取り入れること」の重要性を学び、それが彼の作品に多様性と深みを加えたのです。
バレエ作品
ドガの代名詞とも言えるのが、バレエダンサーを描いた作品群です。
彼はパリ・オペラ座に頻繁に足を運び、リハーサルや舞台裏の様子をスケッチしました。こうしたスケッチを基にした絵画や彫刻は、踊り子たちの一瞬の動きを捉え、その美しさや努力を見事に表現しています。
ドガのバレエ作品、ほかにも競走馬や騎手といったテーマにおいては、そのリアリズムと動的な表現で高く評価されています。リアリティと親近感、美しさだけでなく、彼女たちの努力や苦労も描き出し、その人間性をも表現しました。
ドガとカサット
エドガー・ドガは、気難しく人付き合いが苦手な性格でしたが、彼には特別な親友がいました。それが、10歳年下のアメリカ人女性画家メアリー・カサットです。ドガとカサットは、芸術観や仕事への取り組み方がよく似ており、強い絆で結ばれていました。
カサットはフランスで画家としての修業を積むためにやってきましたが、伝統的なサロンの芸術には満足できませんでした。そんなときに出会ったのが、ドガの作品です。彼女は、ドガの絵に新しさを感じ、自分が求めていたものだと直感しました。一方、ドガもまたカサットの絵に共感し、お互いを強く意識するようになりました。
ドガとカサットは、サロンに対する批判や理想の芸術観で意気投合し、共に印象派展に参加することになりました。カサットは、ドガの影響を受けてサロンを離れ、権威ある賞の受賞も拒否してまで印象派展に専念したのです。
ドガとカサットは互いの才能を高く評価していましたが、結婚することはありませんでした。ドガは肖像画を美化することに興味がなく、ありのままを描くことにこだわり、そのためカサットは彼が描いた自分の肖像画を気に入りませんでした。最終的に、カサットはドガとの手紙を焼き、肖像画も売却しています。
エドガー・ドガの代表作
ここからは、エドガー・ドガの代表作を見ていきましょう。
バレエのレッスン
「バレエのレッスン」は、ドガの代表的なバレエ作品の一つです。
バレエ教室の中で老教師が若い踊り子たちに指示を与える様子が描かれています。ドガは、光や色彩、構図を巧みに使い、教室のリアルな雰囲気を見事に表現しています。
ドガはまた、レッスンを指導する教師や、踊り子たちの真剣な表情を通じて、バレエの厳しい訓練とその背後にある努力を描き出しています。
この作品は、バレエの華やかさだけでなく、その裏にある努力と練習の重要性も表現しているのです。
ダンス教室
「ダンス教室」は、ドガが1874年に制作した作品です。この絵は、パリ・オペラ座のバレエ教室を描いており、多くの踊り子たちがリハーサルを行っている様子が描かれています。
ドガは卓越した観察力と技術で光と影のコントラストを巧みに使い、動きのある場面をダイナミックに表現しました。
バレエ教室のバーや鏡も、部屋の広がりや奥行きを強調する要素として描かれ、全体の空間を感じさせる効果を生んでいます。
踊りの花形
華やかなバレエの舞台を描いていますが、実はその裏に隠れた厳しい現実が示唆されているとされています。
この作品は、紙にモノタイプで刷り、その上にパステルで着色されたもので、通常の油絵とは異なります。
「踊りの花形」では「エトワール」という首席ダンサーが描かれています。彼女は画面の中央ではなく、少し右下に配置されています。また、舞台の袖に黒服の男性が描かれており、彼は踊り子のパトロン(後援者)とされています。
このパトロンは、バレリーナたちにとって重要な存在で、彼らの支援を得ることで、踊り子たちは経済的な安定を手に入れることができました。
つまりドガは、バレリーナが置かれていた厳しい社会的状況を暗示したのです。当時、バレリーナは身分が低く、娼婦と同じように見なされることもありました。踊り子たちは、舞台裏でパトロンに媚びを売ることで、がむしゃらにでも成功をつかむ必要があったのです。
このような背景から、「エトワール」は美しいだけでなく、その背後にある社会の闇を象徴しているともされているのです。
エドガー・ドガ作品を収蔵する日本の主な美術館
意外にもエドガー・ドガの作品を収蔵する美術館が、日本に存在します。
ここからは、そうした日本の美術館をそれぞれ紹介していきます。
大原美術館(岡山)
大原美術館は、日本で初めての西洋美術を中心とした私立美術館です。1930年に、事業家の大原孫三郎が、亡くなった画家の児島虎次郎を記念して設立しました。虎次郎は、エル・グレコやゴーギャン、モネ、マティスなどの名作を大原美術館にもたらしました。
大原美術館には、エドガー・ドガの作品「赤い衣裳をつけた三人の踊り子」が所蔵されています。この作品は1896年に描かれ、パステルで紙に描かれたもの。ドガのバレリーナへの愛情と細部へのこだわりが感じられる美しい作品です。
大原美術館には、西洋美術だけでなく、中国やエジプトの美術品も収蔵されています。この美術館は、倉敷の地で、日本人の心に響く独自のコレクションを持ち、世界的にも知られる存在となりました。また、子供や社会人向けの教育活動や音楽コンサートなど、多彩なイベントも行っています。
ひろしま美術館(広島)
ひろしま美術館は、1978年に広島銀行が設立した美術館で、平和への祈りと地域の復興を象徴する場として「愛とやすらぎのために」をテーマにしています。
美術館の建物のイメージは、広島の象徴である原爆ドーム。円形のドーム型展示室も特徴で、回廊は厳島神社をイメージしています。
ひろしま美術館には、ドガの絵画「馬上の散策」「浴槽の女」「赤い服の踊り子」、彫刻の「右手で右足をつかむ踊り子」が所蔵されています。
美術館の前庭には、ピカソの子息クロード氏から贈られたマロニエの木が植えられており、毎年5月頃には美しいピンクの花を咲かせます。また、その近くには「マロニエの泉」があり、広島のシンボルである錦鯉が泳いでいます。
北九州市立美術館(福岡)
北九州市立美術館は、1958年に開館した八幡市美術工芸館を前身とし、1974年に現在の本館が開館しました。主に西日本出身の作家による近現代の美術作品を収集しています。
北九州市立美術館には、ドガが1868~1869年に描いた「マネとマネ夫人像」が所蔵されています。この作品は、ドガが友人である画家エドゥアール・マネに贈ったものですが、マネは夫人の顔が気に入らず、その部分を切り取ってしまいました。これに怒ったドガは絵を取り返し、復元しようとしましたが、最終的には未完成のまま残さたとされています。
まとめ
エドガー・ドガは、印象派を代表する画家として、その多彩な才能と革新的な技法で多くの人々に影響を与えました。
彼のバレエ作品は、踊り子たちの美しさと努力を見事に描き出し、今なお多くの人々を魅了し続けています。
ぜひ、彼の作品を実際に美術館で鑑賞して、その魅力を感じてください。
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