幻想的で美しい風景画を手掛け、国民画家の呼び声高い日本画家、東山魁夷。どこかにありそうだけれどどこにもない風景は、観る者の共感を呼び起こします。
1999年に没して後も、現在に至るまで多くの人の心を捉えてやまない作品はどのように生まれてきたか。またなぜこんなにも私たちを惹きつけるのか。
来歴や画風、代表作などをアートリエ編集部が解説します。
東山魁夷とは?
東山魁夷は、風景画家として活躍し多大な功績を残した日本画家です。40歳近くになってから画壇デビューと遅咲きながら、90歳で亡くなるまで妥協なく制作に打ち込み、国内外から大きな支持を得ました。
文化勲章を受章するなど様々な褒賞に輝き、国民画家の呼び名にふさわしい活動ぶりは、戦後日本画を象徴する存在と言っても過言ではありません。
鑑賞者の心の風景と共鳴し、静かな安らぎを与える独自のスタイルは「東山スタイル」と名付けられています。
東山魁夷の来歴
出典:昭和ガイド
東山魁夷と言えば、静謐で詩情に満ちた画風を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
けれどそのスタイルは、数々の苦境や回り道を経てようやく確立されたものでした。また、自分の作風を見出してからも新しいことに挑戦し続け、常に絵が変化していきました。
まずは作家の来歴を追って、絵の変遷を紐解いていきましょう。
生い立ち
東山は1908年に横浜で船具商を営む裕福な家庭に生まれました。その後仕事の関係で、家族で神戸へ移住。父が祖父の築き上げた財産を浪費し、商売もうまくいかず、生活は徐々に貧窮していきました。
また彼は衝動的な面と内向的な面を併せ持った、甘えん坊な子供でした。そんな性格の関係もあり幼少期は家にいることが多く、自然と絵を描いて過ごすようになったといいます。
学生時代
将来は画家になりたいと、反対する父を説得して受験したのが東京美術学校(現東京藝術大学)でした。西洋画科志望でしたが、「画家になるなら日本画家」と進路変更を強いられ、日本画科に入学。ここから彼の日本画家への道が始まります。大学では優等生で、夏休みには友人と旅行に行くなど学生生活を謳歌しました。
ちなみに学生時代に訪れた長野の御嶽山は、当時は気付かなかったものの東山に深い印象を残し、心の故郷として生涯を通して大切な場所になりました。
勉学に励みつつ、児童雑誌の挿絵描きのアルバイトも始めました。明るくあたたかみのある絵には、彼の人間愛が素直に表現されています。
ドイツ留学
卒業後には見聞を広めるためにドイツへ留学しています。当時絵画の勉強をするならパリが一般的でしたが、絵の技術を高めるのではなく目を肥やすことに重きを置いてドイツを選択しました。
留学中に西洋美術に間近に触れ、画業への決意を新たにしました。しかし帰国してからアルバイトをしながら帝展に出品を重ねますが、思うような評価を得られません。さらに私生活でも身内の不幸や金銭問題、太平洋戦争勃発など苦難が多く、どん底の時期でした。
進むべき道が見えたのは、従軍時のこと。従軍中のある日、彼は自然の美しさに開眼し、戦後は風景を描くようになります。
戦後復興期
風景画家の道を決定的にしたのが、1947年に第3回日展で特選を受賞した「残照」です。現実の風景の中に自身の心の姿を見つめた新境地は、哀歓の末に見出した安らぎでした。主観的な自然を描くことに手応えを感じた彼は挫折から立ち直り、自分の定めた道を歩み始めます。
世間に認められるようになった東山の次なる大作が、1950年の「道」です。構図を単純化し色数も抑えたこの絵は、東山スタイルにつながる作風であるとともに、戦後の復興の最中にいる人々を励ましました。また、この頃から画面に人物はほぼ登場しなくなります。東山は人物がいないことで、風景が象徴的になって観る人により伝わると考えました。
1955年前後になると、画壇の新しい日本画を求める動きに呼応し、伝統美術など古今東西の造形を作品に取り入れ始めました。画面構成や造形性に着目した作品群からは、まだスタイルが確立しておらず試行錯誤している様子が窺えます。
スタイル確立
四季の移ろいは生命の宿命を象徴しているという自然観に辿り着き、描きたいものが定まったことが、1960年頃の東山スタイル確立につながりました。
心に染み入る静寂の風景は高く評価され、東山は次々に作品を発表、めざましい活躍を見せます。そんな多忙な日々の中で、日常から離れて本来の自分に立ち返りたいと願った彼は、1962年に北欧旅行へ赴きました。
