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2024.08.26

ポール・セザンヌとは?「近代絵画の父」の来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

ポール・セザンヌとは?「近代絵画の父」の来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

「近代絵画の父」とも呼ばれるポール・セザンヌは、一時は印象派の一員として活動していましたが、グループを離れて独自の革新的な絵画様式を確立し、後世に多大な影響を与えた巨匠として知られています。美術史上で特異な地位を築いている著名な芸術家ですが、その来歴や作品の詳細については広く知られていない部分も多いかもしれません。この記事ではそんなセザンヌの来歴と作品について、アートリエ編集部が詳しく解説します。

ポール・セザンヌとは

ポール・セザンヌは、ゴーギャンやゴッホと並ぶ後期印象派の巨匠の一人としてみなされており、後のキュビズムをはじめとする20世紀の前衛美術の架け橋となった存在として重要な人物です。しかしその画業は決して順風満帆ではなく、長らく不遇の時代を過ごしていました。そんなセザンヌの来歴を詳しく見ていきましょう。

ポール・セザンヌの来歴

ポール・セザンヌ

生い立ち

ポール・セザンヌは1839年に南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで、地元の銀行の経営者である父を持つ裕福な家庭に生まれました。13歳の時に地元のブルボン中等学校に入学し、そこで下級生だった後の小説家であるエミール・ゾラと出会い、親交を結びます。セザンヌはよそ者としていじめられていたゾラに話しかけたことで袋叩きに遭ってしまいますが、翌日にゾラからリンゴの籠を贈られます。このエピソードはセザンヌにとって印象深いものだったようです。

セザンヌはブルボン中等学校に6年間在籍する間、1857年から素描学校に通いはじめます。翌年にバカロレアに合格し、1861年までは父の希望でエクス大学の法学部に通いはじめますが、次第に画家を志すようになります。彼はゾラの後押しもありついに22歳でパリに出て、画塾であるアカデミー・シュイスに通い、カミーユ・ピサロらと出会い絵を学びます。しかし都会の空気が合わず周囲の笑い物にされてしまい、耐えきれずにすぐにエクスに帰ってしまいます。

父の銀行で働きながら美術学校に通いますが、仕事がうまくいかず父に落胆されてしまいます。画家になる夢も諦めきれていなかったセザンヌは再びパリに出て、アカデミー・シュイスに戻ります。モネやルノワールなどの印象派の画家たちと出会い、サロンへの出品を繰り返すも落選が続きます。

印象派の時代

現代のオリンピア、1873 ~ 74 年、オルセー美術館、パリ

画家としては不遇の時期が続き、経済的にも厳しい状況の中、セザンヌはオルタンス・フィケと交際をはじめ、息子をもうけます。1872年には普仏戦争の兵役から逃れるために滞在していたエスタックからパリへ戻り、ピサロとイーゼルを並べて制作を再開します。その後すぐピサロとともにオーヴェル=シュル=オワーズに移り住み、ピサロから筆触分割などの印象派の絵画技法を習得し、明るい色調の作品を描くようになります。

パリとエクスを行き来しながら制作を続け、セザンヌは1874年の第1回印象派展に出品しますが、酷評を浴びてしまいます。第2回印象派展には出品せず、1877年の第3回印象派展に油彩13点と水彩3点を出品すると、セザンヌの作品を賞賛する批評家が現れはじめ、「色彩画家」としての一定の評価を獲得します。

脱印象派 故郷エクスへ

画家として評価されはじめていたセザンヌでしたが、印象派の手法に不満を感じ始めていた彼は、第4回印象派展以降には参加せず、サロンへ応募するも落選してしまいます。

セザンヌは制作場所を故郷に移し、1895年の初個展までパリの画壇から距離を置いて制作しました。内密にしていたフィケと子どもの存在を父に知られたことで関係が悪化し、仕送りが半分に減らされたことで経済的にも苦しい状況が続きました。

17年間連れ添ったフィケと1886年についに結婚し、同年に父が亡くなるとセザンヌは莫大な遺産を相続します。彼は経済的な不安からは解放されましたが、作品は依然として理解されない日々が続きました。

しかしポール・ゴーギャンやエミール・ベルナール、モーリス・ドニなど、パリの前衛画家たちの間でセザンヌの作品が評価されつつありました。「タンギー爺さん」の愛称で親しまれるモンマルトルの画材屋に預けていた作品がコレクターの目にとまると、雑誌に紹介され、セザンヌの名前と作品はパリの美術界に一気に広まることとなりました。

初の個展

1895年にはパリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ピサロの勧めでセザンヌの初個展を開きました。展覧会はタンギー爺さんの遺品である作品4点と、本人から送られてきた150点の油彩画により構成されましたが、批評家たちの評価は決して良いものではありませんでした。一方で個展を見たピサロは作品を絶賛し、前衛画家を中心とするパリの美術界には好意的に受け入れられていきました。

