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2024.08.14

エル・グレコとは?来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

エル・グレコとは?来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

ドラマチックな宗教画を多く残した西洋画家、エル・グレコ。日本でも広く知られている作家ですが、彼の美学やどんな生涯を過ごしたかは意外と知られていません。 そこで今回はエル・グレコの来歴や画風、代表作などをアートリエ編集部が解説します。

エル・グレコとは

エル・グレコ(本名:ドメニコス・テオトコプロス)は、16世紀に活躍したカトリックの宗教画家です。

筆名は定冠詞ELと、ギリシア人を意味するグレコを合わせた渾名で、その名の通りギリシアのクレタ島出身です。イタリアで修行を積んだ後、スペインのトレドで成功を収めました。画業のほとんどがトレドに行ってからのもので、「トレドなくしてエル・グレコなし」と言われたほどでした。

マニエリスムの巨匠として知られていますが、独特な表現手法はその様式に収まらない前衛的な性格を有しています。

エル・グレコの来歴

エル・グレコ

エル・グレコの絵画の独自性には、生まれ故郷のクレタ島で身についたビザンティン美術の影響が見て取れます。その基盤と、イタリアやスペインで学んだ芸術理論や培った美学が融合し、唯一無二の画風へと昇華されたのです。

具体的にどのような来歴が彼の絵を作り上げていったのか、その変遷を紐解いていきましょう。

若年期

1541年にヴェネツィア共和国支配下のクレタ島に生まれたエル・グレコ。20代前半にはギリシア正教の宗教画、イコンを手掛ける画家として独立していました。

このイコン画で用いられる技法・テンペラや、その図像学などは、ギリシア正教を国教としたビザンティン帝国時代から引き継がれてきたもので、西ヨーロッパのカトリックとは全く異なる文化です。

グレコのルーツにはこのビザンティン美術があり、彼の絵にしばしばエキセントリックで東方的な色や形をもたらしました。彼は元々、カトリックではなくギリシア正教の宗教画家だったわけです。

ヴェネツィア時代

1567年、26歳の時に活躍の場を求めてヴェネツィアに渡ります。折しもヴェネツィアの美術は、後期ルネサンスからマニエリスム全盛期へと移行した時期。グレコはティツィアーノやティントレットといった当時の代表的な画家に強い影響を受けながら、西ヨーロッパの絵画技法を習得していきました。

理知的な作家だった彼は、油彩画やカトリック美術の図像学の習得に留まらず、古典古代からマニエリスムまでの芸術理論を理解するため勉強に励みました。

イコン画家からラテン風の宗教画家へ。グレコの絵はこうして西欧化していったのでした。

ローマ時代

グレコは十年ほどイタリアにいましたが、その内1570〜76年はローマで過ごしたと目されています。尤も、すぐにヴェネツィアに戻ったという説もあり、真偽は定かではありませんが。ともあれ彼はローマで幾つかの足跡を残しています。

まずイタリアを代表するパトロン、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に仕えるも、数年で解雇されてしまいました。職を失ったため、サン・ルカ絵画組合にドミニコ・グレコの名で入会。すぐに工房を開いています。また画家活動と並行して、人文主義サークルと交流し、教養を深めました。トレドの聖職者との出会いは、後のスペイン行きの足掛かりともなりました。

当時のイタリアではイタリア人画家が活躍しており、異邦人画家の出る幕はなく、仕事はあまりありませんでした。ヴェネツィア時代とローマ時代を合わせて作品数は、20数点ほどで、主に肖像画を製作していました。

トレド時代

イタリアに見切りをつけたグレコは、1576年35歳の時にスペインへ渡っています。当初マドリードにいましたが、翌年春に移ったトレドでは栄光と没落が待っていたのです。

まずトレドに着いてすぐ、二つの大作で華々しく画壇デビューを果たしました。それが大聖堂聖具室を飾る祭壇画「聖衣剥奪」と、シトー会系女子修道院サント・ドミンゴ・エル・アンティグオの巨大祭壇衝立画です。

そして1580年には国王フェリペ二世から、新たに建造するエル・エスコリアル修道院付属聖堂の祭壇画を依頼されました。そこで「聖マウリティウスの殉教」の制作に力を注いだグレコ。けれど完成した絵はフェリペ二世の意向にそぐわず、「よく描けてはいても祈る気をそぐ」と採用してもらえませんでした。

