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2024.07.24

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)とは?来歴や作風、代表作について詳しく解説しています!

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)とは?来歴や作風、代表作について詳しく解説しています!

20世紀前半のパリのアート界で「エコール・ド・パリの寵児」として高い評価を受けた藤田嗣治。おかっぱ頭に丸メガネ、ちょび髭と特徴的な外見をご存知の方も多いでしょう。

この記事では、藤田嗣治の来歴や作風、代表作についてアートリエ編集部が解説します。藤田嗣治のことを知りたい方や、もっと詳しくなりたい方は、ぜひ最後までご覧ください。

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)とは

藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)は、26歳でフランス・パリに渡り、やがてエコール・ド・パリを代表する画家となりました。現在まで世界で最も有名な日本人画家のひとりとして知られています。

しかし、当時の日本画壇は藤田の作品を認めず、マスコミも歪曲した人物像を伝えるなど、長い間誤解されていました。近年は再評価の動きが高まり、謎とされてきた画材の研究も進んでいます。

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)の来歴

Foujita in his studio

ここからは藤田の来歴を順を追って解説します。

生い立ち

1886年11月27日、東京府牛込区(現・東京都新宿区)に4人兄弟の末っ子として生まれました。両親はどちらも名家の出身で、軍医の父が海外経験が豊富だったためか、当時としては自由な雰囲気の家庭だったといいます。

父の仕事の都合で2歳から11歳までを熊本で暮らし、5歳の時に母を亡くしています。幼い頃から絵の才能が認められており、早くから画家になる夢を持つようになりました。

パリ以前

1905年に父の上司・森鴎外の助言もあって、東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学しました。しかし、当時はフランス帰りの画家・黒田清輝が力を持っており、印象派など写実主義の絵画が主流だったため、藤田の評価は高くありませんでした。卒業制作の自画像では黒を多用していたことから「悪い絵の見本」と、他の生徒たちの前で批判されたこともあったようです。

卒業後に旅先で教師をしていた鴇田とみに出会い、26歳で結婚。しかし、1年ほどの結婚生活の後、単身でフランスに渡りました。

パリ移住

パリに到着した藤田は、モンパルナスに落ち着きました。同じアパートのモディリアニやスーチンと交流が始まり、現地に溶け込む努力をしていくうちに多くの画家仲間ができたのです。

パリでは日本で主流だった印象派の時代は過去のものとなり、キュビズムやフォービスムなどの新しい表現がいくつも誕生していました。印象派の技法を中心に教えられた藤田にとって、ピカソやアンリ・ルソー、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンらの個性豊かな作品は衝撃的でした。

第一次大戦期

パリに移って約1年後、第一次世界大戦が始まりました。1年ほどロンドンに逃れた以外は、戦時中のパリで過ごしています。戦争の混乱で日本からの送金が途絶えたため、身の回りのものを売ったり、仲間と食料を分け合ったりして生活しました。

父と約束した帰国の期限の30歳が近づくと、パリで成功するまでは帰らないことや今後の援助を断ることを手紙で書き送っています。後戻りできない状況で絵の制作や勉強に打ち込んだのです。また、妻・とみとの離婚が成立しています。

パリでの成功

2度目の結婚

戦況が好転の兆しが見えてきた1917年に、フェルナンド・バレエと2度目の結婚をしています。次第に絵を売って収入が得られるようになり、初の個展は好評でした。戦争終結後の1919年の展覧会「サロン・ドートンヌ」では6点がすべて入選。1922年の出品作品「寝室の裸婦キキ」は、人だかりができるほど注目され、翌年の出品作品「五人の裸婦」は「乳白色の肌」と評価されています。

1925年にフランスで最も権威のあるレジオン・ドヌール勲章と、ベルギーのレオポルド1世勲章を受章しています。藤田の絵の評価は上がり、生活は豊かになりました。

狂乱の時代

1920年代のパリは「狂乱の時代」と呼ばれ、平和を謳歌するように華やかで豊かとなり、文化的にも大きく発展しました。画家として成功した藤田は、大規模なパーティーを主宰し、アート界はもちろん社交界でももてはやされるようになったのです。しかし、そんな生活を送りつつも、絵を制作する時間はしっかりと確保していたといいます。

