ポスト印象派とは何か
ポスト印象派とは、ゴッホやゴーギャン、セザンヌといった美術史の中でも特に有名で人気の高い画家たちの一連の活動のことを指します。印象派のようにグループ意識に基づいた活動ではありませんが、彼らは印象派を出発点としてそれぞれの様式を独自のスタイルで発展させていきました。
ポスト印象派と呼ばれる画家の多くは高名ですが、一つの流派としてはどのように生まれ、どのような作品の傾向が見られるのかについては、画家の名前ほどには知られていないかもしれません。ここではポスト印象派の特徴と代表的な画家と作品について、アートリエ編集部が深く掘り下げます。
ポスト印象派誕生の背景
1874年より自主的に展覧会を開催してきた印象派の画家たちは、1886年に最後となるグループ展を開催しました。当初は目新しく厳しい批判も受けた印象派の運動は、この時期には他の芸術家や一般大衆にも広く受け入れられるようになっていました。そのような中で台頭し始めたのがポスト印象派の画家たちです。彼らは1880年代に印象派の一つの局面を担いながらも、その様式に飽き足らず、次第にそれぞれが独自の方向へと進んで行きました。
新しい画廊や美術雑誌が次々に生まれていく中、美術界は大きな一つの潮流に沿うのではなく、個人主義的な傾向が強まっていました。1905年にフォーヴィスムが登場するまでのこのような傾向の中で、印象派を母体としながら新たな表現を模索した画家たちの動きをポスト印象派と呼びます。
しかしこれは便宜的な名称であり、彼らは印象派のようにグループとして結束し、明確な目標を持っていたわけではありませんでした。そのため絵画のスタイルに共通性は少なく、それぞれの画風は大きく異なっています。
ポスト印象派の主なテーマと特徴
ポスト印象派という言葉は、印象派に対するある種の反動を表す名称でもあります。印象派が自然の光と色彩を目に見えるままに表現することに苦心してきたのに対し、ポスト印象派の画家たちはより象徴的な内容を好み、物の形態を構築的に描くことを好みました。
例えばセザンヌは印象派の形態感覚の欠如を嫌い、描く対象を図形として捉えて古典的な作品のような構築された絵画を追求しました。またジョルジュ・スーラも印象派を出発点としながらも、制作に色彩理論を厳格に適用して色彩と光の表現に理論的な秩序を与えようとしました。
ポスト印象派の画家たちの画風はそれぞれ異なりますが、このように印象派への独自の問題意識から出発して独自の表現を追求したという点では共通性があります。
ポスト印象派の代表的な画家たち
フィンセント・ファン・ゴッホ
波乱の人生
ゴッホは1853年にオランダ南部のズンデルトで6人兄弟の長男として牧師の家に生まれました。15歳ごろまで学業に勤しみ、絵画についてはズンデルトの村塾で1年、ゼーヴェンベルゲンの寄宿学校で2年、ティルブルグの中学校で18ヶ月間学びました。伯父の助力で画商として働く一方でキリスト教への関心を強めていき、1876年に職を失ってからは伝道師への道を歩み始めます。一時は俸給を受け取りながら活動していましたが、自罰的行動が問題となり伝道師としての道を絶たれてしまいます。
仕送り生活と放浪の後、弟のテオから生活費の援助が始まり、ゴッホは27歳にして本格的に画家を志します。ブリュッセルの美術学校で本格的に絵画を勉強したのち、1886年にはパリに移りテオのアパルトマンで同居生活を始めます。
1888年にはフランス・アルルに移り、「黄色い家」を借りて画家仲間との共同生活を計画します。同年10月からポール・ゴーギャンと共同生活を始めますが、口論の末に自ら左耳を切り取り入院してしまいます。たった2ヶ月の共同生活が幕を閉じ、入退院を繰り返したのちパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移ります。同年7月に胸部をピストルで撃った状態で麦畑から下宿先に戻り、翌々日にテオに看取られながら享年37歳にして亡くなります。
ゴッホ作品の受容
