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2024.07.22

パウル・クレーとは?来歴、エピソード、作風から代表作まで詳しく解説します

パウル・クレーとは?来歴、エピソード、作風から代表作まで詳しく解説します

20世紀に活躍した画家のひとり、パウル・クレー。名前だけは聞いたことがある、という方は多いことでしょう。名前も知らないという方も、詩情あふれるパウル・クレーの作品をどこかで目にしたことがあるかもしれません。

スイスで生まれドイツで活躍したパウル・クレーは、瞑想的なカラーと素朴な線が特徴の画家です。パウル・クレーの魅力や特徴について、アートリエ編集部が詳しく解説します。

パウル・クレーとは

パウル・クレー

パウル・クレーは、スイス生まれの画家であり銅版画家です。音楽的な叙情性を持っているといわれるパウル・クレーの作品。抽象的な作風ながら、明るく上品な色彩で彩られる具象性やナイーブさが人気の理由です。

フランツ・マルクやカンディンスキーと親しみ、ピカソらの影響を受け、独自の画風を確立したパウル・クレー。最盛期にナチスの弾圧を受けたり、難病に苦しむなど波乱万丈の人生の中で、悲哀やユーモアを漂わせた幻想的な作品を数多く残しました。

激動の20世紀を生きたパウル・クレーは、多難な人生のなかで旺盛な制作活動を行った画家でした。

パウル・クレーの来歴やエピソード

ときにはメルヘンを感じるパウル・クレーの作品。詩的な作品を生み出したパウル・クレーの人生を追っていきましょう。

生い立ち

パウル・クレーが生まれたのは1879年。スイス、ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに誕生しました。父はドイツ人の音楽教師、母はスイス人声楽家であり、一人息子であったパウル・クレーは、幼いころから音楽や文学、絵画に親しみながら成長していきます。

パウル・クレーは音楽の才能にも恵まれていましたが、1898年にミュンヘンの私画塾に通い、1900年には美術学校で学びました。

1901年から1902年にかけて、スイス人彫刻家ヘルマン・ハラ―とイタリアを旅行。ローマ、ナポリ、フィレンツェを巡り、ベルンに帰国後は市の管弦楽団のメンバーになっています。

キャリア初期

芸術家としてのパウル・クレーの最初の成功作は、1903年から1906年にかけて制作した銅版画でした。古典的な巨匠の末裔の悲哀を風刺的に描いた銅版画は、アール・ヌーヴォー風の幻想的な作品です。線描の繊細さには、すでにパウル・クレーらしさが垣間見えます。

1906年、パウル・クレーはピアニストのリリー・シュトゥンプフと結婚してミュンヘンに移住。以後、ミュンヘン分離派展に銅版画やガラス絵などで参加しますが、落選続きでした。

1910年にスイス、1911年にミュンヘンで個展を開催。スイスの個展では、ベルンやチューリヒ、バーゼルを巡回しました。

青騎士 (ブラウエ・ライター)を結成

1912年、パウル・クレーはカンディンスキー、マッケ、マルクとともに「青騎士(ブラウエ・ライター)」に参加します。

「青騎士」は、カンディンスキーやマルクがミュンヘンで刊行した雑誌名でもあります。ドイツ表現主義の一翼を担う芸術運動であり、「大いなる精神の時代」を予見するような論文が、雑誌の機軸となっていました。「青騎士」主催の美術展には、ピカソやブラックなどキュビズムの大家も招待されました。しかし中核をなしたのは、カンディンスキー、マッケ、マルク、パウル・クレーの4人。

4人に共通していたのは、造形の根源を模索しつつ、目に見えない精神世界の視覚化を目指した点です。

1914年にはマッケらとともにチュニジアを旅行。この旅行でパウル・クレーは、線描の自律から飛躍して色彩表現に開眼します。「色彩がぼくをとらえた。ぼくと色彩とは一体だ」と日記に書いたパウル・クレーは、この時期に独自の画風を確立しました。

バウハウスで教鞭

1916年から1919年、パウル・クレーは第1次世界大戦のために入隊。除隊後の1920年に、ワイマールのバウハウスに招聘され、造形論の講義を担当しました。

バウハウスは、1919年に建築家のワルター・グロピウスの構想で設立された美術工芸学校です。1933年にナチスによって閉鎖されるまで、近代のデザインや建築に大きな影響を与える存在でした。

