水墨画とは
水墨画とは中国で誕生した墨を使って描かれる絵画のことです。鎌倉時代に日本に伝わり、独自の発展を遂げて日本美術における主流な表現方法の一つとなりました。墨の濃淡やぼかし・にじみによる表現、筆致や筆圧による技術、構図や余白の取り方といった様々な要素の組み合わせによって、自然、人物、花鳥などが描かれます。
日本では禅とともに発展した歴史的背景もあり、簡素さに美を見出し、侘び寂びを重んじる日本の精神性と親和性が高い表現方法です。歴史上の先人たちは、余白の白と墨の黒のみで万物のありようや想像の世界を巧みに表現してきました。
この記事では、水墨画の中国と日本における歴史とその特徴、および代表的な画家についてアートリエ編集部が詳しく解説します。
水墨画の歴史
中国で生まれた水墨画
漢代
中国において墨は、殷の時代にはすでに使用されていたと言われています。墨を用いた絵画も漢の時代には存在したと言われており、墨による着色が施された壁画が現在でも残されています。
唐代
それまで着色画が中心だった中国の絵画に、水墨画が独立した形で登場したのは唐の時代です。墨の濃淡を利用した絵画が生まれ、唐代の後半には山水画の技法として発展していきます。
また、唐代には撥墨法という水墨画の技法が一世を風靡します。撥墨法とは、墨を散らしてできた偶然の形を山や岩などに見立て、わずかに筆を入れて完成させる手法です。
宋代
宋代には文人官僚の遊びとして水墨画が発展し、それまでの着彩画に変わって水墨画が主流になり、禅宗の人物画などが墨で描かれるようになります。
元代
元代の末期には黄公望、王蒙、倪瓚、呉珍の「元末四大家」と呼ばれる四人の文人画家が登場し、山水画をさらに発展させていきます。それぞれが広く諸国を巡り歩きながら絵を描き、写生よりも心象を重視した山水画を描きました。
明代
明時代の中期に入ると、蘇州(呉)を中心とする江南地方で元末四大家を引き継ぐ文人画の担い手が登場しました。彼らは「呉派」と呼ばれ、詩・書・画のそれぞれに長けた文徴明が中心となって活躍しました。文徴明は暖かく柔らかみのある筆致で水墨山水画を描き、優雅な画風を築きました。
一方で浙江と福建出身の画家たちは「浙派」と呼ばれ、宮廷絵画の様式から脱却した大胆なタッチの水墨画を発展させました。
明代における水墨画の発展は、後世に大きな影響をもたら水墨画の正統派を形成しました。
清代
清代においては皇帝によって正統派の画風が高く評価され、宮廷画院、文人画家、民間画家が大いに活躍しました。一方でヨーロッパの宣教師によって西洋画法が流入し、立体的な表現や遠近法が新しい表現方法として次第に取り入れられていきます。
また都市の発展に伴って美術市場が形成され、職業画家が誕生したのもこの頃です。揚州では奇怪なものを標榜する画家たちが活躍し、正統派から逸脱したグロテスクとも言われる画風で花鳥画などを描きました。
日本の水墨画
鎌倉時代後期
日本には鎌倉時代後期に禅宗伝来とともに、元・宋の文物が流入し水墨画の様式が流行するようになります。それまで日本に存在した均質な線描による絵画表現とは異なる水墨画の様式は、禅の教えを伝える表現形式として絵仏師や禅僧が中心となって広められました。「達磨図」や「瓢鮎図」がこの頃の初期水墨画の代表作として挙げられます。
室町時代
日本の水墨画の最盛期とも言われる室町時代には多くの画僧が誕生し、日本独自の水墨画の様式が生まれました。足利幕府は文化の新興に力を入れたため、唐物と呼ばれる中国の書画や茶道具、水墨画などが大量に流入し、特に南宋時代の画家の作品が珍重されました。
また足利幕府は禅宗を庇護したため禅文化が栄え、如拙、周文、雪舟といった現代でも有名な画僧が登場しました。特に雪舟の功績は大きく、その様式は「雪舟様式」として大流行し、狩野派がその様式を継承し発展させました。
安土桃山時代
