エコールドパリとは何か
「エコールドパリ」。華やかな響きの言葉ですが、フランス語で「パリ派」という意味です。20世紀初頭、パリには画廊が建ち並び大規模な美術展が開催、世界の芸術の中心と称されてさまざまな国から芸術家が集まってきました。そんな人たちを総称したのが「エコールドパリ=パリ派」。彼らはモンマルトルやモンパルナスなどの下町に住み、特定の芸術運動には属せずそれぞれの芸術スタイルで創作活動に励みました。
パリが最も華やかなりし頃、パリにあこがれた異邦人たちによって育まれた「エコールドパリ」。この記事ではアートリエ編集部が、エコールドパリについてわかりやすく解説します。
エコールドパリ誕生の背景
19世紀後半のフランスは激動の時代でした。1871年、ナポレオン三世によるフランス第二帝政の時代、プロイセンとの戦いでパリを包囲され、フランスは降伏します。その後労働者による革命「パリ・コミューン」を経て共和政が成立。混乱の時代が終わり、パリに平穏が訪れました。パリの人びとは久しぶりの平和を満喫。産業革命による経済成長もあいまって、「ベル・エポック(美しい時代)」と呼ばれる華やかな時代が第一次世界大戦が勃発する1914年まで続きました。
パリ万博が開催され、エッフェル塔やオペラ座などが建ち、ライフスタイルも華やかに変化。芸術では印象主義、象徴主義、20世紀初頭にはフォーヴィスムやキュビスムが登場します。1940年頃までパリはアートの中心でした。
そんな華やかな時代、芸術の都パリに集まったさまざまな国の芸術家たちによってエコールドパリは彩られたのです。
エコールドパリの拠点 モンマルトルとモンパルナス
エコールドパリは、芸術理論を確立したキュビスムやシュルレアリスムのように宣言する芸術運動とは異なり、多国籍の芸術家たちのゆるやかなつながりでした。彼らは当初モンマルトルで活動していました。モンマルトルにはピカソやモディリアーニら多くの芸術家が暮らし、ユトリロらも出入りした「バトー・ラヴォワール (洗濯船)」と呼ばれる古いアパートがあり、彼らの制作拠点となりました。
やがてモンマルトルの観光地化で物価や家賃が高騰したことを嫌った芸術家たちは、セーヌ川対岸のモンパルナスへ移っていきます。共同住宅兼アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集まります。シャガールやキスリング、レジェらがここに部屋を借り、モディリアーニやローランサン、藤田嗣治もここを拠点としていました。
エコールドパリの主なテーマと特徴
19世紀末から20世紀初頭のパリには、抽象絵画やダダイズム、シュルレアリスムなど新たな前衛芸術が生まれていましたが、エコールドパリの芸術家たちは明確な美学や主義を主張したわけではありません。フォービズムやキュビズムなど前衛的な芸術運動の影響を受けつつ、伝統的な芸術の枠組みにとらわれない自由な発想で、それぞれの個性やアイディンティティを尊重した独自のスタイルを追求しました。パリで出会った芸術を吸収しながら、自らのルーツである国民性を忘れずにスタイルを確立していったのがエコールドパリなのです。
エコールドパリの定義
エコールドパリは理論や主義に収まらない画家を指すことから、理論に基づいて制作したピカソなどキュビストはエコールドパリに入らない、とされることがあります。一方広義では、キュビストも含めこの時代にパリで活躍した外国人芸術家すべてを指すこともあります。外国人画家の中にはユダヤ系の画家が多かったようです。
また、ユトリロやローランサンのように彼らと交わりながらパリを舞台に創作活動を続けていたフランス人画家もエコールドパリと呼ばれています。
エコールドパリの代表的な画家たち
マリー・ローランサン
フランスの女流画家マリー・ローランサンは、キュビズムの作家ピカソやブラックと交流し影響を受けながらも、グレー、ピンク、ブルーなどパステル調の色彩を使った繊細で優美なスタイルで女性像を表現しました。甘美で優雅なタッチは当時から人気を集め、注文が殺到したと言われます。
特に日本で人気が高かったことも知られており、日本の画家・いわさきちひろもローランサンに強い影響を受けています。
アメデオ・モディリアーニ
