こんにちは。アートリエ編集部です。今回は、近代の日本画家を代表する横山大観についてご紹介します。大観の作品は今もなお現代に息づき、私たちを魅了し続けています。
大観の来歴や作風、代表作を紐解きながら、そこから立ち上がる作品の魅力、そして大観自身の魅力について探っていきましょう。
横山大観とは
横山大観は近代日本画の巨匠であり、明治、大正、昭和にかけて、自らの人生を日本画に捧げた画家でした。
生涯の師と仰ぐ岡倉天心の理念や思想を心に刻み、大観は常にあらたな日本画を模索し続けました。20歳を過ぎて画家への道を歩み始めてから、30代は苦難の時期を迎え、画家として脚光を浴びたのは40歳を過ぎた頃でした。
思想や精神性を作品のうちに表すことを理想とし、画題としては、生涯にわたって数多くの富士山を描いたことで知られています。
横山大観の来歴
横山大観は、いかにして日本画家としての地位を確立していったのでしょうか。
彼の来歴を振り返ってみましょう。
生い立ち
横山大観は、水戸藩士、酒井捨彦の長男として誕生しました。慶応から明治へと元号が改められた1868年の、9月18日のことでした。
やがて酒井家は上京し、大観は青少年期を東京で過ごします。絵の素養のないまま、20歳の頃に東京美術学校を受験しました。幸運にも第一期生として入学を果たし、同校で校長の職に就いた岡倉天心と出会います。
生涯の師と仰ぐ岡倉の思想に心酔し、教授を務めていた橋本雅邦に指導を受けたことは、大観の画家としての人生を決定づけることにつながりました。
日本美術院の成立と衰退
1898年、東京美術学校の校長、岡倉天心が辞職に追い込まれるという騒動がおこりました。すると当時教員を努めていた横山大観を含め、岡倉を慕う多くの教員たちがともに辞職しました。これを契機として、岡倉らによって創設されたのが日本美術院です。
日本美術院創立第一回展で大観が出品した《屈原》は、高い評価を得て、画家としての存在を強くアピールするものとなりました。
しかしその後、菱田春草と始めた輪郭線を用いない新たな描法が「朦朧体」と蔑称されます。大観の作品は売れず、美術院の経営も困窮し、ついには茨城県の僻村、五浦に転居することとなりました。
在野での活躍
五浦での暮らしは苦しいばかりか、相次いで肉親を亡くし、親友の菱田春草も病に倒れ、さらには恩師の岡倉天心を失います。しかし横山大観は岡倉の遺志を継ぎ、日本美術院の再興に尽力します。
同人とともに日本美術院を再興させた大観は、1914年に「自由」を理念とする再興院展を開きました。大観は彩色画と水墨画を平行して制作するなど、画家として実りの時期を迎え、多くの代表作を生み出しました。
また、大正から昭和にかけては皇室とのつながりを深めていくなど、日本画界の重鎮としてゆるぎない地位を確立していきました。
戦争の時代
昭和初期、戦時下の日本では、画家たちにも国への協力が強いられ、芸術作品や展覧会の収入は国に献上されていました。美術界は日本美術報国会によって献上活動のさらなる統制が進みますが、その会長に就任したのが横山大観でした。
戦争は大観の作風に大きな変容をもたらしました。富士や旭日、海といった国を象徴する絵を描き、絵筆をもって国に報いる「彩管報国」という考えを表現しました。大観の作品の売り上げによって、軍用機四機が献上されたことは広く知られています。
円熟時代
横山大観は戦後も変わらず、数多くの富士を描きました。パターン化した富士は自己の模倣と批判されることもありましたが、制作にかける情熱は晩年まで失われることはありませんでした。
戦後の日本では、日本画は国粋主義的であるという強い批判にさらされていました。大観はそのような日本画の将来を憂い、一貫して自らの理想とする富士を描き続けます。その理由として、富士は無窮の姿だといい、自らの芸術もその無窮を追うものだと語っています。無窮を追うとは、理想を追うという意味であり、日本画の復興のために、全身全霊をかけて制作に打ち込みました。
横山大観の画風やエピソード
横山大観の画風は時代とともに変化を遂げましたが、大観は常に日本の美術界を牽引する存在であり続けました。
ここからは、大観の作品の変化やそれにまつわるエピソードを紹介します。
