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2024.07.22

歌川広重とは?画風やエピソード、代表作について詳しく解説します!

歌川広重とは?画風やエピソード、代表作について詳しく解説します!

こんにちは、アートリエ編集部です。今回は、江戸時代の浮世絵師である歌川広重について詳しく解説します。

彼の作品は日本だけでなく、世界中の美術愛好家から評価されています。日本史の授業で一度習ったけれど、彼の来歴や作品についてもっと詳しく知りたいという方も多いのではないでしょうか。

歌川広重の来歴や画風、エピソード、そして代表作について知ることで、彼の芸術に対する理解が深まるでしょう。ぜひこの記事を通じて、歌川広重の魅力を再発見してください。

歌川広重とは

歌川広重(1797年 – 1858年)は、日本の江戸時代後期を代表する浮世絵師の一人です。

本名は安藤広重で、歌川豊広(うたがわとよひろ)の門下生として浮世絵の技術を学びました。広重は、特に風景画で名を知られ、『東海道五拾三次』や『名所江戸百景』などのシリーズ作品が多くの人々に愛されています。

広重の作品は、その詩的な風景描写と独特の色彩技法。単なる風景の描写にとどまらず、時代の風情や人々の生活感を繊細に描き出しています。広重の作品は、江戸当時の文化や社会を映し出し、多くの人々が見たであろう情景を形に残しています。

歌川広重の来歴

歌川広重

続いて歌川広重の生い立ちから、晩年に至るまでの人生を追ってみましょう。

生い立ち

広重は1797年に、現代の消防士のような役割を持つ、江戸の定火消同心の安藤家に生まれました。本名は安藤広重といいます。

幼少期から絵を描くことが好きで、その才能は早くから注目されていました。13歳の時、父の死をきっかけに家業を継ぐことになりますが、絵への情熱は失わず、歌川豊広の門下に入門。家族の伝統を受け継ぐために一時的に広重も定火消同心に就きましたが、彼の情熱は絵にありました。

若い広重は、江戸の町で日常的な風景や人々の暮らしを観察し、絵に描くことに喜びを見出していました。

揺籃期

歌川豊広の門下に入門後、広重は浮世絵師としての技術を磨きました。

初期の作品は師匠の影響を受け、美人画や役者絵なども手がけるように。この時期の作品には、技術的な未熟さが見られるものの、既に独自の感性が垣間見えます。広重は、師匠である豊広からの指導のもと、さまざまなジャンルの浮世絵を学びました。

この時期、他の浮世絵師たちの技術や作品から多くを学びつつ、自身の独自の表現方法を模索しました。師匠の影響を残しつつ、次第に独自の画風が確立されていったのです。つまりこの時期の広重の作品は、後々のための基盤となりました。

躍進期

広重の名が広まるきっかけとなったのは、1833年頃に発表されたとされる『東海道五拾三次』です。このシリーズは、江戸から京都までの東海道の宿場町を描いたもので、広重の風景画の才能が存分に発揮されています。

色彩の美しさと細部の描写が評価され、一躍人気浮世絵師の仲間入りを果たしました。

この成功により、広重は多くの依頼を受けるようになり、次々と新しい作品を発表。当時の日本の風景を広く知らしめるとともに、風景画というジャンルを確立することとなりました。

円熟期

躍進期を経て、広重はさらに多くの風景画シリーズを制作しました。

特に、後半でも解説する『名所江戸百景』は、彼の代表作として知られています。このシリーズでは、江戸の名所や風景が細かく描かれ、広重の視覚的センスと技術が頂点に達したと評されることも。

広重は、風景画を通じて江戸の町の美しさや日常の情景を鮮明に描き出しました。

晩年

晩年の広重は、多くの弟子を育てながら、精力的に作品を制作し続けました。1858年に没するまで創造力は衰えることなく、新たに肉筆浮世絵に注力、御用絵師としても活躍しながら、多くの名作を世に送り出しました。

広重の影響は、後世の芸術家にも大きな影響を与えています。彼の作品は、江戸時代の風景や文化を後世に伝える貴重な記録でもあります。晩年の広重の作品は、これまでの経験と技術が集約されたものであり、彼の芸術の真髄を感じさせます。特に風景画は、自然の美しさだけでなく、そこに暮らす人々の生活や文化が息づくもの。