パウル・クレーやカンディンスキーらがバウハウスに携わったことで、逆にバウハウスの理念が明確になっていったという経緯があります。バウハウスで教鞭をとっていた1920年代、パウル・クレー自身も教師としての経験によってさまざまなことを習得しました。

パウル・クレーは、1931年にはデュッセルドルフ美術学校教諭になっています。

ナチスによる迫害と亡命

パウル・クレーの画風が成熟期を迎えていた1933年、彼はナチスに追われてスイスに亡命しました。このころから皮膚硬化症という難病を患いますが、創作意欲は衰えませんでした。1935年には、ブラックとピカソの訪問を受けています。

しかし1937年には、ナチスによって「堕落芸術」という烙印を押され、パウル・クレーの作品102点が没収されるという憂き目にあいます。死を意識し始めた晩年のパウル・クレーの作品は、記号的で単純な線描が復活し、原点に戻ったような作風が際立っています。

1940年にチューリッヒで個展を開催したものの、病状が悪化。同年6月29日、ロカルノ湖畔の病院で亡くなりました。61歳でした。

パウル・クレーの作風

Nach der Überschwemmung, 1936

女性に人気のパウル・クレーの作品は、アートに興味がない人の心にも寄り添ってくれるような優しさがあります。

パウル・クレーの作風について、詳しく解説します。

抽象芸術と象徴主義

20代のパウル・クレーが1990年にミュンヘンの美術学校に通ったとき、師であったのが象徴主義の画家シュトゥックでした。

古典的な題材を写実的に描きながら、大胆な装飾的効果を活用したシュトゥックから、パウル・クレーは内面の世界を描く技法を学びます。

また、チュニジア旅行をきっかけにして色彩に目覚めたパウル・クレーの作品は、抽象表現が洗練されていきます。パウル・クレーの抽象風絵画は色彩が明るく、優れた線描が秀逸です。

色彩の探求

パウル・クレーは、1914年のチュニジア旅行をきっかけに「色彩のとりこ」になったと述懐しています。色彩に目覚めたパウル・クレーは、「ポリフォニー(多声音楽)絵画」と呼ばれる色調と色彩を重ね合わせた作品を数多く制作。この試みから、《いにしえの響き》のような傑作が誕生しました。

幻想的・夢幻的な要素

パウル・クレーの最大の魅力、それは幻想的あるいは夢幻的な要素にあふれている点です。

幼少期から音楽や文学に親しんだパウル・クレーは、抽象的な線描やオリジナリティあふれる色彩を駆使しつつ、叙情的な作品を描くことに長けていました。

パウル・クレーのこうしたルーツを知らない人も、彼が作品に込めた瞑想的な世界を実感できます。

音楽との関連

音楽家の両親の薫陶を受けて育ったパウル・クレーは、生涯音楽と密接な関係を持ち続けました。パウル・クレーは若い頃、ベルン管弦楽団でバイオリンを弾いて生計を立てていたほどの腕前を持っていたのです。

画家となってからも、澄んだ音色を思わせる哀調や四次元的な世界が絵画に反映されています。「ポリフォニー絵画」と呼ぶ豊かな色調の重なりが特徴の作品をたくさん残したパウル・クレー、まさに音色を絵画にしたアーティストといえるかもしれません。

バウハウスの影響

バウハウスは美術学校と工芸学校を合併させて誕生した学校で、機械的な生産ではなく、職人的な美的センスと技能の習得を目的に運営されていました。

バウハウスで造形論を講義していたパウル・クレーの理論は、『造形思考』という書籍にまとめられています。そのなかでパウル・クレーは造形の動力学的組成論を展開しており、原像の表現に重点を置いていたことがわかっています。

代表作《本通りと脇道》に代表される、幾何級数的な組成の色面に思い出やテーマを重ねるという技法。これは美と具体性の共存を目指したバウハウスの影響といえます。

パウル・クレーの代表作

晩年まで精力的に絵画制作をつづけたパウル・クレー。その代表作をご紹介します。

Senecio(セネシオ)

Senecio(セネシオ)

