伊藤若冲は江戸時代中期の画家です。奇抜な発想や精巧な描写技術で多くの作品を制作しました。
この伊藤若冲が現代で大きく注目を浴びたのはおよそ2000年代前後から。記念展示などを皮切りにして、その偉大な功績が周知されていきました。
今回はそんな奇想な画家、伊藤若冲についてアートリエ編集部が詳しく紹介。伊藤若冲の生涯やエピソード、作品、所蔵場所についてお伝えしていきます。
伊藤若冲とは?
伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は1716年3月に京都で生まれた画家です。字は景和(けいわ)で名は汝鈞(じょきん)と言います。
時期によっては斗米庵や心遠館という号(本名とは別の名称)も名乗っていました。代表作としては《鳥獣花木図屏風》や《動植綵絵》などが挙げられます。
また、動植物を多く題材に取り扱っているのが若冲作品の特徴です。卓越した技量による表現と若冲ならではのタッチや独創性は今なお高く評価されています。
近年は再評価の流れに
伊藤若冲は生前から京都画壇において膨大な人気を獲得していました。その人気ぶりは「平安人物志」(京都の文化人を網羅して当時の人気度などを記録したもの)でも上位に掲載されるほどです。ですが没後は段々江戸絵画の主流とは見なされなくなり、美術史的にもあまり触れられない存在に。
更には代表作《動植綵絵》が1889年に宮内庁へ移され、一般的な公開が無くなったのもあって知る人ぞ知る作家となっていきます。そんな中、1970年代に書籍などで取り上げられる形で再評価の流れが発生。
2000年代前後からは世界的コレクターであるジョー・プライスによるコレクション展示会も行われ、若冲への注目がより高まっていきます。そして現在では、伊藤若冲はドラマ化や定期展示会が行われるほど親しみのある存在として周知されるようになりました。
伊藤若冲の来歴
商人から画家へ
伊藤若冲は京都の青物問屋「枡屋」(桝屋)の長男として生を受けました。枡屋は主に青物市場で販売場所を貸す仕事を行っていたと言われています。多くの商人を対象にして商売を行っていたため、家庭環境は裕福な部類でした。そうした環境の中育った若冲ですが、習い事や学問、遊び事にはあまり興味を持たなかったと言われています。
その反面、熱心に取り組んだのが禅宗をはじめとした仏教や絵の勉強でした。23歳には家業の4代目を襲名。ですが、その状態になっても商いにはそこまで精を出さなかったようです。
30代半ばになると相国寺の僧である大典顕常と知り合い、懇意の仲に。以後、大典は若冲の良き理解者となっていきます。40歳になった1755年には、弟に家督を譲る形で隠居生活に移りました。そしてこの頃から若冲は画家として本格的に活動していきます。
初期作品
伊藤若冲の場合、30代あたりまでに描かれたものが初期作品として扱われています。
その頃は「景和」の名で活動していた可能性が高く、各作品には同名の落款(作者による捺印や署名)が行われていました。作品としては《雪中雄鶏図》《葡萄図》《雪中雄鶏図》などが該当します。
また、後期の作品に比べると初期作品は発展途上な部分や後の原型となる色使いが見られるのも特徴。近年京都で発見された福田美術館所蔵の「蕪に双鶏図」も同様の傾向が伺えるため、初期作の可能性があります。
動植綵絵
42歳の若冲が、1757年から1766年にかけて制作したのが《動植綵絵》です。およそ10年の歳月をかけて完成したこの作品は《芍薬群蝶図》や《梅花小禽図》など計30幅からなる大作になりました。
30幅それぞれには様々な動植物が若冲の手によって綿密かつ、鮮やかに描かれています。なお、《動植綵絵》は同じく若冲が制作した《釈迦三尊像》を飾る目的もありました。
その関係から《釈迦三尊像》と《動植綵絵》はセットのような扱いがされやすいです。
末弟の死を受けて相国寺に作品を寄付
《動植綵絵》の制作を経て、若冲は京都の地で高い人気を獲得していきます。
やがて、当時の京都画壇で天才と呼ばれた円山応挙に次ぐ存在となっていきました。しかし画家生活が順調な一方で、1765年には末弟の宗寂が亡くなるという不幸が起きてしまいます。
この出来事に悲しんだ若冲により、《釈迦三尊像》と《動植綵絵》はその弔いとして相国寺に寄付されました。更に自身の死後を考えた彼は、晩年に解除することになる永代供養契約も結び、生前墓を建てています。
水墨画と版画