広重は、最後まで浮世絵師としての情熱を持ち続け、その遺産は今も多くの人々に影響を与え続けています。

歌川広重の画風

京都名所之内 淀川

歌川広重の画風は、彼の作品を特徴づける重要な要素です。ここからは、彼の風景画と独特の色使いについて詳しく見ていきましょう。

風景画

広重は風景画の名手として知られています。彼の風景画は、自然の美しさを繊細かつ大胆に表現しており、細部にまでこだわった描写が特徴です。

たとえば、『東海道五拾三次』では、各宿場町の風景がリアルに描かれ、見る者にその場の空気感を伝えます。広重の風景画は、単なる風景の再現にとどまらず、自然と人々の生活が織り成す物語をも描いているのです。

広重の風景画には、季節の移り変わりや天候の変化が巧みに表現されています。彼は、風景の中に生きる人々の姿を描くことで、自然と人間の共生をテーマにした作品を多く残しました。また、広重は遠近法を巧みに使うことで、画面に奥行きと立体感をもたらし、視覚的に豊かさをもたらしました。

広重の風景画は、町人たちの生活が垣間見られる詩的な表現と細部へのこだわりで、多くの人々に愛されています。彼の作品を見ることで、当時の日本の風景や文化、そして人々の生活に触れることが可能に。広重の風景画は、単なる景色の描写にとどまらず、深い感性と技術が詰まった芸術作品といえるのです。

ベロ藍

広重の作品には、「ベロ藍」と呼ばれる鮮やかな青色が多用され、広重の作品に独特の魅力を与えています。「広重ブルー」という言葉が有名ですが、これは広重が作品に頻繁に使った、海外から輸入された合成顔料「ベロ藍」です。

ベロ藍は18世紀初頭にドイツのベルリンで偶然に発見されたもので、1747年に日本に初めて持ち込まれたとされます。西洋では「プルシアンブルー」とも呼ばれ、その発見地にちなんで「ベルリン藍」、さらに略して「ベロ藍」と呼ばれました。

江戸時代の日本でこの青がもたらした鮮明な色合いは、人々を驚かせ、ベロ藍を使った浮世絵は一大ブームとなりました。広重はこのベロ藍を用いて、空や水の広がりを強調し、風景画に深みと立体感をもたせました。

彼の風景画には、この鮮やかな青が効果的に使われており、視覚的なインパクトを与えています。広重の巧みな使い方により、ベロ藍は空の透明感や水の清涼感を際立たせ、その絵に新しい命を吹き込みました。

ベロ藍は、広重と同時代に活躍した他の浮世絵師たちにも影響を与えました。葛飾北斎の「富嶽三十六景」にもベロ藍が使われ、特に「神奈川沖浪裏」の大波の描写では、この青が巧みに用いられています。濃淡を使い分けたベロ藍の色彩は、波の動きをリアルに表現しました。

従来の植物由来の青色顔料とは異なり、ベロ藍はその鮮やかさと透明感で、浮世絵の表現の幅を広げました。たとえば、「武州玉川」では、空の美しい青と川の澄んだ水がベロ藍によってリアルに描かれています。

このようにベロ藍は、広重の風景画を象徴する重要な要素であり、ベロ藍を選んだ彼の色彩感覚と技術の高さも示しています。江戸の風景や自然を新たな視点で描き出した広重の作品は、ベロ藍によってその美しさを増し、後世の浮世絵師たちにも大きな影響を与えました。

歌川広重の評価、エピソード

東海道五十三次之内 蒲原

歌川広重は、その独特な画風と技術で高く評価されていますが、彼の人生には興味深いエピソードも多くあります。

ここからは、広重の評価やエピソードについて詳しく見ていきましょう。

葛飾北斎との比較

広重と同時代に活躍した浮世絵師に、葛飾北斎がいます。

北斎はダイナミックで劇的な構図が特徴である一方、広重は穏やかで詩的な風景を描くことが多かったです。

両者の作品は、浮世絵の多様性を示す好例。両者とも対抗意識を持っていたとされてはいますが、どちらが優れているかというよりも、それぞれの画風が浮世絵にどれほどの表現の豊かさ、可能性をもたらしたかで評価すべきでしょう。