朦朧体
筆墨の線を使わない新たな表現方法で、菱田春草を中心とした日本美術院の画家たちによって開発されました。きっかけは、岡倉天心の「空気を描く方法はないか」という言葉だといわれています。
西洋画を意識した新たな手法で、横山大観自身も朦朧体を用いた作品を制作しました。しかし、批評家からは大変な非難を浴びます。当時の朦朧体という呼称には、「化物絵」や「妖怪画」などの意が含まれていました。
朦朧体には、刷毛を用いて「ぼかし」で透明感を表す方法と、不透明な絵具を塗り重ねることで光を表現する方法がありました。
東洋と西洋の融合
横山大観は菱田春草らとともに、インドやアメリカ、ヨーロッパへと遊学しています。はじめはインドへ渡り、展覧会を開いて朦朧体を広めました。帰国後、次に向かったのはアメリカとヨーロッパでした。西欧では、彼らの朦朧体は本人たちが驚くほどの好評を得ました。
これらの遊学を経て、大観らは朦朧体が新たな色彩画への道を切り拓くものであるという考えに至り、さらなる研究へと歩みを進めます。帰国後に菱田春草とともに制作した「絵画について」というパンフレットでは、朦朧体は正統なものであると論じました。
精神性と自然観
横山大観の作品は、しばしば精神性という観点から評価されてきました。岡倉天心の教えである東洋的な自然観や思想を表わす作品も多く、大正期以降は老子を主題とする作品も描いていました。
戦時下の昭和期には、富士や旭日、海など、時局にふさわしい画題を描きました。それは彩管報国の実現でもありましたが、その一方で、自らの思想を日本の象徴的な自然に投影した、自己表現であったともいえます。
文展
横山大観は、文部省美術展覧会(文展)の第一回から審査委員を努めました。また、文展は大観自身の発表の場でもありました。朦朧体から発展した印象派風の作品や、自然風景に心を写すようないきいきとした作品を発表し、評価を得ます。
しかし、画家としての社会的地位を獲得する一方で、私情を排除して作品本位の評価をする大観は、他の審査委員との衝突が絶えませんでした。そしてついには、文展の審査委員から除外されてしまうのでした。
日本美術院
横山大観が文展の審査委員から除外されたのは、大観の師である岡倉天心が死去した翌年のことでした。岡倉の遺志を受け継ぎ、大観は日本美術院の再興に専念します。
大観はもともと、洋画家の小川未醒と「絵画自由研究所」を設立しようと構想していました。再興日本美術院はこの発想を引継ぎながら、実現へと向かいます。
開院式を行った際、「日本美術院三則」が示されました。その一文に「芸術の自由研究を主とする」というものがあります。芸術の自由を求めた新たな日本美術院には、大観を筆頭に多くの若い才能が集いました。
大観の交友関係
横山大観は、岡倉天心という生涯の師との出会いだけでなく、よき理解者との出会いにも恵まれていました。明治期ではともに苦難の道を歩んだ菱田春草、東京美術学校で切磋琢磨した下村観山がいます。
大正期に入ると、小杉三醒、今村紫紅ら6人の同人とともに日本美術院を再興しました。また、経済的な支えともなったのが、不評にあった朦朧体の、唯一の購入者とされている細川護立です。
さらに大観は美術界だけでなく、夏目漱石や泉鏡花など、同じ時代を生きた作家との親交も深めていました。
横山大観の代表作
数々の名作をのこした横山大観。晩年に至るまで、日本画に対する情熱が途絶えることはありませんでした。
ここからは、大観の代表作といわれる一部を紹介します。
富士山
横山大観は、その生涯で富士山を主題とした多くの作品を描きました。《富士山》は戦後、大観の晩年に描かれた作品です。雲海からのぞく松は濃淡で描き分けられ、そびえ立つ雄大な群青の富士山と調和しています。
戦時下、彩管報国の考えのもとに描いたのは、威厳のある写実的な富士山でした。昭和期のモチーフとして、理想の富士山を描き続ける大観の姿勢は、まさに自身の芸術に無窮を追う姿だといえます。
夜桜
《夜桜》は、1930年にローマで開催された日本美術展に出品された作品です。横山大観は、この展覧会に総代表として参加しました。