イタリア出身のユダヤ系の画家・モディリアーニは、フィレンツェとヴェネツィアの美術学校で学んだ後、1906年にパリにやってきました。彫刻家ブランクーシと出会ってしばらく彫刻に没頭しますが、1915年頃から再び絵画に専念します。余計な細部を切り捨て、顔と首を細長くデフォルメした肖像画が有名。貧困と肺結核、アルコールと薬物依存で生活は荒廃し1920年に35歳で早世しましたが、死後評価が高まりエコールドパリを代表する画家とされています。
モーリス・ユトリロ
移民組とは異なり、生粋のフランス人画家だったユトリロ。モンマルトルで暮らし、その街並みや風景をパリ的雰囲気で描き続けたユトリロもエコールドパリの一員として知られます。
母親のシュザンヌ・ヴァラドンは画家でしたが、ユトリロはほぼ独学で技法を身に着けます。ユトリロが絵を描き始めたのは、自身のアルコール依存症治療のため。絵を描いては酒を飲み騒ぎを起こす、といった生活を続けていたユトリロ。友人のモディリアーニとともに赤ワインをリットル単位で飲んでいたといいます。
身近な街の風景を白く粗い質感で描いた作品は「白の時代」と称され、高い評価を受けています。
藤田 嗣治
1913年に渡仏した藤田嗣治は、モンパルナスで暮らし始めます。エキゾチックな風貌と社交的な性格で、モディリアーニやピカソ、キスリングらと親交を深めながら独自のスタイルを築きます。透き通るような乳白色の下地は女性の肌の美しさを際立たせ、浮世絵を連想する平面的構図は和洋の融合を表現。藤田の名声は急速に高まり、当時のモンパルナスで経済的成功を収めた数少ない画家となりました。
藤田は「モンパルナスの女王」と呼ばれた有名モデル、通称「モンパルナスのキキ」を描き、サロンでセンセーションを巻き起こします。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章を贈られました。
第二次世界大戦中は日本に帰国し戦争画の制作を手がけますが、終戦後「戦争協力者」として批判され1949年に渡仏。1955年にはフランス国籍を取得しました。
モイズ・キスリング
ポーランド生まれのユダヤ系画家・キスリングは1910年、19歳でパリに出てモンマルトルの「バトー・ラヴォワール」に移り住みました。フォーヴィズムの影響を受けた鮮やかな色彩でしたが、前衛や抽象ではなく写実的な人物画や静物画を描きました。
面倒見の良い社交的な性格で、キスリングの部屋は芸術家たちが集まるサロンのようだったといいます。1919年には初個展で好評を得、上流階級から直接注文を受けるようになり、経済的にも恵まれ「モンパルナスの帝王」と呼ばれました。
第二次世界大戦ではユダヤ人として迫害されることを恐れ渡米。亡命先のアメリカでも人気を得ました。アルコール依存症や自殺など破滅的結末が多かった他のエコールドパリの画家たちと違い、戦後フランスへ帰国してからも穏やかな人生を過ごしました。
エコールドパリの代表的な作品
マリー・ローランサン「シャネル嬢の肖像」
1920年代のパリでは女性の社会進出が話題となり、その先頭を走っていたのがココ・シャネルでした。そうした女性たちは自画像をローランサンに依頼するのがステータスとなっていました。シャネルとローランサンは1883年生まれの同い年で、ともに名声を得ていた時期。シャネルもローランサンに肖像画を依頼します。
ローランサンは膝の上に犬を抱き、青と黒のドレスを着た物憂げな表情の女性を柔らかなタッチで描きました。しかしこの絵を見たシャネルは「似ていない」という理由で描き直しを要求。ローランサンも腹を立てふたりは決別しますが、ローランサンはその後もシャネルの店の顧客だったそうです。
アメデオ・モディリアーニ「おさげ髪の少女」
1918年の春、モディリアーニはパリから南仏・ニースに移住します。第一次世界大戦のパリの混乱から逃れるためでもあり、悪化する結核の治療のためでもありました。この絵はニースに滞在中に描いた作品と考えられています。恋人ジャンヌとの間に娘が生まれた喜びからか、この時期モディリアーニは数多くの子どもたちを描きました。おさげ髪の少女は、子どもから大人になるちょうど境目の年頃でしょうか。こちらをまっすぐに見つめる澄んだ瞳が印象的。モディリアーニはこの作品を描いた一年後にこの世を去ります。
モーリス・ユトリロ 「可愛い聖体拝受者」トルシー=アン=ヴァロアの教会(エヌ県)
ユトリロの作品の中で最も高く評価されているのが、1906年から1911年頃の「白の時代」といわれる時期。絵具に漆喰や砂などを混ぜ、白壁の建物などリアルな質感を表現していました。「可愛い聖体拝受者」は「白の時代」の中でも特に人気のある作品。教会の外壁の白は、何度も絵具を塗り重ねています。見ているだけで壁の手触りが感じられるようです。