波乱の人生を送り、若くして亡くなったゴッホは生前にはほとんど絵が売れませんでした。しかし彼の死後、弟のテオとその妻ヨーの手によってゴッホの作品は世に広く知られることとなり、20世紀前半にはすでにその価格が高騰し始めていました。その背景には彼の芸術的・伝記的な特異性に関心が向けられたこと、展覧会評の広まり、複製図版の流通量の増加などといった要因もありました。
大戦後もゴッホの作品の価格は従来の100倍にも高騰し、オークションで高額で落札されるようになりました。1980年代にはオークションの高値記録が次々に更新され、1987年にはロンドンのクリスティーズで安田火災(現損保ジャパン)が《ひまわり》を約58億円で落札、1990年には齋藤了英が《医師ガジェの肖像》を約124億5000万円で落札するなど、日本人の高額落札も大きなニュースとなりました。
ポール・セザンヌ
画家への道
セザンヌは1839年に南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに裕福な銀行家の父の元に生まれました。当初は父の希望で法学部に通うも、画家を志して1861年にパリに出ました。画塾アカデミー・シュイスに通い絵の基礎を学ぶも周囲の無理解に苦しみ、地元へ戻り父の銀行で働き始めます。しかし銀行勤めもうまくいかず、1862年には再びアカデミー・シュイスに戻り、ここで初めてモネやルノワールらと出会います。ドラクロワやクールベ、マネなどから影響を受け、当初はロマン主義的な暗い色調の作品を描いていました。
セザンヌは当時のフランス美術界で登竜門とされていたサロンに毎年出品していましたが落選が続き、パリの美術界にはなかなか馴染めずにいました。1872年にカミーユ・ピサロとともにオーヴェル=シュル=オワーズに移り住むと、筆触分割などの印象派の技法を学び、明るい色調の作品を描くようになります。印象派の技法を身につけた彼は1874年の第一回印象派展に出品しますが酷評されます。第3回展においても16点の作品を出品し批判されますが、一方で評価する声も高まり始めていました。
「近代絵画の父」へ
セザンヌは次第に印象派の手法へ不満を募らせ、独自の表現を模索し始めます。サント・ヴィクトワール山などをモチーフに制作を続けますが、人々からはなかなか理解されず、落選も続いていました。しかしゴーギャンなどの当時の前衛的な画家たちからは注目されており、次第に賞賛されるようになります。
最晩年はナビ派のモーリス・ドニやエミール・ベルナールなどの若い画家たちから慕われていました。ベルナール宛の書簡で語られた「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」という芸術論は、当時の画家たちだけでなく後のキュビスムの萌芽にも大きな影響を与えました。このことから現在ではセザンヌは「近代絵画の父」とも呼ばれています。
ジョルジュ・スーラ
研鑽と新組織の設立
スーラは1859年にパリの裕福な家庭に生まれました。1878年にエコール・デ・ボザールに入学し、過去の巨匠の絵を模写するなどの研鑽を積みました。1883年のサロンに出品した素描が初入選し、この年から初の大作となる《アニエールの水浴》の制作に着手し始めます。
スーラは本作において構図やモチーフの配置、人物のポーズなどを熱心に研究して描きましたが、パリのサロンへの出品は拒否されたため、代わりにアンデパンダン展で発表しました。しかしアンデパンダンの組織体制にすぐに幻滅してしまい、ポール・シニャックを含む画家たちで新しい組織「サロン・デ・アンデパンダン(独立芸術家協会)」を設立し、政府主催のサロンへ対抗して「陪審も報酬もなし」というスローガンを掲げてパリで大規模な展覧会を組織しました。
生涯最大の大作
1884年には生涯で最大の大作で代表作となった《グランド・ジャット島の日曜日の午後》の制作に着手し始めます。スーラは実際に公園でスケッチを行い、本作のために大量の習作を残しました。細かい色の点を並べて描く点描で約2年かけて描いた本作は、1886年の第8回印象派展で初めて展示されました。本作によってスーラは新しい印象派のリーダーとして認められることとなりました。
スーラは1891年にパリの実家で31歳の若さで亡くなってしまいます。私生活についてを他人に明かすことはなく、その人生は波乱とは無縁だったようですが、短い生涯の中で印象派を新しい展開へと導きました。
