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2024.08.26

ヨハネス・フェルメールとは?来歴や画風、代表作、代名詞である「フェルメール・ブルー」の秘密についても詳しく解説します!

ヨハネス・フェルメールとは?来歴や画風、代表作、代名詞である「フェルメール・ブルー」の秘密についても詳しく解説します!

日本でも絶大な人気を誇り、青いターバンが印象的な「真珠の耳飾りの少女」は誰しも観たことがあるであろう画家、フェルメール。

けれど実際、彼がどんな作家だったのか知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。

そこで今回はヨハネス・フェルメールの来歴や画風、代表作などをアートリエ編集部が解説します。

ヨハネス・フェルメールとは

フェルメールは17世紀のオランダを代表する画家です。彼は仄かな光の中に浮かび上がる静かな情景を繰り返し描き、静謐と光の画家とも呼ばれています。

彼の代名詞、フェルメール・ブルーも有名ですよね。現存する作品が30点ほどと少なく、その希少性から贋作事件や盗難事件といった事件に度々見舞われ、話題性にも事欠きません。

ヨハネス・フェルメールの来歴

ヤン・フェルメールの唯一の肖像画とされるもの。

ヨハネス・フェルメールの作品は、現実を描いているようでいて、実際には存在しない光景を描いています。考え抜いて作り上げられた作品からは、作家の生活が垣間見えないのです。

彼の暮らしや思想は謎に包まれていますが、残された記録や当時の情勢などから、その来歴を追ってみましょう。

生い立ち

フェルメールは1632年、オランダのデルフトに生まれました。

当時のデルフトはオランダ東インド会社の拠点の一つで、大いに栄えていた街。豊かな経済力を背景に、数多の芸術家がひしめく芸術都市でした。

フェルメールの一家も、父が織工かつ画商で、画家が頻繁に出入りする宿屋、メーヘレンを営んでいました。そんな芸術が身近にある環境で育った彼は、いつしか画家の道へと進んでいったのでした。

結婚と画家としての出発

デルフトの眺望(1660-1661年)

1647頃には絵の道に進むことを決意したと考えられているフェルメール。実力をつけ、1653年にはデルフトの美術関連の組合、聖ルカ組合に親方画家として登録し、独り立ちしています。

同年に結婚もしており、数年後には養母の家の二階にアトリエを構えました。養母はかなり裕福で、金銭面でも彼をサポートしていたのではないかと言われています。

画業では芸術作品として評価の高かった歴史画からスタートするも、すぐにオランダ国内で需要のあった風俗画へと転向しました。

これはキリスト教を国教とする国と違ってプロテスタントの国オランダでは、王侯貴族や教会ではなく富裕な市民階層が顧客だったことが関係しているようです。市民に身近な私的生活を画題にした方が絵が売れたというわけです。

たちまち頭角を現し、デルフト市内外で評判になった彼は、1656年と1670年の二回、聖ルカ組合の理事に選ばれています。

オランダ黄金時代の活動

フェルメールが活躍した時代は、デルフトにオランダ東インド会社が巨万の富をもたらしていた、平和で豊かな黄金時代。

同時代に活躍していた画家も多く、彼は他の画家の作品から積極的に学び、自身の絵の肥やしにしていきました。そして1660年代になると画面が洗練を極め、真骨頂に到達します。

彼に影響を与えた画家についても少し触れておきましょう。

まず同じくデルフトで活動し、名声を得ていたピーテル・デ・ホーホ。室内の人々の様子を描き、モチーフから構図までフェルメール初期の風俗画に多大な影響を与えました。

ライデンのファン・ミーリスは、国際的に活躍していた細密画家。構図や意匠のみならず、フェルメール後期の絵の滑らかさや精細な描写もミーリスと共通するものだと言います。

そして同じくオランダの画家テル・ボルフの影響も見て取れます。フェルメール作品にしばしば見られる手紙のモチーフは、当時最新の通信手段として画家たちがこぞって取り上げたものでしたが、手紙を書く女性というテーマを思いついたのはテル・ボルフではないかと見られています。

机やタペストリーを前景に置くのはカラヴァッジオからの流れですし、その他当時描かれた様々な作品からの影響が見られます。

こうした作品を真似て、手法を学び取り、独自の様式を作り上げていったのです。

生涯最大のパトロンとの出会い

フェルメールには強力なパトロンがいました。ファン・ライフェン夫妻です。

彼らは主要なフェルメール作品をコレクションするだけでなく、1657年に200ギルダーを貸し、1665年には500ギルダーを贈与し、金銭的に援助していたと記録が残っています。