私生活ではフェルナンドとすれ違いが生じて離婚。その後、若く愛らしいリュシー・バドゥ(通称:ユキ)との同棲が始まりました。新築の豪邸や高級車を購入するなど生活も豪奢になっていきました。

日本へ帰国

1929年にユキと3度目の結婚をすると、17年ぶりに日本へ帰国しました。父親と熊本に旅行するなど半年ほどでパリに戻ると、世界恐慌の影響で以前ほど絵が売れなくなっており、小さな家に移っています。また、生活が乱れ、愛人を作ったユキとも離婚しました。

南アメリカへ

1931年から約3年間は、1年のほとんどを南アメリカの旅に出ています。この旅には、4人目の妻・マドレーヌ・ルクーが同行しました。インカ帝国やマチュピチュ、アステカやマヤの古代遺跡から刺激を受けたといいます。

また、メキシコで現地の画家・オロスコの大壁画に出会い、アートが多くの人々に開かれていることに衝撃を受けました。この時期以降の絵には、それまでのモノトーン調とは異なる、複数の色を取り入れた作品も描くようになりました。

日本へ帰国

南アメリカへの旅の後、1933年に日本へ帰国しました。日本滞在中に妻・マドレーヌが急死。数年の結婚生活でした。やがて2回りほど年下の堀内君代と5度目の結婚し、生涯を共にすることとなります。

次第に日本は軍国主義へと向かい、多くの画家たちが戦争画を描くために動員されました。藤田も日中戦争最中の中国に渡っています。1941年に父が81歳で亡くなり、この頃からそれまでとは大きく異なる、凄惨な戦争をリアルに感じられるような画風へと変わりました。ノモンハン事件を描いた「哈爾哈河畔之戦闘」は、第二回聖戦美術展に出品されると絶賛され、それまで藤田の絵に興味を示さなかった日本画壇も受け入れるようになったのです。藤田はベトナムやシンガポールに派遣され、戦争画も次々と描いています。

やがて戦争が終結すると、それまで親しくしていた画家仲間や、疎開先の村人たちがよそよそしくなりました。戦争画を描いた画家も戦争責任を問われるのではないかと噂が広まり、藤田はその中心的存在とされ、自分たちに火の粉が飛ぶのを恐れたのでしょう。結局、藤田が戦争責任を問われることはありませんでしたが、このような状況に失望し、再びパリへ渡りました。

再渡仏し帰化

1950年にパリに到着すると、アートの中心はパリからニューヨークに移っており、パリのアート界は以前のような勢いはありませんでした。しかし、個展を開くとそれなりに好評で、藤田は1日のほとんどを絵の制作に没頭します。

1955年、藤田は妻と共にフランス国籍を取得。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタに改名しました。また、フランス政府から1957年にレジオン・ドヌール勲章を贈られています。

晩年

1961年にパリ郊外の村、ヴィリエ・ル・バクルに移り住むと、ランスに礼拝堂を建設し、内部をフレスコ画で飾ることになりました。フレスコ画は素早く仕上げる必要があり、やり直しもできないため一日中作業にかかりきりとなり、体には大きな負担がかかりました。1966年、藤田が80歳になる年に「平和の聖母礼拝堂(フジタ礼拝堂)」が完成しています。

一旦は村へ戻りましたが、体調を崩してパリの病院へ入院し、1968年1月29日に転院先のスイス・チューリッヒ州立病院で前立腺癌のため、81歳で死去しました。

藤田が亡くなった後、日本政府は藤田に勲一等瑞宝章を授与しています。また、現在、ヴィリエ・ル・バクルのアトリエは公開されており、当時の生活の様子を伺うことができます。

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)のエピソード

モンパルナスを歩く藤田嗣治とアリス・プラン(キキ)

ここでは藤田にまつわるエピソードを4つお伝えします。

エコール・ド・パリ

藤田の暮らしたモンパルナスやモンマルトルは、当時はまだ家賃が安く、多くの画家を目指す若者たちが集まっていました。余裕のない生活の中、お互いに協力しながら暮らしていたといいます。