宮廷入りの望みが断たれたグレコでしたが、彼の描く感傷的な聖人像が個人の顧客の間で人気を博し、成功を勝ち取ります。その後も数々の傑作を生み出し、偉大な芸術家へと駆け上がっていきました。運営していた工房では彼の絵のレプリカやコピーが大量生産され、新大陸にまで輸出されていたとされています。

晩年

栄華を極めたエル・グレコ。その絵は次第に一般信者を祈りに導くドラマチックな宗教画を逸脱し、限られた人にしか評価されない前衛的なものへと変容していきました。さらに、分かりやすく大衆的なバロック絵画が登場した時代で、彼の作風は完全に時代遅れなものとなっていました。

それでも教養あるパトロンに支えられ仕事を続けていましたが、支払いをめぐって多くの訴訟を起こし、何度も注文主とトラブルになっています。晩年は金銭的にかなり困窮しており、借金の返済を息子に託して73歳で病死しました。

エル・グレコの画風やエピソード

《盲人の治癒》

エル・グレコの絵では、視覚的なメッセージとして色と形と光が効果的に用いられています。それぞれの要素には、一体どんな意味が込められているのか。

生前のエピソードや、一度忘れ去られていた作家が300年の後に再評価された経緯も合わせてご紹介します。

強烈な色彩

非自然的で力強い色彩は、画面の中で重要な役目を果たしています。赤や黄色といった鮮やかな色彩は暗い背景をものともせずにつんざいて、絵画世界に劇的な緊張感をもたらしているのです。

この色使いは色彩に特徴のある、ビザンティン美術のイコンと、ルネサンスの画派の一つ、ヴェネツィア派の影響を反映したものだと考えられています。

伸びやかな人体表現

異常に長く、ひねりを加えられた人体のフォルムも印象的です。10頭身以上にもなる体は優美で力強くもあり、情感に訴えかけてきます。

これはマニエリスム的な表現であると同時に、エル・グレコの美学の表れでもあります。

まず長い体は、ルネサンスの巨匠、ミケランジェロに触発されたものだとも、イコンから学んだものだとも言われています。またひねりは、人体の魅力は動きにあるという考えによるものです。現実にはありえないようなダイナミックな動きは、人物に迫力と物語性を与えています。

ドラマチックなライティング

色彩と人体表現と並んで、光も欠かすことのできない要素です。グレコの作品では、陰影をくっきり描き、荒いタッチで光を闇から浮かび上がらせることで、光が強調されています。根底には「光は聖なるもの」という思いがあり、過剰なまでの光の洪水で神聖な場面を演出しています。

長身痩躯の人物も、ドラマチックな陰影があるからこそ、揺らめくような視覚効果を得るのです。

書籍収集家

彼の美学はその教養の上に成り立ったものです。そしてその知識を裏付けるのが、彼の蔵書目録です。

死後に作られた目録には、古典古代から同時代までの美術書に加え、建築理論、新プラトン主義的な哲学思想まで、幅広く豊かな129冊の蔵書が記録されています。

グレコは熱烈なカトリックの宗教画家だったというよりは、こうした書籍収集で得た豊富な知識を駆使し、理知的な作品を生み出した画家だったのです。

建築家・彫刻家として

グレコは実際に建築を手掛けたことはありません。しかし、建築に強い関心を抱いていたことは確かです。絵画、彫刻、建築的枠組みからなる祭壇衝立で、画を担当するだけでなく、設計や彫刻、組み立てなどの作業を取り仕切ることもありました。

また、自ら制作した彫刻も数点あります。これはこれ自体が作品なのではなく、絵画のポーズ研究に役立てたと考えられています。

19世紀の再評価

晩年、画風がどんどん前衛的になっていったことから、死後は忘れ去られ、美術批評の世界でも「奇矯な画家」のイメージがついていたエル・グレコ。

そんな彼が今日ではマニエリスムの巨匠として誰もが知る存在へと返り咲いているのは、19世紀末から20世紀の再発見によるものです。この時代、スペイン絵画が一大ブームになりマニエリスムが復権し、ビザンティン美術の研究も盛んに行われていました。グレコは両方の文脈において再評価され、ピカソやセザンヌにも影響を与えました。

再発見の後は、単なる宗教画とは一線を画す画風が評価され、時代を超えて愛され続けています。

エル・グレコの代表作

数多くの作品が残したエル・グレコですが、中でも絶頂期に描かれ彼の特徴をよく表している代表作がこれらの作品です。どれも印象的でドラマチックな名作ですから、まずはこちらの作品をぜひチェックしてみてください。

