絵画のカテゴリーに「静物画」があることはよく知られています。
シンプルに「テーブルに置かれたものを描いた絵」というイメージがある静物画ですが、実はとても深い意味があります。「静物画」というカテゴリーが絵画の世界で存在感を放ち始めたのは、17世紀ごろのことです。静物画はどんな変遷をたどって絵画のテーマとなっていったのでしょうか。
有名な画家も含めて、アートリエのスタッフが静物画について詳しく解説します。
静物画とは
静物画の概念、少しあいまいかもしれません。まずは「静物画」の変遷や定義から見ていきましょう。
静物画とは
静物画とは「それ自体では動かないさまざまな事物をテーブルの上などに載せて描いた」西洋絵画の一分野です。人物画や風景画とは別のカテゴリーとなっています。
静物画のモチーフになることが多いのは切り花、果物、食器、楽器、書籍、死んだ動物など、人間の生活の身近にあるものが大半。
花や果物も、根のある自然のままの姿で描かれることはありません。こうした静物画のコンセプトは、英語やフランス語の言葉を見るとより明確かもしれません。西洋では次のように表されます。
英語:Still Life
ドイツ語:Stilleben
フランス語:nature morte
イタリア語:natura morta
つまり「動かない事物」というのが、静物画という言葉の由来となっているわけです。
静物画という概念の変遷
日常的な事物を描くという行為は、古代から行われてきました。古代ローマ帝国の文化を知ることができるポンペイの遺跡には、ぶどうやイチジクを描いた絵が残っています。中世には、キリスト教の宗教画の一部に静物が描かれています。あくまで絵画中の脇役ですが、聖母マリアの純潔を示すユリや蜂蜜の瓶、聖人のシンボルである事物が写実的に描かれるようになったのです。
「静物画」というカテゴリーとして独立したのは、17世紀のこと。フランドルやオランダ、スペインの画家たちによって描かれるようになった静物画、初期の代表的な画家にはカラヴァッジョやヤン・ブリューゲルなどがいます。
宗教画などに比べて地位が低いものとみなされていた静物画は、18世紀以降はシャルダンやセザンヌによって価値を高めました。セザンヌの「りんごひとつでパリを驚かせたい」という言葉に静物画の真髄が見えるようです。静物画はその後、フォービズムやキュビズムによって発展していきます。
一方東洋では、人間の手によって構成される「静物画」という概念は育たず、生命を持たない事物だけを描くということは非常にまれでした。
日本で静物画が描かれ始めたのは幕末以降とされています。
静物画の主なモチーフ
動かぬ事物を描く静物画。
身近にあるさまざまなものがモチーフとなりました。
静物画で描かれたこれらのモチーフにはどんな意味があったのでしょうか。それぞれのモチーフについて解説します。
花
静物画のモチーフとして最もよく用いられた花。花と果物は寓意として静物画で好まれたテーマです。花といえばボジティブなイメージを連想しますが、花によってその意味するところは異なります。
ギリシア神話や宗教画と関連する花の意味、そのいくつかの例を見てみましょう。
チューリップ | 愛、虚栄心 |
ユリ | 純潔、無原罪、謙遜、美、イエス・キリスト、フランス王家、フィレンツェ |
バラ | 愛、殉教、純潔、天使のアトリビュート |
ヒヤシンス | 分別、賢明 |
スイセン | 利己主義、死 |
アイリス | 聖母マリア、無原罪 |
ジャスミン | 聖母マリア、優美、恩寵 |
ヒマワリ | 敬虔 |
アネモネ | 痛み、死 |
オダマキ | 聖性、イエスの受難 |
ヒナゲシ | 死、夜、睡眠 |
カーネーション | イエスの受難、結婚の誓い |
花をモチーフにした静物画には、シャルダンの《カーネーションの花瓶》、ゴッホの《ひまわり》、ルノワール《花のブーケ》などが有名です。
果物をはじめとした食材
生活の中で最も身近にあるものといえば食べ物です。静物画のモチーフには、果物をはじめとする様々な食材が用いられました。どんな意味があったのでしょうか。
レモン | 聖母マリア、イエスの冠、救済 |
オレンジ | 原罪、救済、純潔 |
リンゴ | ヴィーナスと三美神、堕落、救済 |
ブドウ | イエスの受難、秋 |
ザクロ | 復活、バッカスの血 |
洋梨 | 聖母子 |
イチゴ | 天国、イエスの御託身、イエスの受難、三位一体 |
モモ | 三位一体、真実、救済 |
イチヂク | 豊穣、救済、善悪の知識の木、色欲 |
ヘーゼルナッツ | 聖母マリア |
パン | 文明、隣人愛、聖体 |
肉 | イエスの犠牲、人間 |
魚 | 救世主 |