晩年

セザンヌは1900年に開催されたパリ万国博覧会における企画展に参加し、それ以降は積極的にさまざまな展覧会に出品を重ねました。サロン・ドートンヌにも3年連続で出品し、またパリのベルネーム=ジューヌ画廊が新たにセザンヌの作品を取り扱い始めました。

この頃のセザンヌは多くの若い画家たちから敬愛されるようになっていました。1900年にモーリス・ドニは「セザンヌ礼賛」と題する集団肖像画を描き、翌年の国民美術協会サロンに出品し注目を集めました。

1902年にセザンヌはエクス郊外にアトリエを建て、静物画、風景画、肖像画などの制作に精力的に取り組み、1906年に亡くなりました。

ポール・セザンヌの画風やエピソード

色彩とボリュームからなる独自の秩序

初期のセザンヌの絵画は、ロマン主義絵画の影響を受けた暗い色彩のものが多数でしたが、ピサロとともに戸外で制作するようになり、印象派の技法を身につけてからは明るい色彩を用いるようになりました。セザンヌは長らく公に認められることのなかった作家ですが、明るい色彩に変化してからは同時代の若い画家や批評家たちから徐々に評価されるようになります。

またセザンヌは終生デッサンを重視した制作を心がけていました。生涯に1200点以上のデッサンを残し、常に過去の巨匠たちをリスペクトしつつ学び続けました。セザンヌが古典から学び独自に生み出したモチーフの独特なボリューム感と、平面性を強調した空間構成は、静物画の伝統を覆す革新的なものでした。

円筒、球、円錐として自然を扱う

カーテンのある静物画

セザンヌは、モチーフを幾何学的なパーツに分解してその造形性を強調する制作法を生み出した画家であり、後のキュビズムに大きな影響を与えました。彼が独自に追究していた芸術理論が、1904年に美術理論家のエミール・ベルナールに宛てた手紙の中に書かれています。

彼はここで「自然を円筒、球、円錐として扱い、全体を遠近法で捉え、物体、表面の各側面が中心点でつながるようにすること」と語っています。セザンヌはこの発言の通り、自然界の対象を幾何学的かつ本質的な形として捉えることを作品において試みました。この発言は後世の芸術家たちの指針となり、キュビズムの誕生を促しました。

ゾラとの友情

セザンヌは作家のエミール・ゾラと少年時代からの親友でした。中等学校時代にいじめられていたゾラに話しかけたことで自身もいじめられてしまったセザンヌですが、そのエピソードを彼は後世になって思い出深いものとして語っています。ゾラは印象派運動を支援するような芸術書を著したほか、数々の小説で19世紀フランス自然主義文学を代表する作家となりました。1886年に著した小説では、セザンヌをモデルにしたと思われる芸術家が主人公になっていたことで二人の友情が破綻したという説もありますが、後年にも交友があったことが分かる手紙が近年に発見されています。

近代絵画の父

セザンヌはピサロの手ほどきを受けて印象派の画法を用いていましたが、次第に印象派のモチーフの形態に対する感覚の欠如を嫌うようになり、自然を古典絵画のような構築的な世界として描くことを目指すようになります。彼は絵画ならではの統一性を作り出すために、キャンバスの平面性を強調したり、多視点からの表現を一つの画面に収めるなどの革新的な制作法を生み出し、それは後のナビ派やキュビズムに多大な影響を与えることとなりました。こうした観点から、セザンヌは美術史において「近代絵画の父」と呼ばれています。

作品の高騰

生前はルノワールやモネ、マネなどの同時代の画家たちの作品よりも安値であったセザンヌの作品の価格は、1910年代以降から徐々に高騰していきました。1958年に「赤いチョッキの少年」第2作が初めて6桁台で落札され、ルノワールと並ぶ最高水準価格を叩き出すまでになりました。1980年代末からは日本人による高額購入が相次ぎ、90年代以降も次々と記録が更新されていきました。

ポール・セザンヌの代表作

サント=ヴィクトワール山

サント=ヴィクトワール山

セザンヌは1870年にエクスにあるサント=ヴィクトワール山をモチーフとして初めて描きました。当初は単に風景画の背景として描きましたが、1880年代以降、山をクローズアップして画面の中心に据えた連作を描き始めました。1887年に描いた「サント=ヴィクトワール山」は、中央に山を据え、画面手前の左側に松の木を大胆に配置しています。

木の枝は山の稜線に沿うように描かれ、その形が強調されています。近景と遠景で色調を微妙に変化させることで遠近感や陰影を表現しており、塗り残した部分も作品の要素として組み込まれています。伝統的な西洋絵画のセオリーからは逸脱した塗り残しによる表現や、後のキュビズムに通じる家の幾何学的な描き方など、セザンヌの斬新な画法が駆使されている作品です。

大水浴図

大水浴図

1898年から1905年に描かれた「大水浴図」は、セザンヌの作品の中でも最大の208×249㎝に及ぶ大作で、現在はフィラデルフィア美術館に所蔵されています。

セザンヌの最晩年に製作された本作は、フランス古典主義の巨匠であるニコラ・プッサンへの敬意が表れた作品です。画面は木立と川によって三角形の安定した構図が形成され、その三角形に添うようにして裸体の女性たちが描かれています。