伊藤若冲は水墨画と版画でも多数の作品を残しています。この内、水墨画については若冲特有の筆跡や表現、ユーモアが随所に見られるのが特徴。例えば《寿老人・孔雀・菊図》では三幅対を活かした構図作りが目を惹きます。
なおかつ、筋目描きといった画仙紙の滲みやすさと吸湿性を利用する独自技法も活用されました。また、《果蔬涅槃図》では仏教美術の涅槃図を野菜などに置き換えるという大胆な試みも行っています。版画に関しては、描画部分だけ白く抜き出るようにした凹版による拓版画を主に制作していました。こちらはモノトーンの作品だけではなく、木版を活用した多色刷りの花鳥版画も行っています。
作品としては《玄圃瑤華》(1768年)などが有名です。
晩年
若冲が50~60代の時は町年寄という町役人の筆頭職に就き、地元・錦市場の存続に尽力していました。その関係からこの時期は作品の制作があまり行われていません。制作が再び活発になったのは70歳を過ぎたころからです。
その活動背景には1788年に起きた天明の大火で自宅や財産を失い、生活が苦しくなった影響も見られます。当時は米と水墨画などを交換して過ごしたことから、斗米庵(とべいあん)と号していました。活動としては伏見に存在する海宝寺や豊中にある西福寺で障壁画を手掛けていたことも明らかになっています。
そして1800年、伊藤若冲は85歳でその長きに渡る生涯に幕を閉じました。
若冲の特徴・エピソードなど
青果問屋の長男
裕福な青果問屋の長男という環境は、絵の上達を目指す若冲にとって好都合だったと言えるかもしれません。生活にある程度余裕があるのもあって、若冲は絵の勉強に集中して取り組むことができました。具体的には若い頃から狩野派の絵師に一時的に師事したり、狩野派のルーツである宋元画の模写に没頭していたと言われています。
そして身の回りの自然や動植物の写生も次々に行うようになり、後の作品作りを支える描写力が磨かれていきました。また、そうした環境だからこそ若冲は生計のために絵を描く必要がありませんでした。
そのため、注文された絵では描きにくい植物の虫食いや枯れた表現までも、自身の持ち味とすることが出来たのです。
奇想の画家
伊藤若冲は当時としては、型にはまらない発想や表現を行っていました。
それは特定の画派に属さず縛られず、独自で技術を磨いた若冲だからこそ切り開けた境地だと言えるでしょう。彼自身も奇抜なことをしていたのは自覚していたようで、「見る目のある人を千年待つ」という言葉を遺しています。
そんな日本美術史において異彩を放つ若冲は奇想の画家、もしくは奇想派と呼ばれることが多いです。
現代では1970年に出版された書籍「奇想の系譜」で取り上げられたことがその呼び名の定着に影響している可能性があります。
桝目書き
桝目書き(升目描き)は画面全体におよそ1cm間隔で線を引き、沢山の方眼(升目)を作る画法です。各方眼毎には淡い下地色、濃いめの色合いを順に塗り重ねていきます。
そして、四方の隅に陰影を施すなどして全体の調子を揃えていくのが同画法の基本形です。
桝目書きの効果としては、方眼の規則性とフリーハンドによる不規則な描写が画面内で同居することが挙げられます。そうして生まれる小気味良さは西洋のモザイク画に似てはいるものの、この技法独特のものです。ただし、一つ一つの方眼に対して作業する必要があるため、根気が必要な技法とも言えるでしょう。
この桝目書きは、若冲が西陣織の下絵を見たことがきっかけで生まれたという説があります。
若冲の代表作
動植綵絵
《動植綵絵》は絹本著色で作られた30幅の作品群です。絹本著色とはその名の通り、支持体に絹を使い色付けを行う方法。伊藤若冲はこの技法を用いて、極彩色とも表現されるカラフルな色彩を実現しました。
更に柔らかいテイストを生み出す目的で、裏地から彩色を施す裏彩色が駆使されているのも特徴です。各幅は多様な動植物の躍動感や瑞々しさが丁寧に描かれています。細密でありながらも幻想的な雰囲気が漂う様は、どこかシュルレアリスム(超現実主義)に近いものがあると言えるかもしれません。
《動植綵絵》は現在国宝として管理されています。
樹花鳥獣図屏風
《樹花鳥獣図屏風》(江戸時代後期)は草木花と共に多数の鳥や獣が描かれた左右2枚の作品群です。
左隻には鶏や鳳凰、クジャクなどの鳥類が、右隻には麒麟や獅子、白い象などがそれぞれ描写されています。特徴としては、日本にいない動物どころか空想上の生物まで描かれていることが挙げられます。大輪の花や楽園を思わせるような光景から、縁起の良さやおめでたい印象が感じられるのもポイントです。また、この画面を若冲が想像した異国の風景とする見方もあります。