大観は制作にあたって上野公園に出かけ、印象的な五重の塔を囲む夜桜を見たといわれています。
満開の夜桜はかがり火に照らされ、まばゆいほどに輝いています。暗い山々を背景に、鮮やかな色彩が一層際立つ絢爛豪華な作品で、制作には5ヶ月を要したといわれています。大観の気迫が伝わる作品ですが、儚く散る花びらには、日本らしい美意識も感じとれます。
生々流転
出典:文化遺産オンライン
《生々流転》は、大正期の水墨画の最高傑作とされています。全長40メートルにも及ぶ巻物作品は、ほかに類を見ません。一滴の雫が川となり湖水となり、やがて海に注ぎ、最後は雲となって天に昇るという水の移り変わりを表しています。
また、ところどころに登場する素朴な人物たちには、不器用な線で描かれた大観らしい味わい深さがあります。
自然の壮大なドラマを通して人の一生を表したこの作品は大きな話題となり、横山大観の評価を決定づけるものとなりました。
朝陽霊峰
昭和初期、明治宮殿豊明殿で飾るため、宮内省からの下命を受けて制作したのが《朝陽霊峰》です。一双の作品で、左隻は雲の間にそびえる崇高な金の富士が描かれています。右隻には堂々と輝く旭日の下に、山々と松林が奥行きをもって描かれました。
富士山、旭日、松といった日本を象徴する主題を描いたこの作品を機に、横山大観は皇室とのつながりを深めていきました。
横山大観の作品が鑑賞できる日本の主な美術館
横山大観の作品を所蔵している美術館を紹介します。
東京国立博物館(東京)
東京国立博物館は、創立してから150年にわたって120万件にものぼる所蔵品を受け継いできました。それらの所蔵品で構成される「総合文化展」では、展示替えを行いながら常時3,000件が展示されています。
横山大観が明治期に描いた出世作《無我》や、重要文化財に指定されている大正期の《瀟湘八景》といった名作を所蔵している美術館です。
皇居三の丸尚蔵館(東京)
1989年、皇室に受け継がれてきた美術品のなかから、約6千点が国へ寄贈されたことを機に建設されました。皇居三の丸尚蔵館は、平安時代から近代までの貴重な作品を所蔵する美術館です。
横山大観の作品は《蓬莱山》や《日出処日本》などがあり、大正から昭和にかけて描かれた作品を中心に所蔵しています。
東京国立近代美術館(東京)
東京国立近代美術館は、19世紀末から現在までの日本の近現代を中心とした美術作品を所蔵しています。企画展のほか、所蔵作品のなかから会期ごとに約200点を展示する「MOMATコレクション」を開催しています。
横山大観の最高傑作《生々流転》を所蔵していることでも知られている美術館ですが、全長40メートルの作品すべてが展示されるのは、企画展のみです。
静岡県立美術館(静岡)
静岡県立美術館は、県議会100年記念事業の一環として設立されました。広大な敷地にはロダン館を併設しています。屋外彫刻も展示するなど、広い視点から芸術に触れることができます。
横山大観の作品は、大正期の名作《群青富士》や、晩年に描いた《富士山》などを所蔵しています。
足立美術館(島根県)
横山大観のコレクションでは日本随一といわれる足立美術館。創設者、足立全康が大観の《紅葉》に言葉も出ないほど感動したことから、収集がはじまりました。
大観の作品は、初期から晩年に至るまで120点あまりを所蔵しています。定期的な展示替えによって、順次大観の作品が鑑賞できます。
横山大観記念館(東京)
横山大観が自宅兼画室として使用していた旧宅を公開し、作品を展示している横山大観記念館。館内は、大観が在りし日のままに保存されている貴重な空間で、日本建築や庭園も見どころです。
大観が東京美術学校在学中に描いた作品から、大正期にかけての作品を所蔵しています。三か月ごとに展示替えを行い、大観にゆかりのあるさまざまな美術品とともに鑑賞できます。
まとめ
横山大観は天才的な画家ではなく、器用な画家でもありませんでした。それでも今日まで、大観の作品は色あせることなく、人びとの心を惹きつけてやみません。ぜひじっくりと鑑賞し、大観の作品に表れる強い意志と情熱を味わってみてください。
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