卵 | 再生、復活 |
チーズ | 母性、清廉 |
果物をはじめとする食材を描いた静物画には、カラヴァッジョ《果物籠》、セザンヌ《リンゴとオレンジ》、ゴッホ《リンゴのある静物》など。
瓶やガラス製品
ガラスは古代から存在していたといわれ、静物画として描かれることもよくあります。
キリスト教の時代には、瓶などのガラス製品が乗った食卓は「最後の晩餐」や「聖体の秘跡(ワインをイエスの血、パンをイエスの身体とみなして行う儀式)」に関連付けられていました。
瓶やガラスが描かれた静物画には、セザンヌの《瓶、ガラス、レモンのある静物》、セバスティアン・ストッスコップフの《籠の中のグラス》などがあります。
本
もっとも長い歴史を持つ情報伝達の媒体、本。人類の叡智の繁栄ともいうべき本は、とくに近代の画家たちによってたくさん描かれてきました。他の生物とは一線を画す人間のシンボルでもあります。
本が描かれた静物画には、アンリ・マティスの《本のある静物画》、ゴッホの《石膏とバラと2冊の小説がある静物画》などがあります。
狩の獲物
日本人の目から見るとちょっと残酷な狩りの獲物。日本でもジビエは高級料理とされていますが、古代から近世まで狩りの獲物は富裕のシンボルでした。王侯貴族が夢中になった狩猟の成果を描き、豊かさを表現したといわれています。
狩猟の獲物としてよく描かれたのは、ライチョウやキジ、カモ、ヤマシギなどの鳥が中心。そのほかの野ウサギやイノシシ、シカも登場します。
狩りの獲物を描いた静物画には、アドリアーン・ファン・ユトレヒトの《野兎と鳥の静物画》、チェーザレ・ダンディーニの《吊るされた2匹のカモ》があります。
ヴァニタス
ヴァニタスという聞きなれない概念は、17世紀初頭に静物画のカテゴリーとして生まれました。人間の脆弱さ、人生の矛盾などを、象徴的なモチーフを描いて強調することを目的に描かれています。
当時のヨーロッパで起こっていた30年戦争や疫病の蔓延が、このテーマの誕生に影響したといわれています。
ヴァニタスの静物画としては、フィリップ・ド・シャンパーニュの《ヴァニタス》、セザンヌの《頭蓋骨のある静物画》が有名です。
静物画で有名な画家
静物画で有名な画家の特徴を知って、ぜひその魅力を感じてみましょう。
美しい静物画を描いた画家たちをご紹介します。
ヤン・ブリューゲル(1568-1625)
フランドルの画家一家だったブリューゲル家。ヤン・ブリューゲルは「花のブリューゲル」と呼ばれるほど、花をモチーフにした静物画をたくさん描いた画家です。
花のほかにも、森や村、河畔などの風景画にも優れていたブリューゲルは、多くのパトロンを持ち、ルーベンスとの共作も多数あります。父や兄よりも繊細で叙情的な表現に優れていたヤン・ブリューゲル。彼が描く花々はひとつひとつが繊細ながら、画面全体からは迫力が伝わってきます。
代表作は《青いイリスのある花束》《万暦染付の花瓶に生けた花》など。
カラヴァッジョ(1571-1610)
強烈な光と影、迫真のリアリズムで知られる初期バロックの画家カラヴァッジョ。彼が1600年頃に描いた《果物籠》は、静物画というカテゴリーが生まれつつあった時代の代表作です。
《果物籠を持つ少年》にも描かれたモチーフを独立して描いたこの作品は、後世の静物画の画家たちの規範にもなりました。イタリアではかつて10万リラ札にデザインされるほど、高い人気を誇っています。
フェーデ・ガリツィア (1578?-1630)
バロック時代の女性画家として知られるフェーデ・カリツィア。細密画家の娘として生まれたフェーデ・ガリツィアは、宗教画や風俗画の名手として有名です。一方で、当時興隆しつつあった静物画の製作でも知られています。
同時代人のカラヴァッジョやフランドル絵画に影響を受けたといわれるフェーデ・ガリツィアの画風は、洗練されたリアリズムが特徴。艶やかさを持った果物を描いた作品を、数多く残しています。
当時、女性の画家というのはとてもまれでした。フェーデ・ガリツィアが画家として世に出たことで、フランドルのクララ・ペーテルス、イタリアのアルテミジア・ジェンティレスキやジョヴァンナ・ガルツォーニなどが後に続きました。
フェーエ・ガリツィアの代表作は《陶器に盛られたモモ》《銀の器とサクランボ》など。
ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)
パリ生まれのシャルダンは、キャリア開始の当初に肖像画などに描かれる静物画担当の助手をしていたことがわかっています。
台所に吊られた狩猟の獲物や魚、銀器やガラスを主題とする静物画を数多く残したシャルダン。写実性と洗練をもって描いた静物画の巨匠です。詩情豊かな静物画は、後世の画家たちに影響を与えました。