雪舟様式の流行が続く中、狩野派などの諸派に学んだ長谷川等伯は金碧障壁画と水墨画で独自の画風を築きました。「松林図屏風」は等伯の代表作であり、日本の水墨画における最高傑作としても名高い作品です。等伯は狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派は狩野派に対抗する存在となります。両派は雪舟の影響を受けながらも、独自の水墨画の傑作を数々生み出しました。
江戸時代以降
江戸時代に入ると琳派による花鳥風月を描いた水墨画が登場します。中期になると中国趣味が流行し、中国文人に憧れた絵師たちが文人画(南画)を発展させます。中国の南宋画を日本的に解釈し、池大雅や与謝蕪村などの画家が墨を利用した山水画や花鳥画などを描きました。
江戸後期には谷文晁、伊藤若冲、円山応挙などの画家たちが水墨画の技法を取り入れたさまざまな画風を築きました。
水墨画の表現技法
線と面
水墨画においては、筆の持ち方、腕の構え方、筆の運び方などによって一本の筆でも多様な表現が可能です。穂先が線の中央に通るようにする「直筆」という技法を用いれば、力強く真っ直ぐな線が引けるのに対し、筆を斜めに傾けて筆の腹を使って描く「側筆」では幅の広い線が引け、面的な表現ができます。
一本の線の多彩さ
水墨画においては一本の線にも多彩な表情を持たせることができます。「三墨法」と呼ばれる技法では、一筆の中に墨のグラデーションができるように筆に墨を含ませて描くと、一本の線の中にも墨の濃淡が生まれます。また、穂先を利用して線の描き出しを鋭く尖らせるのと、丸くさせるのとでは、線の表情が全く異なります。水墨画に色彩はありませんが、「墨に五彩あり」とも言われるように、線の多彩な表情と余白によって色彩を超えた独自の美しさを求めるのが水墨画の本質です。
墨面とにじみ
水墨画においては美しい墨の濃淡を持った墨面とにじみの調子が重要視されます。自然の幽玄さをいかに表現するかを追求する山水画においては、にじみの調子による情感の表現と、描かれた部分に対比される余白の美しさの表現に力点が置かれます。にじみの表現においては、濡れた紙が乾かないうちに他の濃さの墨を置く「たらしこみ」などの技法がよく用いられます。
水墨画のジャンル
山水
山岳や河川などの自然を題材とした山水画は、中国における水墨画の歴史とともに発展しました。中国大陸の自然の雄大さと幽玄さを墨の濃淡だけで表現する山水画の過去の作例においては、現実の景色を再現している場合もありますが、山、樹木、岩石、川などの型を組み合わせ再構成したものが多いとされています。
人物
日本における初期の水墨画においては、禅僧の肖像や達磨をはじめとする祖師像、道教及び仏教関連の人物画が盛んに描かれました。
花鳥
唐末から五代時代にかけて中国で体系化され、やがて日本にももたらされた花鳥画も水墨画の重要なジャンルとして挙げられます。花や鳥を主として、魚、昆虫、動物、野菜などさまざまな対象が墨で描かれてきました。
その他
上記の他にも水墨画の歴史においては、龍などの架空の生き物や観音像、羅漢図、水流、ヨーロッパの風景など、さまざまなモチーフが描かれてきました。色彩のない白黒の世界だからこそ、想像の余白のある幅広い世界を表現できる点は水墨画の魅力と言えるでしょう。
中国の水墨画の代表的な画家
王維
中国唐朝の最盛期に生きた高級官僚で、詩人・画家・書家・音楽家としても活動した王維は山西の名家に生まれ、早くから宮廷詩人として名を成しました。水墨画においては「南画の祖」とも呼ばれ、山水画に新境地を開きました。
李成
中国の五代・北宋初期の山水画家である李成は、唐の宗室の一族で詩文と儒学に優れ、絵は五代後梁の画家である関同に学びました。華北東部の黄土地帯の風土に基づき、山水画の基本的な構図法である「三遠」を利用した形式の山水画を残しました。やや高めの視点で奥行きを強調する表現が特徴で、その画風は宋代以降の山水画に大きな影響を与えました。
黄公望