受胎告知

受胎告知

1596〜1600年。グレコは受胎告知の絵を複数のパターンで幾つも描いています。中でもエル・グレコの宗教画の精髄とも言われる大作が、現在プラド美術館に所蔵されている、ドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院大祭壇衝のもの。

マリアに告げられる奇跡が、その夢を見るような顔つきや中央で光り輝く精霊(鳩)によって強調されています。目線を上へ上へと誘う構図で、一般的な受胎告知の図とはかけ離れた動性に満ちています。

大原美術館にあるものは、この受胎告知からマリアとガブリエルのみを取り出したような小品で、個人の祈祷用絵画として制作されたと思われます。同じ構図で同時期に描かれたヴァリエーションが、他にハンガリーとアメリカに一点ずつ存在します。

オルガス伯の埋葬

オルガス伯の埋葬

1586〜88年作。トレドのサント・トメ聖堂に所蔵されている一大傑作です。徳が高く1323年の死に際しては奇跡が起こったと伝えられている、オルガス伯爵の墓を飾るために描かれました。

画面はミサの様子を映し出した下半分と、神の国を描いた上半分に分かれ、カトリックの理念を明確に伝えています。黒い衣装に身を包んだ会葬者たちの前で金色に輝く服を纏った二人の聖者や、光の中にある天上の人々は目を奪う壮麗さです。

体のひねりなどは控えめですが、グレコ独自の画風が顕著になってきた初期の作品で、トレドで名声を確立した記念碑でもあります。

トレド風景

トレド風景

1600年頃作。自身の第二の故郷であるトレドを象徴的に描いています。実際の風景よりも地形を極端化し、黒雲の湧いた空を光に切り裂かせることで、よりドラマチック且つ神秘的に演出しています。

従来の風景画とは全く違いますが、グレコの中のトレドのイメージだとも、栄光に満ちたトレドの姿を語り継ごうとするパトロンの意向を反映したとも言われています。

ラオコーン

ラオコーン

1610〜14年頃作。古代ギリシアの彫刻「ラオコーン」を絵画で表現した作品です。元になっている彫刻は16世紀に発見され、ミケランジェロが「芸術上の奇跡」と絶賛したものです。

エル・グレコはこの作品に自分なりの解釈を加え、トレドの景色をバックに蛇と闘うラオコーンの姿を描きました。ただその白い裸体は死闘と言うには美しく、さらに異教的主題を扱ったグレコ唯一の作品なので、非常に特異で解釈の難しい一作となっています。

エル・グレコ作品を収蔵する美術館

国立西洋美術館

出典:Wikimedia commons

グレコの作品を観るなら、プラド美術館が所蔵数も多くおすすめです。とは言っても気軽に行ける場所ではありませんよね。

日本で観たい、という方は岡山の大原美術館と東京の国立西洋美術館を訪れましょう。日本にあるグレコ作品は、この二館に一点ずつ収められた、たった二作品のみなのです。国内で観られる貴重な作品なので、ぜひ実物を観に行ってみてくださいね。

プラド美術館(スペイン)

歴代のスペイン王家のコレクションを展示する、世界有数の美術館。所蔵品は二万点を超え、エル・グレコの作品も、代表作の「受胎告知」の他、多数所蔵しています。

大原美術館(岡山)

洋画家・児島虎次郎が実業家・大原孫三郎の支援を受けて収集した作品を展示している美術館で、近代の西洋美術作品がメインとなっています。

ここで常設展示されている「受胎告知」は児島が1922年にパリの画廊で見つけ、是が非でもと買い付けてきました。日本にあることが奇跡と言われる貴重な作品で、日本でのエル・グレコの地位確立に貢献しました。

国立西洋美術館(東京)

西洋美術全般を対象とする唯一の国立美術館である国立西洋美術館にも、エル・グレコの作品が一点収蔵されています。それが晩年の作品「十字架のキリスト」。こちらも常設展で展示中です。

まとめ:独自の美学を貫いた芸術家、エル・グレコ

エル・グレコの絵画は一種独特な、見るものを圧倒する力を持っています。一見すると奇妙な印象を受けますが、見れば見るほどこちらを惹きつける魅力に溢れています。

今回記事を読んで下さった皆さんにも、改めてそんな魅力の一端を感じ取っていただけたのではないでしょうか。

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