広重と北斎の画風の違いは、それぞれ作品の主題にも反映されています。

北斎は大胆な構図と色彩を好み、劇的な瞬間を捉えることに長けていました。一方、広重は風景の静かな美しさを描き、見る者に安らぎと詩情を感じさせます。両者の作品は、浮世絵の多様な表現力を示し、それぞれが独自の魅力を持っているのです。

ゴッホの絵画との関係

広重の作品は、西洋の芸術家にも大きな影響を与えました。特に有名なのは、オランダの画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホです。

ゴッホは浮世絵を収集し、模写などを積極的に行うなどして画風に影響を受けました。彼の作品には、広重の風景画の要素が取り入れられており、ゴッホ独自の画風に新しい要素を加えました。

広重の色彩や構図に感銘を受け、自身の作品に取り入れることで新しい表現を生み出しました。彼の有名な作品『アルルの跳ね橋』などには、広重の影響が見られます。

ゴッホは、広重の作品を通じて東洋の美学を学び、西洋の絵画に融合させました。このように、広重の影響は国境を越えて広がり、多くの西洋の芸術家に新しい視点と技術をもたらしたのです。

副業で火消し!?

広重は浮世絵師としての活動の傍ら、江戸幕府の火消し役人としても働いていました。当時の浮世絵師には珍しいことで、この経験が彼の作品にリアリティと深みをもたらし、風景画に描かれる人物や建物の描写にも反映されたといえます。

広重の火消役人としての経験は、彼の観察力と描写力に大きな影響を与えたとみられます。彼は火消しとしての任務を通じて、江戸の町や人々の生活を詳細に観察する機会を得たためです。

このように副業として浮世絵師をしていたことで、広重の作品には多彩な人生経験が反映されることとなり、彼の作品の独特な魅力となったといえます。

歌川広重の代表作

広重の画風や技術を理解するうえで、有名な作品群に関する知識は欠かせません。

以下からは、彼の代表作品について詳しく紹介します。

『東海道五拾三次之内』

東海道五拾三次之内

『東海道五拾三次之内』は、広重の代表作であり、日本の浮世絵史においても重要な作品です。

このシリーズは、江戸から京都までの東海道の宿場町を描いており、それぞれの宿場の風景と人々の生活がリアルに描かれています。広重の風景画の技術と色彩の美しさが存分に発揮された作品であり、彼の名声を確立しました。

広重は、このシリーズを通じて東海道の風景や宿場の特色を詳細に描き出しました。彼の作品には、季節の変化や天候の違いが巧みに表現されており、見る者にその場の空気感を伝えます。

『東海道五拾三次』は、広重の風景画の中でも特に評価が高く、後世の多くの芸術家に影響を与えたとされています。

『名所江戸百景』

『名所江戸百景』は、広重が晩年に手がけたシリーズ。江戸の名所を描いた作品です。

このシリーズは、広重の風景画の集大成。細部にわたる描写と色彩の使い方が高く評価されています。特に以下から詳説する「大はしあたけの夕立」や「亀戸天神境内」は、広重の代表作として広く知られています。

『名所江戸百景』は、江戸の町の名所や風景を詳細に描いた作品であり、広重の視覚的センスと技術の極み。このシリーズは、広重の風景画の中でも特に評価が高く、彼の技術と芸術性が最高峰に達した作品です。

大はしあたけの夕立

大はしあたけの夕立

突然の夕立が橋を渡る人々を驚かせる瞬間が、この絵の構図です。「安宅(あたけ)」地域へと避難しようとしている人々の焦る感情や戸惑いが伺えます。

広重の巧みな色彩と構図が、雨の勢いや風景の一瞬を見事に捉えています。広重の風景画の中でも特に評価が高く、リアリティと美しさが特徴。

『大はしあたけの夕立』は、広重の風景画の中でも特に評価が高く、彼の技術と感性が発揮された作品です。広重の巧みな色彩と構図が、雨の勢いや風景の一瞬をリアルに描き出しています。