代表作は《赤エイ》《ブドウとザクロ》《ブリオッシュ》などがあります。
アンリ=フォンタン・ラトゥール(1836-1904)
印象派の時代とかぶるフォンタン・ラトゥールは、印象派との交流は拒まなかったものの、伝統的な作風を堅持した画家です。
肖像画家として有名ですが、当時からフォンタン・ラトゥールが描く花や果物の静物画は精緻な筆遣いで、高い人気を誇りました。フランスやイギリスのコレクターたちの垂涎の的であったと伝えられています。穏やかな作風が魅力。
代表作には《サンザシの花瓶》《ワイン入れ、花、果物のある静物画》などがあります。
フィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-90)
オランダ生まれのゴッホは、後期印象派を代表する画家です。《自画像》や《星月夜》で知られるゴッホですが、生涯に製作した油彩画800点超のうち、170点以上が静物画。彼自身、静物画を描くことを好んでいたようです。
ゴッホの静物画といえば《ひまわり》がよく知られていますが、果物や野菜、本や手紙、瓶など、日常的なアイテムを描いた静物画も多数。ゴッホ独特の筆致で描かれた美しい静物画です。
代表作は《開かれた聖書の静物画》《石膏彫刻の女性トルソー》など。
ポール・セザンヌ(1839-1906)
静物画の価値を高めた貢献者の1人といえば、フランスの画家セザンヌの名は外せません。
調和的な色の幾何学的な構築によって絵を描くスタイルを確立したセザンヌ。果物や野菜、食器などを描いた静物画は、セザンヌのキャリアにおいて大きな意味を占めるだけではなく、後世の画家たちにとってモデルにもなりました。
とくにリンゴの登場率が高いセザンヌの静物画。白のテーブルクロスやオレンジ、瓶などとともに、色鮮やかなリンゴをたくさん描いています。《リンゴと静物》《玉ねぎのある静物》などが代表作です。
ジョルジュ・ブラック(1882-1963)
ピカソとともにキュビズムを作り上げたジョルジュ・ブラック。理知的なブラックはキュビズムの理想的な体現者といわれ、空間の構成によって描くスタイルを確立しました。
その手法で描かれたブラックの静物画。果物やグラスなどのほかに、楽器が多いのが特徴です。《ピアノとマンドーラ》《バイオリンと水差し》などが代表作。
ブラック独特の手法で描かれた静物画は、とてもシャープでモダンです。
ジョルジョ・モランディ(1890-1964)
イタリアの画家モランディは、静謐な詩情をもつ静物画を描いた画家。作品のほとんどは、風景画と静物画で占められています。
「日常の事物の形而上学」と呼ばれるモランディの静物画は、白、褐色、灰色が多く使われています。知的で瞑想的な世界へといざなってくれます。南欧を思わせる素朴な温かみも魅力です。代表作は《静物》《風景》。
静物画コレクションが充実している美術館
静物画について詳しく知ったら、ぜひその作品を見たくなります。
2024年現在、静物画はどの美術館で鑑賞できるでしょうか。静物画を数多く所蔵している美術館をご紹介します。
ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)(東京)
モネやルノワールの作品が充実しているブリヂストン美術館(アーティゾン美術館)。
ファンタン・ラトゥールの《静物》や、セザンヌの《鉢と牛乳入れ》などの名作を見ることができます。
ポーラ美術館(神奈川)
印象派やエコールドパリの作品を見ることができるポーラ美術館。
静物画の所蔵も多く、ゴッホの《アザミの花》、セザンヌの《砂糖壺、梨とテーブルクロス》《ラム酒の瓶のある静物》、ピカソの《静物》などを鑑賞できます。
ひろしま美術館(広島)
印象派からエコールドパリのフランス絵画が多いひろしま美術館。
ピエール・ラプラードの《静物》、ジョルジュ・ブラックの《果物入れと果物》《カードのある静物》を所蔵しています。
まとめ:知れば知るほど魅力的な静物画をぜひご自宅で!
静物画はつまらない、と思っていた方も多いと思います。でも静物画を深く知れば、これまでとは違う目で鑑賞できることでしょう。静物画は古代から存在していましたが、17世紀ごろに絵画のカテゴリーとして成立しました。
花や果物、食器など、身近なものを描いた静物画は、画家によって作風ががらりと変わります。古典的なものからモダンな絵画まで、異なる魅力で私たちを魅了してくれます。
お気に入りの静物画は、ぜひ自宅で楽しみたいところ。そんなときはアートリエがおすすめです。
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