黄公望は元代の水墨画家で、王蒙、倪瓚、呉珍に並ぶ「元末四大家」の内の一人です。四大家の中でも最も幅広い画風を持ち、後世への影響も最も大きいと言われています。早くから学や詩文に通じていましたが、絵を始めたのは道教に入信した50歳ごろで、趙孟頫に師事して山水画を描きました。数年にして名声を得て、80歳ごろに画風の円熟期を迎えました。
董其昌
中国明代の末期に活躍した董其昌は、この頃の文人画の代表的な作家として知られています。董其昌は23歳の時に初めて山水画を試み、そのきっかけは元末四大家の作品に触れて感動したからと言われています。画の研鑽を積み、呉派に対する松江派と呼ばれる革新的な画家一派を形成しました。得意とした山水画においては、大地のエネルギーを表現することに長け、デフォルメも厭わないダイナミックな構図を得意としました。
八大山人
明代末期から清代初期に活躍し、画家・書家・詩人としての顔を持つ八大山人は、明の王族出身であり、明の滅亡後は出家して高僧として名をなしました。しかし55歳の頃に狂人を装って俗世へ還り、以降は職業画家として活動しました。水墨画においては主に花鳥画を描き、花卉や山水、鳥や魚などを題材としながら、時に奇異とも取れる大胆な描写を得意としました。
日本の水墨画の代表的な画家
雪舟
- 水墨画家としての活動
備中国に生まれ地方武士の血を引くと言われる雪舟は、上京して相刻寺の僧となり修行を積んだ後、大内氏の庇護を受けて周防国に移ります。その後中国・明に渡航し、三年の滞在で中国の本格的な水墨画に触れ、その画法を学びました。明時代の画家よりも宋・元時代の画家に興味を持ち、先人の作品を模写したり中国大陸の自然を写生するなど、精力的に活動しました。
帰国後は山口の雲谷庵を拠点としてや大分や島根などの地方を遍歴して旺盛な創作活動を行いました。67歳の時には最高傑作と呼ばれる「山水長巻」を完成させ、守護大名の大内氏に贈りました。87歳で没したとされることが多いですが、没年の確実な記録は存在せず、墓所として伝わる場所も複数存在します。
- 後世への影響
雪舟は後世に多大な影響を与え、桃山時代に登場した雲谷派と長谷川派は雪舟の後継者を自称していました。雪舟が「画聖」と仰がれるようになったのはこの江戸時代からと言われ、特に狩野探幽をはじめとする狩野派の作品において雪舟の扱った主題と様式が継承されていきました。
牧谿
牧谿は中国南宋時代末期から元時代初期に活躍した禅僧の画家です。南宋の首都にある六通寺に住み活動していたと言われ、中国ではあまり評価されなかったようですが、日本の水墨画に大きな影響を与えた人物として知られています。牧谿の作品は鎌倉時代末には日本に伝わり、14世紀末ごろには贋作が多く出回るほど人気となりました。独自の技法で湿潤な大気を表現した山水画は、長谷川等伯をはじめとした室町時代の画家、およびその後の水墨画家たちに多大な影響を与えました。
狩野探幽
- 早熟の天才
狩野探幽は1602年に山城国(現・京都府)に生まれました。幼少の頃より画才を現し、13歳にして祖父である狩野永徳の再来と絶賛されるほどでした。16歳で江戸幕府の御用絵師となり、江戸城、二条城、名古屋城、また有力寺院である大徳寺、妙心寺などの絵画・障壁画制作に携わりました。33歳の時に手がけた名古屋城本丸洛殿の障壁画によって独自の様式を確立したと言われています。
- 画風の展開
永徳のダイナミックな造形表現に対して、探幽は余白を重視した抒情性にあふれる画風を築きました。大徳寺の障壁画においては水墨の濃淡で奥行きを表現し、大胆に余白を持たせた構図で緊張感のある優れた表現が見られます。
早熟の天才とも言われる探幽ですが、探幽斎の号を称してからは、やまと絵を熱心に学び、画風を展開していきます。還暦を迎えた際に画家の最高位である法印に叙せられ、以降も旺盛な創作意欲と探究心を持って活動しました。
長谷川等伯
- 画業の始まり