1922年、不惑を越えたポール・クレーが描いた《Senecio(セネシオ)》。平坦な幾何学的模様の重なりを利用し、不思議な雰囲気の肖像画を描きました。背景は黄土色で統一され、暖色で構成される絵画は明確な線で強調されています。

「セネシオ」はキク科キオン属の植物の総称。毒性を有している植物からとったタイトルと、繊細で温かみのある作風の相違が不可思議で魅力的です。叙情的抽象主義とも呼ばれるパウル・クレーの真骨頂といった趣があります。

現在はバーゼル市立美術館が所蔵しています。

Angelus Novus(新しい天使)

Angelus Novus(新しい天使)

1920年、バウハウスに講師として招かれた年に制作された《Angelus Novus》。なにかを語りかけるように開いた口、小さく開いた翼、従来の天使像とは異なる姿が描かれています。形而上学的な天使はモダンで、どこかユーモアと哀しみも感じられます。

制作の翌年、《Angelus Novus》は批評家で哲学者のヴァルター・ベンヤミンによって購入されました。ベンヤミンは同作品について「過去を向いている」「見る人から遠ざかろうとしている天使」と解釈しています。

後年、ナチスドイツに追われることになるパウル・クレーとベンヤミンを関連付ける歴史的な作品としても有名です。

現在はイスラエル美術館で鑑賞できます。

Ad Parnassum(アド・パルッスナム)

Ad Parnassum(アド・パルッスナム)

1932年、ナチスによってドイツからスイスに追われる前年に制作された《Ad Parnassum》。ポリフォニー絵画と詩的連想が調和した傑作といわれ、円熟期にあったパウル・クレーの才能が十全に発揮されています。

1926年にイタリアのラヴェンナを訪れたパウル・クレーは、ビザンチン様式のモザイクに感銘を受けたといわれています。その影響を受けたと想像できる分割主義の様式で描かれた《Ad Parnassum》は、鑑賞者に衝撃を与えるインパクトを持っています。

「パルナッスム」は神話にも登場するギリシアの山。パウル・クレーの作品では、ピラミッドのような山のような姿がアースカラーで構成され、太陽に神々しさを感じます。

音楽に精通していたパウル・クレーのハーモニーを感じる名作は、ベルン美術館所蔵です。

パウル・クレー作品を収蔵する主な美術館

パウル・クレー・センター

出典:Wikimedia commons

パウル・クレーの暖かみのある作風を知ると、ぜひ作品を見たくなります。パウル・クレーの作品を所蔵する主な美術館をご紹介します。

パウル・クレー・センター(スイス)

多作だったパウル・クレーの作品のうち、40%を所有しているのがスイスのパウル・クレー・センターです。生まれ故郷のベルンにあるパウル・クレー・センターには、代表作《ドゥルカマラ島》をはじめ、4000点以上の作品を所蔵。

パウル・クレーが半生を過ごした土地で作品を鑑賞できる美術館です。

宮城県美術館(宮城)

東北ゆかりのアートのコレクションで知られる宮城県美術館。海外の作品も充実しています。

パウル・クレーと、彼と共に「青騎士」を盛り上げたカンディンスキーの作品も所蔵。パウル・クレーの作品は、青と赤の対比が美しい《パレッシオ・ヌア》、抽象的な臓器が印象的な《アフロディテの解剖学》。

カンディンスキーの《E.R.キャンベルのための壁画No.4》《商人たちの到着》もぜひ。

アーティゾン美術館

ブリヂストンの石橋財団が運営するアーティゾン美術館には、国内でも有数のクレー・コレクションがあります。

パウル・クレーの音楽性が感じられる《数学的なヴィジョン》、晩年の円熟ぶりが感じられる《島》、抽象と具象のバランスが絶妙な《ホフマン景物語の情景》など、多才な作品が勢ぞろい。

パウル・クレーの生涯を追いながら作品を鑑賞するのも一興です。

まとめ:心温まるカラーを楽しめるパウル・クレーの作品たち

20世紀を代表する巨匠のひとり、パウル・クレー。どこか絵本を思わせる世界が感じられる作風は、日本人にも人気があります。独特のラインや色彩で構成されるパウル・クレーの作品は、音楽のような癒しを感じることも。ナイーブでありながら、普遍的な神々しさも漂います。

日本にもパウル・クレーの作品を鑑賞できる美術館があり、彼の魅力を国内で体感できます。

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