ポール・ゴーギャン
遅咲きの画家
ゴーギャンは1848年のパリでジャーナリストの父とペルー系の血を引く母の元に生まれました。3歳の時、ナポレオン3世のクーデターにより共和主義者だった父が失職し、一家はパリを離れてペルーへ向かいました。その航海の途中で父が急死してしまい、残された一家はペルーのリマで叔父を頼って4年間生活することとなりました。7歳の時にフランスへ戻り、祖父を頼ってオルレアンでの生活を始めます。カトリックの厳格な学校に通い、13歳の時に商船の水先人見習いとなって世界中の海を巡りました。
その後兵役などを経て、パリ証券取引所での職を得て株式仲買人として働き、その後11年間にわたって実業家として成功します。株式仲買人としての仕事のかたわら、ゴーギャンは余暇に絵を描くようになりました。彼は画廊を巡ったり若手の画家たちの作品を購入したりと、徐々にフランスの美術界に足を踏み入れていきました。カミーユ・ピサロと知り合うと家で一緒に絵を描くようにもなり、ピサロを通じて他の画家との交流も増えていきました。1876年に作品がサロンで入選すると、これをきっかけに自宅にもアトリエを構えて本格的に制作を開始します。
独自の画風の確立
1882年にパリの株式市場が大暴落するとゴーギャンの収入も激減します。これを機に彼は絵画を本業とすることを考え始めます。生活が立ち行かず妻の地元のコペンハーゲンに渡るも、現地での仕事がうまくいかず、家族を残して単身で再びパリへ戻りました。息子の病気などで制作が思うように進まない中でも、印象主義的な画風から離れてゴーギャン特有の作風を開花させていきました。
1886年、フランス北西部のポン=タヴァンで一夏を過ごしたことをきっかけに、エミール・ベルナールなどの若い画家たちと交流を深めました。彼らの象徴主義的な画風や日本美術などから影響を受けながら、ゴーギャンの作風は平坦な色面としっかりとした輪郭線を特徴とした「クロワゾニスム」のスタイルへ向かいました。
異国へ見出した活路
フランスの海外県であるマルティニーク島の滞在を経て新しい視点を獲得したのち、1888年から南仏のアルルにてゴッホとの共同生活を始めますが、すぐに関係が悪化し、ゴッホが自らの耳を切り落とす悲惨な事件を最後にここを去ることになります。
ヨーロッパ文明や人工的なものから離れるため、彼はタヒチ島を旅行します。ゴーギャンの傑作のほとんどは、このタヒチ島で描かれました。パリへ一度戻りましたが、パリの美術界で孤立してしまったゴーギャンは逃げるようにして再びタヒチ島を訪れます。絵の売り上げが徐々に増加し、支援者も増えたことから生活は安定するようになります。現地では14歳の少女を妻に迎え2人の子供をもうけました。
晩年はより原始的な社会を求めてマルキーズ諸島を訪れ制作に励みますが、体力が著しく衰え、健康を害してモルヒネに頼る生活となってしまいます。ジャーナリストとしても活動していたゴーギャンは、地元の憲兵を告発する運動を行い、それに対して名誉毀損で訴えられたこともありました。彼は暗澹たる晩年を過ごして1903年に急死しました。
ポスト印象派の代表的な作品
ゴッホ《ひまわり》
ゴッホの作品の中で最も有名な花瓶に活けられたひまわりの絵は全部で7点制作され、そのうち6点が現存しています。ゴッホは1888年から1890年にかけてひまわりのモチーフを集中的に描きました。これらの作品は「アルルのひまわり」とも呼ばれ、ゴッホがゴーギャンとの共同生活でアトリエとして使った「黄色い家」を飾るために描いたと言われています。
複数あるひまわりの作品の中でも、世界的に最も有名なのはロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されている《ひまわり》でしょう。黄色い花瓶には15本のひまわりが活けられており、背景や机も明るい黄色で統一されています。長さや形の異なるひまわりはそれぞれが違う方向を向いていながらも、全体としては安定した構図となっています。本作は現存する6点のひまわりの中で完成度の面で高く評価されており、実際にゴーギャンもこの作品を特に絶賛していたといいます。