戦国大名・畠山家の家臣であった奥村家の子として能登の国に生まれた等伯は、幼い頃に染物業を営む長谷川宗清に養子として迎えられ、宗清や祖父から絵の手ほどきを受けていました。当時は信春と名乗り、日蓮宗の仏画や肖像画などを描きました。戦乱の影響で故郷での活動が困難になると、33歳で新天地を求めて京都に旅立ちます。日蓮宗の寺院・本法寺の塔頭の一つに住み込んで制作活動を始め、この頃に有名な「日堯上人像」を描きました。
- 先人からの影響
一時は狩野松栄の元で学び狩野派の様式を吸収しつつも、宋や元時代の中国絵画にも学び、牧谿や雪舟の水墨画から多大な影響を受けました。千利休を施主として増築された大徳寺山門の天井画と柱絵、水墨障壁画の制作を依頼されると一躍有名絵師となり、「等伯」の号を使い始めます。
1591年に長谷川派が祥雲寺の障壁画制作を引き受けると、豪華絢爛な障壁画が豊臣秀吉に気に入られ、長谷川派は狩野派に並ぶ存在として認められました。千利休の切腹や跡継ぎに先立たれるという相次ぐ不幸に見舞われながらも、代表作であり日本水墨画の最高傑作とも謳われる「松林図屏風」を描きました。
等伯は自身の落款に「自雪舟五代」と冠し、自らを雪舟から5代目にあたる存在として標榜しました。世間での雪舟の評価の高まりも後押しし、等伯は次々と大寺院から制作を依頼され出世していきました。
俵屋宗達
- 謎多き一流絵師
江戸時代初期に活躍した俵屋宗達は、琳派の祖としての評価の高さと影響力の大きさに対して不明な点が多く、生没年すらもはっきり分かっていません。彼は京都で俵屋という絵屋あるいは扇屋を営んだとされています。厳島神社の平家納経の補修事業へ参画したことや、皇室からも作画の依頼があったことが分かっています。町絵師としては破格の法橋位を与えられていることから、当時から一流絵師として認められていたことは確かと言えます。
- 水墨画の作例
宗達の作品としては、代表作であり現在は国宝に指定されている「風神雷神図」のような装飾的な大画面のほか、水墨画の作例も残っています。「蓮池水禽図」はその一つとして挙げられます。二茎の蓮と二羽のかいつぶりが水墨のみで描かれています。柔らかい筆遣いとたらしこみによるにじみが効果的な名作です。
伊藤若冲
- 作画一筋
1716年に京都の錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生まれた伊藤若冲は、独学で絵を学び、生涯絵を描くこと以外の世間の雑事には興味を示さなかったと言われています。23歳の時に父が死去したことから4代目枡屋の当主となりますが、40歳で家督を弟に譲り、隠居生活に入り作画に没頭していきます。42歳頃から代表作である「動植綵絵」の制作を開始し、50歳の時についに完成させます。以降、地元の錦市場の存続に尽くすために町年寄という要職に就き、制作できない時期が続きましたが、70歳を過ぎた頃から作画に再び情熱を燃やしました。
- 奇想派の第一人者
若冲は、一時は狩野派の画法に通じていましたが、その画法を捨てて宋元画に学んで模写に励み、やがて極めて細密な描写を特徴とする写生に移行しました。細密極まる描写と鮮やかな色彩、時に幻想的な雰囲気をたたえた作風で、曽我蕭白や長澤蘆雪とともに「奇想派」と称されています。
若冲の水墨画として有名なものの一つに「果蔬涅槃図」が挙げられます。釈迦入寂の場面をさまざまな野菜と果物で描いた本作は、若冲のユーモアと描写力が感じられる一枚です。
まとめ
長い歴史を持つ水墨画は、モノトーンによる簡素な美しさをその本質に据えているように思われますが、その表現方法や技法は実に多様であり、先人たちの作品はときに色彩による表現以上に自然の姿を雄弁に語っています。日本では水墨画の名品に気軽にアクセスできるので、この機会にその世界に浸ってみてはいかがでしょうか。
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