やがて彼らはその実力を認められ、「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼ばれる、主に1920年代に活躍した画家たちとなりました。画風はそれぞれ異なりましたが、フランス国外からパリへやってきた者が多く、アートの中心であったパリで成功しようという気概に満ちていたのでしょう。

藤田はもちろん、シャガール、ユトリロ、パスキン、モディリアーニ、ローランサンなど、現代でも評価の高い画家たちが多くいます。

新しい20世紀の絵画との出会い

藤田が教えを受けた時代の東京美術学校は、フランス帰りの画家・黒田清輝が勢力を持っていた時代でした。日本画壇は印象派が主流で、藤田の画風は受け入れられなかったのです。

しかし、パリに来てみると、美術学校で教えられていた印象派の時代はすでに終わっており、キュビズムやシュルレアリスム、素朴派など新しいアートの時代となっていました。藤田はパリ画壇の自由さに喜びと希望を感じたといいます。また、「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」とも記しています。

5回の結婚

藤田は生涯で5回の結婚をしたことでも有名です。

最初の相手は、東京美術学校を卒業後、旅先で出会った教師の鴇田とみです。大恋愛の末、結婚しましたが、藤田がパリに滞在中に書類を交わして離婚となりました。

2度目の結婚は、モデルのフェルナンド・バレエです。結婚後しばらくして藤田の絵が売れるようになりましたが、7年ほどですれ違いや妻の浮気で離婚しました。その同じ年に21歳のフランス人女性、リュシー・バドゥ(通称:ユキ)と同棲し、その後、結婚しています。しかし、6年ほどで離婚しました。

4人目の妻は、踊り子だったマドレーヌ・ルクーです。藤田と共に南アメリカを旅行し、日本でもシャンソン歌手としてデビューしていますが、日本滞在中に急死しました。同じ年に24歳年下の堀内君代と結婚しています。5人目にして生涯の伴侶となり、藤田が亡くなるまで30年ほどの結婚生活を送っています。

カトリックの洗礼

藤田と妻・君代は再渡仏した後、1955年2月にフランス国籍を取得し、その4年後の1959年にはランスのノートルダム大聖堂で、夫婦でカトリックの洗礼を受けています。

藤田が授かった洗礼名「レオナール」は、ルネサンス期の芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチに由来します。藤田のその後の芸術にかける熱意が伝わってくるようです。ちなみにレオナールはレオナルドのフランス語読みです。

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)の画風

ここからは藤田の画風を4つの視点から解説します。

乳白色の肌

「乳白色の肌」や「素晴らしい白い下地(grand fond blanc)」と呼ばれた独自技法の肌は、藤田の絵画の最大の特徴です。当時のパリの人々は、初めて見る肌の質感に驚き、絶賛しました。

藤田は、既製品ではなく手作りの工夫を凝らしたキャンバスを使い、絵の具を塗り重ねないことで独特な透明感を生み出していました。この肌の質感を生み出す技法は、生涯誰にも明かされず、肌を描いている時にはアトリエに人を入れなかったといいます。

猫と女性

藤田は猫と女性(裸婦)を題材とした絵を得意とし、頻繁に描いています。独自の「乳白色の肌」を描くには、裸婦は最適な題材でした。また、肌を絵に描く際に、見るだけでなく実際に触って質感も再現しようとしたそうです。

また、一時期は猫を10匹以上も飼っていたほど猫好きで、藤田にとって身近な存在でした。ある時、記者になぜ猫と女性を描くのかと問われた際に「女も猫も同じようなものだから」と答えたといいます。藤田は、どちらも捉えどころのない存在と感じていたのかもしれません。

細密な描写

画風の特徴の3つ目は、繊細な描線で描かれていることです。1940年に制作した「争闘(猫)」では、画面上の14匹の猫の、一匹一匹の表情や毛並みが見ているこちらに伝わってくるような細密な描写がされています。

また、藤田は繊細な輪郭線を描く際に日本の面相筆を愛用していたことでも知られています。面相筆は、日本画で使われる筆の中でも最も穂先が細い筆で、藤田の絵画にはピッタリな画材だったのです。

フランス絵画との融合

「乳白色の肌」と呼ばれた藤田の肌の表現は、日本の浮世絵に着想を得たと言われています。墨を使った輪郭線だけでなく、日本画に使用される胡粉という顔料を使っていたこともわかってきました。また、浮世絵のような平面的な構図も特徴的です。