ゴッホ《星月夜》
《星月夜》はゴッホが亡くなる前年の1889年に制作された油彩画です。ゴッホは精神疾患の治療のためにサン=レミにある修道院の療養所に入所していました。ゴッホは療養所の一室を画室として使う許可を得て、庭に出てアイリスや麦畑、アルピーユ山脈の山裾などを描きました。《星月夜》は病室の窓から見える村の風景を描いていると言われています。アルピーユの山並みの上に星々や三日月が輝いており、それらの間を縫うようにしてS字状にうねった雲が空に広がっています。画面下には窓から明かりが漏れた村の家々が描かれ、画面左には糸杉が黒くそびえています。
ゴッホは糸杉というモチーフには特別な思いを抱いていたようで、サン=レミの療養時代に弟に宛てた手紙の中で、糸杉の造形的な魅力について熱く語っているほどでした。またキリストが磔になった十字架が糸杉だったという伝説や、ヨーロッパにおいて糸杉は天地を結びつける死の架け橋と捉えられてきたことから、糸杉という死を強く想起させるモチーフでもあります。
本作は青を基調にその反対色である黄色が随所に使われていることによって、鑑賞者の目を引き、強い印象を与えるような作品になっています。ゴッホは《夜のカフェテラス》や《黄色い家》などの作品の中でも青と黄色を多用しています。このように反対色を使って互いの色を引き立たせる手法は、ポスト印象派の画家たちによって盛んに試みられました。
セザンヌ《リンゴとオレンジのある静物》
セザンヌの《リンゴとオレンジのある静物》は1895年から1900年に描かれたセザンヌの代表作の一つです。1880年代に制作されたセザンヌの静物画においては、モチーフが不自然に傾いていたり、複数の視点が一つの画面に混在していたりといった歪み(デフォルマシオン)が多く登場するようになります。
本作においてもセザンヌ特有のデフォルマシオンが使われています。机の上に布が無造作に敷かれており、その上に二つの皿に乗ったリンゴとオレンジ、花柄の水差しが描かれています。二つの皿に注目すると、左側の平皿はやや上からの視点で捉えられているのに対し、右側の脚付きの皿は横からの視点で描かれています。テーブルの稜線も布を隔てて左右で若干ずれており、果物は今にも転げ落ちてしまいそうにも見えます。
セザンヌはこのような歪みをあえて随所に生じさせることで、画面に緊張感をもたらしています。目で見たモチーフを頭の中で再構築して、実物とは異なる形状で描くというセザンヌの発明は当時は厳しく非難されましたが、のちに登場するキュビスムの画家たちから高く評価され、彼らの手本となりました。
ゴーギャン《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
本作はタヒチ滞在時に描かれた長辺が370㎝を超えるゴーギャンの大作で、1897年から1898年にかけて描かれました。本作を制作した時のゴーギャンは自身の健康を損なっていた上に、娘の死や借金などにも苦しめられ本作の完成後はヒ素による自殺を図ったとされています。命は取り留めましたが、ゴーギャンは遺作のつもりで本作を描いたと言えるでしょう。
本作は3つの群像から構成されており、それぞれがタイトルを表しています。右側の眠っている子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まりを、中央のリンゴを収穫する女性を中心とした人物たちは成人期を、左側の人物たちは老いを象徴しています。左上には本作のタイトルのフランス語の原文が記されています。ゴーギャンは度重なる人生の苦悩の中で、この世に生まれてやがて失われる命についてを哲学的に自身に問うたのでしょう。
ジョルジュ・スーラ《グランド・ジャット島の日曜日の午後》
1884年から1886年にかけて制作された本作は、縦207.6㎝、横308㎝という大画面に描かれたスーラの代表作で、現在はシカゴ美術館に所蔵されています。
セーヌ川のほとりで老若男女がそれぞれの余暇を楽しんでいる様子が描かれています。人物は注意深く配置されており、まるで時が止まったかのように静止しているように見えます。芝生に降り注ぐ光や木陰や人物の影が巧みな色彩によって表現されています。