プッサンが確立した古典主義絵画に見られる幾何学的な構図の安定性と、建築的とも言える堅固な画風が特徴的な作品です。セザンヌは油彩画や水彩画のほかに1200点以上のデッサンを残し、デッサンを制作の基本とし続けましたが、晩年になってもその姿勢は変わりませんでした。彼は晩年においても、ルーブル美術館の古代彫刻やバロック絵画のデッサンを基に肖像画や人物画を描いていましたが、本作の人体の描き方からもセザンヌのそのような努力の痕跡が感じられます。

カード遊びをする人々

カード遊びをする人々

セザンヌは1890年代に「カード遊びをする人々」というタイトルで5枚の油彩作品を描いています。セザンヌはこれらの作品を描くために無数の習作を描いており、数ある彼の作品の中でも重要なシリーズとして知られています。中でも最も有名な作品は1894年に描かれ、現在パリのオルセー美術館に所蔵されているバージョンです。

このシリーズはカード遊びをするプロヴァンスの農民たちの姿を描いたものです。カード遊びに興じる人物たちという主題は、17世紀のオランダやフランスの風俗画においてよく見られましたが、セザンヌはそれらの先例を翻案してこれらのシリーズを制作しました。17世紀の風俗画は人物の内面までも描き出すような劇的な表現が主流でしたが、セザンヌは意図的にそうした要素を排し、簡素な背景に無個性な農民を描きました。

リンゴとオレンジのある静物

リンゴとオレンジのある静物

1899年に制作され、オルセー美術館に所蔵されている「リンゴとオレンジのある静物」は、セザンヌの代表作として知られています。

画面に対して斜めに置かれたテーブルに白い布が無造作に敷かれ、その上にたくさんのリンゴや皿、水差しが置かれています。さらにリンゴが置かれた空間を囲むように、柄物の布が置かれています。一見して安定的な構図に見えますが、机の端の稜線は白い布を隔ててずれており、リンゴや皿は今にも転げ落ちてしまいそうです。各モチーフはさまざまな角度から観察され、画面上の空間は歪んでいますが、絶妙なバランス感覚と色彩感覚に優れた作品です。

彼は「リンゴでパリを驚かせたい」とたびたび口にしており、リンゴをモチーフの中心に据えた静物画のシリーズを描いていますが、セザンヌのリンゴは彼が願った通りに世界的に有名なモチーフとなりました。

赤いチョッキの少年

赤いチョッキの少年

セザンヌの画業中期の代表作である「赤いチョッキの少年」は、1888年から1890年にかけて制作され、現在はチューリヒのビュールレ・コレクションに所蔵されています。本作はセザンヌが初めてプロのモデルを使って描いたもので、同じモデルを使った同主題のバージョンが数点存在します。

本作では机に肘を置いて頬杖をついている赤いチョッキを着た少年が描かれています。画面の中央を占める右腕は明らかに異常に長く描かれていますが、全体の構図を安定させる中心的な役割を果たしています。セザンヌ独自の堅固な構図と、白、赤、青を中心とした色彩バランスが優れた作品です。

ポール・セザンヌ作品を収蔵する主な日本の美術館

ポーラ美術館(神奈川)

神奈川・箱根のポーラ美術館にはセザンヌの油彩画9点が所蔵されています。プロヴァンスやオーヴェル=シュル=オワーズの風景画、堅固な構図の水浴図、果物や陶器のある静物画、肖像画など、セザンヌが終生描き続けた画題の良作が揃っています。

国立西洋美術館(東京)

東京・上野の国立西洋美術館にはセザンヌの7点の作品が所蔵されています。ピサロとともに滞在したポントワーズの風景や、エクスの風景を描いた油彩画のほか、鉛筆と水彩で描いたデッサンなどが所蔵されています。常設展で展示されている機会も多いので、一度は見学することをおすすめします。

大原美術館(岡山)

岡山県の大原美術館には、セザンヌの風景画と水浴図の油彩作品2点が所蔵されています。風景画は塗り残した部分が多く、比較的ラフな筆致で描かれている一方で、家屋は幾何学的な形態として捉えられており、セザンヌのモチーフの形に対する追究が見て取れます。

横浜美術館(神奈川)

神奈川県の横浜美術館にはセザンヌの版画を含む作品6点が所蔵されています。サント=ヴィクトワール山を描いた油彩画や、妻の肖像画、水浴図のリトグラフなどを見ることができます。

まとめ

セザンヌは世間から長らく認められない時期に耐えながらも、印象派の色彩感覚と古典絵画の堅固な造形性とを融合し、独自の制作方法で当時の美術界に革新をもたらしました。キュビズムの画家たちが熱心に研究したセザンヌの形態や空間に対する独特の感覚を、ぜひ実際の作品から感じてみてください。

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