雄大な自然の中に身を置いた経験は、彼の絵に更なる変化をもたらしました。以前は平面構成的だったのが、空間に立体感や広がりがもたらされ、壮大さを併せ持つようになったのです。
さらに、東山の作品に繰り返し登場する、映り込みを捉えた倒影というモチーフが生まれたのも北欧での体験によるものでした。現実とはかけ離れたシンメトリーな倒影は神秘的で、観る者を幻想の世界へと誘います。
北欧旅行以降
帰国後は、京都を度々訪れています。古都で日本的なあわれの美に触れ、自身の内にも温和で調和的なものを再発見した東山は、細やかな風景の機微を捉えようとしました。意識の変化は、厳かな作風に儚くも確かな生のぬくもりを吹き込みました。
1972年以降、白馬も集中的に描かれています。人物や動物をほとんど入れてこなかった東山の絵に、突如として現れたこのモチーフは、風景に叙情的で感傷的な雰囲気を与えました。
白い馬は彼にとって祈りの象徴ですが、受け取り方は観る人に委ねられています。自然と目を惹きつけられる添景は、彼の目線で描かれた風景画の中で、鑑賞者が自由に解釈を広げる手助けにもなっています。
成熟期
1970年代から十年にわたって取り組んだ「唐招提寺御影堂障壁画」は東山の画業の集大成です。日本の山海を日本画で描いた「青の世界」と中国の風景を水墨画で描いた「黒の世界」の二つの世界から成っています。
日本と中国の大自然を融合させたスケール感と、深い精神性を表現するのは、困難な仕事でもありました。特に水墨画は初の試みであり、どのように描くべきか相当な試行錯誤が必要でした。水墨の下地に胡粉をひくスタイルは従来の水墨画と全く違う新しい表現で東山魁夷の水墨画を樹立したと言えるでしょう。
1980年に全ての障壁画の奉納を終えると、以降はさらに表現の幅を広げ、自由に活動していくことになります。
晩年
晩年も国内外の各地を訪れたり、ユネスコ芸術賞を設立したりと精力的に活動を続けています。
制作では、画面にこれまではなかったきらびやかな輝きが見られるようになりました。水墨画を経たことで、色彩への思い入れが強まり、迷いのない明るい色を用いるようになったのです。
晩年の作品には、風景への思いが最も素直に現れているとも言われています。
絶筆となった作品は、未完の「夕星」です。昔のスケッチが元となってはいますが、彼が夢で見て忘れられなかった景色を描いた、夢幻的な一作です。ずっと現実の風景を基盤にしてきた東山が、人生の終わりに夢の世界へ帰り着いたのでした。
東山魁夷の画風
時代によって変化してきた東山魁夷の絵画ですが、多くの作品にいくつかの共通した特徴が見られます。
一体何が彼の絵を「東山スタイル」たらしめているのか。ここでは3つの特徴に着目してご紹介します。
西洋美術との融合
東山は岩絵具を用い、心象風景を描き出す日本画の伝統に則っています。それでいて写生を下敷きにし、タッチを重ねる着色が主体の技法は実に洋画的です。
作風に西洋美術が取り入れられたのは、日本画に洋画風をいち早く取り入れた結城素明に師事したことと、西洋留学の経験によるものです。
彼は生涯、結城素明の「写生こそ絵の基本」という教えを胸に制作を行いました。また留学で訪れたイタリアでは圧倒的巨匠たちの力量に打ちのめされつつも、フラ・アンジェリコの壁画に日本画と通ずる素朴さを見出し、自分にも表現できる世界があることを知りました。
自分が描いているのは日本画の伝統に連なるものだという確固たる意識のもと、日本画と洋画を融合させ独自の描き方を築いていったのです。
精神的な静謐さ
色数を抑え、削ぎ落とされたモチーフで構成された彼の絵は非常に静的です。描かれるのは風がなく静まり返った森や湖。時に幻想的で、時に懐かしさを感じさせる、厳かなイメージは観る者の心にひたひたと染み入ります。
彼が常に自然の中に自身を見つめ、内省的に絵に向かっていることも、静謐さの要因でしょう。
ただ全くの静寂というわけではなく、塗り重ねられて深みの出た色彩や、岩絵具ならではの質感、風景にほのかに息づく生の感触が、佇まいにぬくもりを加味しています。
青と緑
東山魁夷は青の巨匠の異名を持つほど、青い絵の印象が強いです。彼の描く青は「東山ブルー」と呼ばれています。古来日本では、緑も青と呼び習わされてきました。薄暮や霧の中の山、湖、空といったモチーフを多く描く彼の絵には、緑を含めた青が欠かせません。