本作は色の小さな点を並置して描く点描画法によって描かれています。スーラは当時のポスト印象派の画家たちに影響を与えたウジェーヌ・シュヴルールらの色彩理論の研究を誰よりも積極的に取り入れ、一般的な筆のタッチよりも点描の方が色彩が鮮やかになると信じていました。色彩と光学の理論により、絵画への科学的で体系的なアプローチを目指したスーラは本作によって新印象派のリーダーとして認められ、本作は1884年の独立芸術家協会の第2回展を独占し、評価されました。
キュビスムヘの橋渡しとしてのポスト印象派
ポスト印象派はグループとして活動することはありませんでしたが、それぞれのスタイルは後世の新しい芸術の潮流に大きな影響を与えました。中でもセザンヌの遠近法を崩した風景画や、デフォルマシオンを活用した静物画などは、伝統的な絵画の約束にとらわれない新しいスタイルの絵画として他の芸術家たちに受け入れられました。
20世紀初頭にピカソと共にキュビスムを創始したジョルジュ・ブラックは青年期にセザンヌから大きく影響を受け、セザンヌ風の風景画を数点描き、やがて複数の視点から見た物の形を一つの画面に収めるキュビスムの視覚実験を試みるようになります。セザンヌはこのような背景から「近代絵画の父」とも呼ばれています。
ポスト印象派とゴッホの受容
現代においてもポスト印象派は印象派に並んで高い人気を誇っており、世界中で愛されています。中でもゴッホは世界でも日本でも人気が高く、ゴッホの作品が目玉となった展覧会が開催されると、多くの入場者で会場があふれます。ゴッホは特に日本美術の影響を強く受け、浮世絵版画などから構図や余白、日本的なモチーフなどを熱心に研究しました。歌川広重の浮世絵を模写した作品《花咲く梅の木、広重作品模写》では絵の中に漢字を取り入れるなどの興味深い試みも行なっています。日本美術の要素をふんだんに取り入れたゴッホの作品は、日本人にとって馴染み深く感じられ、親しみやすい魅力があるのでしょう。
2021年にはサザビーズとパリのオークションハウスにて共同セールでゴッホの1887年の風景画が競売にかけられ、約16億円で落札されました。この作品は100年以上にわたって個人が秘蔵していたもので、ゴッホのモンマルトル時代の作品で数少ない貴重な作品の一つでした。生前はほとんど作品が売れなかったゴッホですが、現代においては世界でもトップクラスの価値が認められています。
ポスト印象派の作品が楽しめる場所
ニューヨーク近代美術館にはセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンといったポスト印象派の画家たちの作品が多数所蔵されています。中でもゴッホの《星月夜》は目玉作品の一つとなっており、同館の永久コレクションとなっています。またゴッホに関してはオランダのアムステルダムにファン・ゴッホ美術館があり、ゴッホの作品の他、ゴーギャンの作品やゴッホが蒐集していた日本の浮世絵や模写をしたミレーの作品なども収蔵されています。その他、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのナショナル・ギャラリー、パリのオルセー美術館といった、世界の名だたる美術館にも多数ポスト印象派の作品が展示されています。
国内では新宿のSOMPO美術館にゴッホの現存する6点のひまわりのうちの一つが所蔵されています。また京橋のアーティゾン美術館にはゴーギャンやゴッホの良作のほか、セザンヌが主要なモチーフとして描いたサント=ヴィクトワール山の絵画や自画像、裸婦の習作などが所蔵されています。
まとめ
ポスト印象派の特徴とそれぞれの画家の活動について詳しく紹介しました。ゴッホやセザンヌといった有名な画家の名前は知っていても、美術史の一つの流派としての特徴は知らなかったという方も多いかもしれません。
アートリエ編集部では今後もこのような美術に関する解説記事をアップしていきますので、こまめにサイトをチェックして美術の世界に親しんでみてください。
ポスト印象派のように明るく綺麗な風景画を飾ってみたいという方は、絵画のレンタルサービスからお気に入りの作品をぜひ探してみてください。