ファン・ライフェン夫妻のコレクションは、娘に受け継がれた絵画のリストでは、駆け出しの頃から60年代後半の傑作群のほとんど全てと、70年代初頭の数作品までを網羅し、20点にのぼります。

二人の存在は、フェルメールが納得のいくまで作品に向き合い、丁寧な仕事をできる環境づくりに大いに寄与したことでしょう。

画風の変化とオランダ情勢悪化

デルフト

非常に完成度の高い絵画を手掛けていたフェルメールですが、1660年代末から次第に様式に変化が表れます。

光を繊細に表現することをやめ、強い光で明暗のくっきり分かれたメリハリの効いた絵を描くようになったのです。その結果、彼の持ち味だった静けさや、靄のかかったような空気感は失われてしまいました。

この急激な変化には、オランダの情勢が悪化したことも関係していると考えられています。1670年代、英蘭戦争・仏蘭戦争が勃発し、オランダの平和が破られました。

これにより繁栄していたオランダ文化も打撃を受け、美術品の需要が極端に冷え込むだけでなく、世間の好みも変わりました。豪華な格好の人々が豪奢な部屋にいる情景を描いたような、装飾的な絵画がもてはやされるようになったのです。

これを受け、フェルメールも流行を取り入れようと、新たな方向性を模索したのではないかと言われています。

晩年

画風が変わってもしばらくはこれまでの作風とは違う新鮮な魅力を持っていましたが、晩年は乱雑で簡略化された印象の絵になっています。

そうして絵が売れなくなり借金を抱え、妻と十人ほどの子供を残して1675年に亡くなりました。享年43歳でした。

ヨハネス・フェルメールの画風

観る者にいかにもフェルメール的、と感じさせる作品群には、その空気感を演出する様々な試みが隠されています。この項では彼の画風に迫ります。

バロック画家の代表格

17世紀に発展したバロック美術は一般に、ダイナミックで明暗の強調された美術様式と理解されています。確かにこれはバロック美術として挙げられる作品によく見られる大きな特色です。

しかしバロック美術の特徴はこれだけではなく、各国で様々な美術文化が勃興した多様性に富んだ様式です。オランダにおいてはこの時代、それまで宗教画と人物画がメインだったのが、市民の生活や風景を描いた風俗画や風景画、静物画が流行しました。

こういった今までにない様々な動向もバロック美術に含まれているため、動きのない絵を描くフェルメールも、バロック美術を代表する画家の一人として数えられているのです。

フェルメール・ブルー

ウルトラマリン

最盛期のフェルメールの絵は、色を多用せず、青赤黄の三原色と白を主軸にそのニュアンスで空間を演出しています。中でも印象的な青色は、差別化してフェルメール・ブルーと名付けられています。

実は彼の作品で青が画面に占める割合はそれほど大きくありません。にも拘らず青が印象深いのは、色が効果的に用いられているのはもちろん、この青を出すために使われている顔料にも秘密があります。

それがラピスラズリを原料とした、鮮やかな青色のウルトラマリンブルー。この顔料は貴重で大変高価だったため、当時は聖母マリアの青い上着を描く時くらいしか用いられませんでした。

けれどフェルメールの場合、作品のほぼ全ての青がウルトラマリンブルーなのです。人や家具のみならず、下塗りにまで使用しています。

常軌を逸した使い方で、他の青には出せない特別な印象を醸し出しています。

主題と周辺描写の対比

フェルメールは暮らしの中の情景を描いていますが、その絵画は目に見えたものの忠実な再現ではありません。

現実よりも現実らしい、自身の目指す絵画世界を作り出すため色々な技巧が凝らされている内の一つに、主題と周辺の描写の違いがあります。

モチーフを最低限に絞ったフェルメールの絵画。主題は緻密に、細部まで徹底して表現することで現実味を持たせています。一方で事物の輪郭線は溶け合い、白い壁を背景にするなど、周辺はあえてあっさりと描写しています。布のひだも不思議なほど目立ちません。