亀戸天神境内

亀戸天神境内

亀戸天神の境内を描いたこの作品は、梅の花が咲き乱れる美しい風景が特徴です。

広重の繊細な筆致と鮮やかな色彩が、春の訪れを生き生きと表現しています。広重の風景画の中でも特に人気が高く、情景の美しさが多くの人々に愛されています。

『木曽海道六拾九次之内』

木曽海道六拾九次之内「須原」

『木曽海道六拾九次之内』は、東海道と並ぶ重要な街道を描いたシリーズで、広重と渓斎英泉の合作です。

各宿場の特徴を捉えた風景画であり、広重の描写力と観察力が発揮されています。広重が手がけた「須原」では、突然の雨に慌てふためく人々の姿が描かれています。雨宿り、堂に駆け込む人々、柱に何かを書きつける旅人など、急な雨に対する人々の反応が生き生きと描写されているのです。

雨脚は薄墨の上に胡粉を重ねることで表現され、地面の藍のぼかしは水気を含んだ空気感を巧みに伝えています。このように『木曽海道六拾九次之内』は、広重と英泉の合作による独特の視点と技術が合わさったシリーズであり、日本の浮世絵史においても特筆すべき作品群となっています。

歌川広重作品を所蔵する主な美術館

栃木県那珂川町にある那珂川町馬頭広重美術館

出典:Wikimedia commons

広重の作品は多くの美術館で所蔵されており、実際に鑑賞することができます。以下からは、広重の作品を所蔵している主な美術館について見ていきましょう。

東海道広重美術館

静岡県にある東海道広重美術館は、広重の作品を専門に展示する日本で初めての美術館です。広重の代表作を中心に、約1,400点に及ぶ浮世絵を所蔵。たとえば『東海道五拾三次之内』(保永堂版東海道)、『東海道五十三次』(隷書東海道)、『東海道五十三次之内』(行書東海道)といった風景版画の名品や、晩年の傑作『名所江戸百景』など。

定期的に特別展が開催され、展示替えも毎月行われるため、訪れるたびに新しい発見があります。また、講演会やギャラリートークといった催しも随時開催され、広重の作品や浮世絵の魅力をより深く楽しむことが可能です。

那珂川町馬頭広重美術館

栃木県に那珂川町馬頭広重美術館は、歌川広重の肉筆画を中心とする青木藤作氏のコレクションを展示する美術館です。

平成7年の阪神淡路大震災後、青木氏の遺族からコレクション寄贈の申し出があり、平成8年に設立されました。青木氏は栃木県出身の実業家で、広重の作品を多数収集。

美術館の建物は隈研吾氏の設計によるもので、地元産の八溝杉や烏山和紙、芦野石を使用し、自然と調和した伝統的な外観が特徴です。年間8回の所蔵品展と数回の特別展が開催され、地域文化の充実と活性化に貢献しています。

中山道広重美術館

中山道広重美術館は、岐阜県恵那市にある浮世絵美術館です。浮世絵版画の展示に力を入れており、所蔵品は1500点にも及ぶほど。

展示品のうち「田中コレクション」は、恵那市の実業家・田中春雄氏が30年以上かけて収集した広重の浮世絵を中心としたもの。「木曽海道六拾九次之内」など希少な作品もあります。「吉村コレクション」は、名古屋市の眼科医・吉村トシ子氏が寄贈した日本画や洋画、ガラス工芸など多岐にわたる美術品。

年間を通じて多彩な企画展や特別展が開催され、2024年には三代歌川豊国の展覧会や「浮世絵グルメツアー」が予定されています。常設展示はなく、浮世絵の保全のために企画展や特別展の期間に合わせて開館しています。

広重美術館

広重美術館は、山形県天童市にある浮世絵美術館です。歌川広重の作品を中心に、浮世絵版画や肉筆画、関連書籍を展示しています。

天童市に広重美術館がある理由は、幕末に天童藩が財政難の際、広重に依頼して描いてもらった「天童広重」と呼ばれる肉筆画が由来です。広重は天童藩士や藩医と親しい関係にあり、藩のために200~300幅の絵を描きました。その一部が現在も天童市近郊に残っています。

広重美術館は、歌川広重の生誕200年を記念して1997年4月に開館。展示内容は定期的に変更され、浮世絵の保存と良好な状態での展示を目的として、年間約1ヶ月の展示制限があります。

まとめ

本記事では、歌川広重の来歴や画風、代表作について詳しく解説しました。彼の作品は今でも多くの美術館で展示されており、芸術的価値は今も多くの人々に影響を与えています。

特に日本では、多くの美術館で彼の作品を鑑賞することができ、広重の独特な画風と技術を堪能することができます。是非、彼の作品を生で鑑賞してみてください。

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