《樹花鳥獣図屏風》には文中で紹介した桝目書きが行われています。その方眼の数はなんと8万以上。細部を見ると方眼毎にしっかりと複雑な色味がついているため、制作時の苦労は想像に難くありません。
老松白鳳図
《老松白鳳図》(1765年~1766年ごろ)は大きく羽を広げた鳳凰を描いた作品です。旭日を仰ぎながら松の上で片足で立つその姿は、周囲との対比も含めてどこか幻想的かつ雄大。
尾羽根の先端部分にはハートを思わせるような模様も見られます。この作品はメインである鳳凰の描写にかなりこだわっているのが特徴です。例えば胴体部分では、黄土や金泥を塗った上で胡粉による羽毛表現を徹底。
羽根の美麗さを際立たせる箇所では下地の比率を多めにするという細かい調整も確認できます。
象と鯨図屏風
《象と鯨図屏風》は左隻に鯨、右隻に白象が描かれた左右2枚の作品群。
同作は水墨画となっており、部分ごとに筋目描きの活用が見られるのが特徴です。画面内では鯨が勢い良く潮吹きするのに対して、独特な造形の白象が鼻を高く上げています。その様はまるで海と陸の王者がお互いに呼応しあっているよう。
白象のユーモラスな態勢や優しい表情、個性的な波間といい、若冲の個性が全面に出た作品だと言えるでしょう。ちなみにこの《象と鯨図屏風》が発見されたのは2008年とつい最近。
落款には「米斗翁八十二歳画」といった文字が見られます。
菜蟲譜
出典:佐野市立吉澤記念美術館
《菜蟲譜》はおよそ160種類の野菜や虫などが描かれた絹本著色の図巻です。サイズとしては約11メートルほどあり、前半には果物や野菜、後半は爬虫類や虫類が登場します。
それぞれ裏彩色や有機染料による瑞々しさや淡さが漂っているのが見所です。なお、冒頭の「菜蟲譜」という題字は大阪で活動したという書家・福岡撫山によるもの。
この事から本作を福岡撫山が発注した、もしくは若冲が贈ったという見方もあります。末尾には「斗米庵米斗翁行年七十七歳画」といった落款がありますが、この通りの制作年数なのかは定かではありません。
何故なら若冲は還暦になってから年齢を多少高くしていた可能性があるからです。
伊藤若冲の作品を収蔵する主な美術館など
京都国立博物館(京都)
京都府京都市東山区にある美術館です。《果蔬涅槃図》をはじめとした多数の花鳥画などが所蔵されています。
過去には「特集陳列 生誕300年 伊藤若冲」といった記念展示も行われました。
皇居三の丸尚蔵館(東京)
東京都千代田区の皇居東御苑内にある博物館施設です。国宝指定の《動植綵絵》や《旭日鳳凰図》が所蔵されています。
開館記念展「皇室のみやび―受け継ぐ美―」では《動植綵絵》の全30幅のうち12幅が展示されました。
金刀比羅宮(香川)
香川県仲多度郡にある神社です。金刀比羅宮奥書院には伊藤若冲による障壁画《百花図》が存在します。
2024年には同作の修復を終えたタイミングで、公開展示「お待たせ!こんぴらさんの若冲展」が行われました。
西福寺(大阪)
大阪府豊中市にあるお寺です。こちらでは重要文化財の襖絵《仙人掌群鶏図》や水墨画《紙本墨画蓮池図》の所蔵をしています。
この内、前者は毎年11月3日(文化の日)に無料公開されるのが恒例です。公開は虫干しのついでに行われるため、雨天時は中止となります。
相国寺承天閣美術館(京都)
京都府京都市上京区にある相国寺境内に作られた美術館です。伊藤若冲と深い繋がりを持つお寺であるためか、若冲に関連した展示を度々行っています。
円山応挙や池大雅など、若冲と同時期に活動した画家作品を所蔵しているのも特徴です。
石峰寺(京都)
京都市伏見区にあるお寺です。境内裏山の石像は伊藤若冲が下絵を描き、住職と共同で制作しました。
観音堂の天井画も若冲が手掛けましたが、そちらは現在流出し外部のお寺が所蔵中です。また、伊藤若冲が晩年を過ごした場所である関係から、石峯寺では毎年9月に若冲忌が行われています。
細見美術館(京都)
京都府京都市左京区にある美術館です。細見美術館では、伊藤若冲の作品をはじめとした江戸絵画を多数所蔵しています。
それらを扱った企画展示も多いです。
まとめ:伊藤若冲は技術と独創性が際立った奇想の画家
以上、伊藤若冲の活動や作品、所蔵場所について解説をお届けしました。本記事の内容を通して伊藤若冲に関する理解をより深めて頂けたかと思います。この機会に美術館などに足を運んで、伊藤若冲の作品を鑑賞してみてはいかがでしょうか。
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