特にエコール・ド・パリ時代の作品は、日本画の材料や手法を使って油彩を描き、日本画と西洋画の絵画を融合させた、藤田オリジナルの画風でした。

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)の代表作

ここからは、藤田の代表作を3点紹介します。

寝室の裸婦キキ

寝室の裸婦キキ

「ジュイ布のある裸婦」とも呼ばれており、1922年に制作された油絵で、パリ市立近代美術館に所蔵されています。「モンパルナスの女王」と呼ばれたキキがベッドに横たわる姿を描いています。

「乳白色の肌」と呼ばれる透明感のある肌の質感や、全体的にモノトーンの色彩は、エコール・ド・パリ時代の藤田らしい作品です。黒い背景がキキの肌の白さを際立たせています。

猫のいる自画像

猫のいる自画像

1927年に制作された油絵で、三重県立美術館に所蔵されています。面相筆を持った右手を顔に当てた藤田と、藤田の肩に顎をのせた猫がこちらを見ている姿を描いています。

藤田の影からこちらを伺っている猫は、得意気にも見える表情です。また、藤田の肖像画には、猫と一緒に描かれている作品が複数あります。油彩のほか、同じ構図で版画でも制作されています。

アッツ島玉砕

アッツ島玉砕

1943年に制作された油絵です。戦後、アメリカに接収され、現在は東京国立近代美術館に無期限貸与という形で保管されています。北太平洋にあるアッツ島には、日本兵が2600人ほどいましたが、そこにアメリカ兵1万人以上が上陸して日本兵は全滅しました。

巡回展では、この絵に手を合わせている人やお賽銭を投げる人がいたほど、心をゆさぶられる作品です。藤田自身も「快心の作」と述べています。

藤田 嗣治(レオナール・フジタ)を収蔵する主な美術館

ここでは藤田の作品を収蔵する国内外の美術館を紹介します。

フランス国立近代美術館(フランス)

フランス・パリにある国立近代美術館は、総合文化施設「ポンピドゥー・センター」内にある、近代美術専門の美術館です。欧州最大の規模の収蔵品数を誇っています。

収蔵作品には、藤田が最も気に入っていた「私の部屋、目覚まし時計のある静物」をはじめ、「私の部屋、アコーディオンのある生物」「カフェ」など藤田自身が寄贈したものもあります。

ポーラ美術館(神奈川県)

神奈川県の箱根町にあるポーラ美術館は、「箱根の自然と美術の共生」をコンセプトに2002年にオープンしました。ポーラ創業家の2代目・鈴木常司氏が、40年以上にわたって収集した10,000点以上のコレクションを収蔵しています。

藤田の作品は同美術館の主要なコレクションのひとつです。2024年7月現在、200点以上と国内でも指折りの作品数となっています。

東京国立近代美術館(東京都)

東京都千代田区北の丸公園内にある東京国立近代美術館は、19世紀末から現在までの絵画や彫刻、映像など、13,000点以上を収蔵(2024年7月現在)。日本の近現代美術を中心に海外作品も収集しています。

藤田の作品は、エコール・ド・パリ時代の代表作「五人の裸婦」や「自画像」、ノモンハン事件を描いた「哈爾哈河畔之戦闘」、「アッツ島玉砕」などです。戦争画は所蔵品ではなく、アメリカからの無期限貸与となっています。

軽井沢安東美館(長野県)

長野県・軽井沢にある軽井沢安東美術館は、藤田嗣治の作品だけを展示している個人美術館です。作品の収集は、創設者夫妻が藤田の描く猫と少女に魅かれたことから始まりました。

2024年7月現在、約200点のコレクションを所蔵しています。初期から晩年まで幅広い作品を、自宅のようにくつろいだ雰囲気のなかで鑑賞できます。

まとめ:藤田 嗣治は世界で活躍した類い稀な画家

ここまで藤田の来歴やエピソード、画風などをお伝えしました。日本では長い間、藤田の作品は正当に評価されていませんでしたが、藤田自身は日本人であることにこだわって絵画を制作していました。機会があれば、ぜひ直接作品を鑑賞してみてください。

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