余計なものを削ぎ落としたため、自ずと画家自身が見せたいと思った場所へ視線が集中するようになっています。

印象的なライティング

女主人とメイド(1666-1667年)、ニューヨーク市フリックコレクション

主に60年代の作品に見られる光の描き方も、フェルメールに特有のものです。

北向きの窓から、柔らかな光が差し込んできます。あくまでも弱い光なので、室内の人物や小物は薄暗い中に浮かび上がってくるようです。光から影への移り変わりは丁寧に描写され、強烈なライティングも漆黒の影も存在しません。

これも写実的な光ではなく、フェルメールの理想のために操作された、芸術のための光なのです。穏やかで神秘的な光は、作品世界を現実とはどこか違う異界のように感じさせる効果を持っています。

ポワンティエ技法

ポワンティエ技法は、光が反射して輝いているところを白い点描で表現するもので、点綴技法とも呼ばれます。これは元々事物の質感を再現するために静物画家が研究していた手法で、フェルメールの作品に素晴らしい視覚効果をもたらしています。

彼の絵では、パンなどの現実にはありえない場所にも光の粒が現れます。辺りを明るくし、鑑賞者の視線が集められる、ここぞという場所に白い点が置かれているのです。フェルメールは光も物質のように扱い、質感を表現し絵の説得力を増すのに役立てました。

後年の作品にも光の点描は見られますが、ありえない場所で輝くことはなくなり、質感を表現するというよりは単なる装飾的な意味合いが強まっています。

ところでカメラの前身であるカメラ・オブスクラを使うと、この光の粒のようなにじみが見られます。そのため、フェルメールは制作にあたってカメラ・オブスクラを使用したのではないかとも言われています。

どちらにせよ彼は、肉眼で見られるものとは少し違う情景を描き、不思議な魅力に満ちた作品に仕上げています。

ヨハネス・フェルメールのエピソード

謎の多いフェルメールにはいくつも逸話があります。ここでは19世紀に入ってからの再評価についてや、有名作家ならではの事件まで、5つのエピソードを取り上げます。

寡作な画家

今日観ることのできるフェルメール絵画は30点ばかりととても少ないです。真贋の判断が難しく、明確な数字は32から36点の間で揺れています。

また、現存数が少ないだけでなく、推定全制作点数も60点ほどと寡作な作家だと考えられています。パトロンの援助を受けつつ、年間2、3作だけ、丁寧にこだわって制作していたようです。

稀少性の高さはフェルメールの名が人々を惹きつける一つの要因となっています。

忘れられた画家から再評価

大教会にあるヨハネス・フェルメールの記念碑 (2007)。デルフト、オランダ

生前、同時代人から高く評価されていたフェルメール。しかし、作品数が少ないことに加え、多くの作品がファン・ライフェン夫妻のコレクションになっていたため、その存在は少しずつ忘れられていきました。

完全に忘れ去られたわけではありませんでしたが、今のように誰もが知る有名画家ではなかったのです。

その状況が変わったのは19世紀のこと。写実主義の潮流が生まれ、17世紀の写実的な絵画を回顧する動きが高まりました。1866年にはフランスの評論家トレ=ビュルガーによってフェルメールに関する初の本格的な論文も発表されました。

こうして数百年の時を経て再度衆目を集めたフェルメールは、今では西洋美術の巨匠の一員として名を馳せています。

贋作事件

彼の作品は美術史上最悪と言われる贋作事件にも巻き込まれています。第二次世界大戦直後、54万ギルダーという高額でボイマンス美術館に買い取られた「エマオのキリスト」が実は贋作だったと判明したのです。

「エマオのキリスト」
「エマオのキリスト」

「エマオのキリスト」はほとんど作品が見つかっていない初期の歴史画から風俗画への転換期の絵を装ったもので、研究者にとって“あるはず”だった絵。そのためほとんどの専門家がこれは真作だと認め、犯人が自白した際も信じようとしませんでした。犯人のハン・ファン・メーヘレンは自分の主張が真実だと証明するため、拘留されながら新たにフェルメールの贋作を描いて見せたほどでした。

メーヘレンは本作以外にも贋作の制作・売却をしており、判明しているだけでも11点存在します。

盗難事件

盗難事件も度々起こっています。1970年代以降、被害に遭ったのは4点と、作品の総数に対して発生の確率が随分と高いです。

有名な絵は転売が難しいので政治利用されるのが常だそうで、「ギターを弾く女」と「手紙を書く女と召使」はIRAがらみの政治的脅迫のために盗まれました。尚、後者の作品は二度盗まれています。