飲酒癖の治療のために絵を描き始めたユトリロ。アルコール依存は相変わらずでしたが、風景画に新たな境地を開拓し、最も意欲的に制作していた時期の作品です。
藤田 嗣治「カフェ」
黒いドレスに身を包み、カフェで頬杖をつく女性。手元に置いてあるのは書き損じた手紙でしょうか。パリのカフェでの一場面ですが、ニューヨーク滞在時に描かれた絵です。日本画で使用する面相筆で細い繊細な線画を生かした流れるような輪郭線、輝くような乳白色の肌、エスプリの香り漂う優雅なカフェの雰囲気。エコールドパリの寵児となった藤田嗣治の魅力がつまった一枚です。
キスリング「ミモザ」
女性の肖像で知られるキスリングですが、鮮やかな花の絵も多く描いています。キスリングは若い頃から花の絵を描き始め小品で人気を博しましたが、1920年代になると大作にも意欲的に取り組みます。中でも色鮮やかなミモザの花は、キスリングのお気に入り。繰り返し何度も描いています。
無数の黄色の斑点を散りばめ、たわわに実った稲穂のように質感のあるミモザの花。背景の色との対比で、より一層花の黄色が映えます。
エコールドパリの画家たちの交流とその影響
エコールドパリは主義や主張ではなかったものの、モンマルトルやモンパルナスでのさまざまな国籍の文化を持つ芸術家同士の交流は、同時代のフォーヴィズム、キュビズム、シュルレアリスムなどの芸術家にも影響を与えました。
モンマルトルで暮らしていた27歳のピカソが、ローランサンらとともに64歳のアンリ・ルソーを励まし讃える夜会を開いた有名な逸話があります。正式な美術教育を受けていない日曜画家だったルソーの絵は、当時は嘲笑の的でした。しかしピカソはその作品を高く評価したのです。その後ルソーは「素朴派」を代表する作家となりますが、彼の才能をピカソが最初に認めた舞台こそが、エコールドパリの集まる「バトー・ラヴォワール」だったのです。
今も親しまれるエコールドパリの作家たち
モディリアーニ、ユトリロ、ローランサン、藤田嗣治などエコールドパリの作家は現代でも人気が高く、その優雅な雰囲気からリトグラフやポスターなども制作され、身近なアートとして親しまれています。特に日本での人気が高いのも特徴です。
美術市場での価値も高く、2018年にオークションに出品されたモディリアーニの作品は約200億円で落札されました。
エコールドパリの作品が楽しめる場所
海外でエコールドパリの作品を楽しむ
エコールドパリの舞台・パリにある芸術文化の複合施設「ポンピドゥーセンター」では、フランス近代~現代絵画の大きな流れの中でエコールドパリ作品を観ることができます。モディリアーニなど世界的な有名作家のほか、キース ヴァン ドンゲン 、ジュール・パシン、チャイム・スーティンの絵画も所蔵しています。
アメリカでは、東西幅広いコレクションを誇る世界的美術館「ニューヨーク・メトロポリタン美術館」が、モディリアーニやローランサンのコレクションを豊富に所蔵。「シカゴ美術館」もエコールドパリ作品の収集で有名です。ユトリロ、モディリアーニ、ローランサン、藤田嗣治などの作品を鑑賞できます。
日本でエコールドパリの作品を楽しむ
エコールドパリは日本での人気が高く、収蔵方針に挙げている美術館があるほど。そのひとつ「名古屋市美術館」は、藤田嗣治より少し遅れて渡仏した地元名古屋出身の画家・荻須高徳との関連から、エコールドパリの画家たちとその周辺のフランス人作家の作品を収集。国内有数の所蔵品を誇ります。モディリアーニの「おさげ髪の少女」をはじめ、ユトリロ、ローランサン、藤田嗣治の作品を所蔵しています。
「北海道立近代美術館」も、開館当初よりエコールドパリ作品の収集に力を入れてきました。パスキンを中心に、シャガール、藤田嗣治、キスリング、ローランサン、ユトリロの作品など、300点以上のエコールドパリ作品を収蔵しています。
まとめ
芸術の都・パリに憧れ、パリで暮らし、パリで描いた異邦人の画家たち。モンマルトルやモンパルナスの安アパートに暮らし、厳しい生活の中で互いに影響しあいながらも独自のスタイルを築きました。共通の主義主張はなくとも、彼らの絵の根底に流れているのは「パリらしさ」。外国人だからこそ見えた「パリ」があったのでしょう。
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