特に北欧を題材にした作品で非常に青が印象的だったため、青の画家という評価が浸透しました。
幅広い色調の青は様々な形をとり、絵画に清らかな透明感と静けさを与えています。彼にとってこの色は「きれいな水の流れる青い山の風景」を想起させ、普遍的な故郷への憧憬を意味していたようです。
東山魁夷の代表作
数多くの作品が残されていますが、中でも東山魁夷の特徴をよく表している代表作がこれらの作品です。いずれも完成度の高い名作ですから、まずはこちらの作品をぜひチェックしてみてください。
道
1950年作。前へ伸びていく一本の道を描いた、一見ごく平凡で素朴な風景ですが、観る人に訴えかけるものがあり、敗戦後の復興への希望を抱いていた人々の共感と感動を呼びました。不要なものを切り捨て単純化された構図は、東山スタイルの出発点です。
山雲(唐招提寺御影堂障壁画)
出典:長野県立美術館
1975年作。構想から奉納まで10年を費やした、東山の画業の集大成「唐招提寺御影堂障壁画」のうち「青の世界」の一つ。来日の際に目が見えなくなり、日本の景色を見ることが叶わなかった鑑真和上の霊を慰めるために描かれました。
日本の代表的な風景である山海を題材に、まさに青の極みと言うべき景色が繰り広げられています。青で統一された壮大な自然が部屋に湧き上がり、移り変わっていく様は圧巻です。
緑響く
1982年作。「白い馬の見える風景」シリーズの一作。
森と、森の映った湖が上下で対称になっており、北欧旅行で見出した構図の完成形を示しています。画面いっぱいの緑の森は、しんと張り詰めた中で緑色が反響し合っているかの印象を与えます。空を入れなかったことや白馬の存在が幻想性を高め、物語世界へ誘い込むようです。
白馬のいる風景を描いたこのシリーズは、それぞれに詩文が付されています。この作品の言葉は「絃楽器の合奏の中をピアノの単純な旋律が通り過ぎる」。
白馬の森
1972年作。こちらも「白い馬の見える風景」シリーズの一作。
青く幽玄な空間に白い木が立ち並び、華奢な体つきの幻のような一頭の馬が佇んでいます。同シリーズの他の白馬と違い、ただ風景の中を通り過ぎていくのではなく、その表情は何か思いを秘めているような感じを受けます。
添えられた言葉は「心の奥にある森は誰も窺い知ることは出来ない」。
東山魁夷を収蔵する主な美術館
画家の魅力を再確認し、生で鑑賞したいとお思いの方も多くいらっしゃるでしょう。現在、東山魁夷の作品を収蔵している主な場所をまとめました。
どんなに言葉を尽くしても、実際の絵画の鑑賞体験には及びません。ご紹介している美術館以外でも全国各地で展示会が行われていますので、どうぞ実物と対面して、作品世界に浸って頂ければと思います。
長野県立美術館 東山魁夷館(長野)
長野県が生前の東山から寄贈を受け、長野県信濃美術館の併設館として1990年に開館した美術館です。学生時代に御嶽山を訪れて以来、度々信州の自然を描いてきた東山。自身を育ててくれた故郷のような長野に作品を託したいとの思いから、開館が実現しました。
収蔵作品は970余点で、「緑響く」「白馬の森」といった代表作も揃っています。2024年も9月までコレクション展が開催されています。
東京国立近代美術館(東京)
19世紀末から現代までの美術作品を幅広く収集しているこの国立美術館も、東山魁夷の作品をコレクションしており、「残照」「道」の実物もこちらに収蔵されています。過去には二度、東山魁夷の大規模展覧会が開催されました。
唐招提寺(奈良)
鑑真和上が奈良時代に開いた、南都六宗の一つ、律宗の総本山の寺院です。御影堂に東山魁夷の大作、障壁画と鑑真和上坐像厨子扉絵が収められています。普段は非公開ですが、年に数日特別開扉の日が設けられています。
まとめ
清らかで深みのある東山魁夷の絵を前にすると、自然と感動が湧き起こり、穏やかな安らぎを覚えます。今回記事を読んで下さった皆さんにも、そんな魅力の一端をお届けできていればこの上ない喜びです。
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また、実際に絵を購入してみたいという方は、活躍中のアーティストの作品をアートリエで購入、またはレンタルすることもできます。誰でも気軽にアートのある生活を体験することができるので、ぜひお気に入りの作品を探してみてください。