他に、「恋文」は貧民を救うための義援金獲得の名目で、ナイフで切り抜いて持ち去られ、深刻なダメージを負いました。

1990年に盗難に遭った「合奏」のみ、未だ行方不明の状態です。

フェルメールとダリ

著名なシュルレアリスト、サルバドール・ダリはフェルメールに多大な影響を受けた画家です。ダリはフェルメールの絵を絶賛し、彼をモチーフにした作品をいくつか残しています。主なものでは「テーブルとして使われるフェルメールの亡霊」、「フェルメールの<レースを編む女>に関する偏執狂的=批判的習作」などがあります。

ヨハネス・フェルメールの代表作

フェルメールの最も有名な作品、「真珠の耳飾りの女」をはじめとする代表作を三枚ご紹介します。これらの絵には彼の独特な技法が明確に表れ、柔らかな光と静寂に包まれた世界に浸ることができます。

フェルメール入門に、まずはこちらの作品をぜひチェックしてみてください。

牛乳を注ぐ女

牛乳を注ぐ女(1658 年頃)、アムステルダム国立美術館

1658〜59年頃作。北向きの窓から差す光の中、女性が静的な仕草で牛乳を注いでいる様は、何ともフェルメール的なテーマです。窓に近い壁を暗く、遠い壁を明るく塗ることで、窓辺の人物が浮き立つよう工夫しており、ありふれた瞬間なのにとても印象的です。

形の単純化や色の制限、ポワンティエ技法など、技術面でも50年代末の彼の特徴をよく表しています。

真珠の耳飾りの少女

真珠の耳飾りの少女

1665〜66年頃作。きっと誰しも一度は見掛けたことがあるであろう、青いターバンを巻いて真珠の耳飾りをつけた少女の姿。暗い背景に浮かび上がった彼女の神秘的でエキゾチックな佇まいには、目を奪われずにはいられません。

この人物には特定のモデルはおらず、理想化された少女像です。真珠もこれほど大きいものは当時存在しなかったといいます。フェルメールは光や色を駆使して虚構を実に生き生きと描き出したのです。

地理学者

『地理学者』

1669年作。後期の作品で、地理学者を主役に置いた絵です。

伝統的に描かれてきた「書斎の学者像」の系譜ですが、アジアと航路で結ばれ、盛んに交易をしていた時代背景がよく盛り込まれています。男性は日本からもたらされた着物を羽織っていますし、画中の地球儀はオランダ東インド会社の主要交易ルートであるインド洋をこちらに向けています。アジアへの憧憬の念を表現した作品と言えるでしょう。

同じモデルを描いた「天文学者」という作品もあります。

ヨハネス・フェルメール作品を所蔵する主な美術館

現存するフェルメール作品は30点余りで、そのほとんど全てが美術館に展示されているため、画家の全作を鑑賞することが他の多くの作家と比べて遥かに容易です。

中でもおすすめの美術館をピックアップしました。ヨーロッパを訪れる際はぜひこれらの美術館に足を伸ばして、フェルメール作品を鑑賞してみてくださいね。

アムステルダム国立美術館

オランダの首都アムステルダムにある、オランダ美術を網羅的にコレクションしている国立美術館です。とりわけ17世紀のオランダ黄金時代の作品が充実しており、フェルメールの作品も多数所蔵しています。「牛乳を注ぐ女」もこちらでご覧いただけます。

マウリッツハイス美術館

アムステルダム国立美術館と並びオランダを代表する美術館で、特に充実しているのはフランドル絵画です。他にも数々のオランダの至宝を所蔵しており、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」と「デルフトの眺望」もここに保管されています。

アルテ・マイスター絵画館

ドイツを代表する美術館の一つで、16世紀から19世紀の巨匠の作品がコレクションされています。フェルメールの「取り持ち女」と「窓辺で手紙を読む女」も収蔵作品に含まれています。後者の作品は近年、塗り潰されていた画中のキューピッドを露わにする修復が行われ、大きな話題になりました。

まとめ:光と色で静謐な世界を表現したフェルメール

ヨハネス・フェルメールは、薄明かりに浮かび上がる人物像を繰り返し描きました。その現実よりも現実らしく、且つひそやかな絵画世界は世界中の人に愛されています。

今回記事を読んで下さった皆さんに、フェルメールの魅力を改めてお伝えできていれば幸いです。

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