ナビ派とは何か
ナビ派とは、フランスのパリで19世紀末に活躍した前衛芸術画家の集団です。
モーリス・ドニやピエール・ボナールなど、後期印象派画家ポール・ゴーギャンの教えに刺激を受けた画家たちによって作られました。ナビ派の画家たちは印象派のように自然光を表現するのではなく、画面そのものの秩序を表現することを重視しました。具体的にはモチーフありきではなく、整った平面作品であることを追い求めたのです。
そんなナビ派の作品はそれまでの芸術活動とは大きく異なっているのが特徴。奥行きが無い背景に現実からかけ離れた色合いなど、人によっては何故このような描き方に至ったのか疑問に思うこともあるでしょう。
そこで今回はそうした方に向けて、ナビ派の誕生背景や概要を私たちアートリエ編集部が詳しく解説。ナビ派の画家たちに関する事柄も含めて以降よりお伝えしていきます。
ナビ派誕生の背景
ナビ派誕生前の業界背景
ナビ派誕生の少し前にあたる19世紀半ばのフランスでは、アカデミスムやサロンが強い権威を持って美術界を支配していました。その状態に対して反発する形で台頭したのが印象派の画家たちです。彼らは自分たちの表現の場を作ろうとアカデミスムやサロンと対立したのでした。
対立が起きてからしばらく経った1888年頃にもなるとサロンは民営化になり権威が大幅に低下。アカデミスムやサロンはそれまでのような支配力を失いました。しかし、その状況になっても画家たちにとっては、近代絵画に続く道筋が見えない状態でした。何故ならルドンやゴーギャン、セザンヌという先行者こそいましたが、印象派の評価はまだ認められていなかったからです。
そんな中アール・ヌーヴォーがムーブメントを起こし、それに伴う装飾芸術進行運動が活発的になっていきます。新しい美を追い求める画家たちは装飾芸術に追随し、時には絵画以外の表現にも着目していきました。
そうした背景の中、新しい思想を持って生まれた芸術家集団こそがナビ派です。
ゴーギャンによる影響
ナビ派は1888年ブルターニュでポール・セリュジエがポール・ゴーギャンの指導を受けたことがきっかけで結成しました。その関係からゴーギャンの影響を大きく受けたグループとも言えます。
ゴーギャンが指導した心象を交えた色使いはアカデミー・ジュリアン(パリの私立美術学校)でセリュジエが学んできた事柄とは大きく違うものでした。その未知なる理論に当時のセリュジエは大きな衝撃を受けたと言います。その後、セリュジエは指導を受けた日の夜にパリへと戻り、アカデミー・ジュリアンで交友のあるピエール・ボナール、モーリス・ドニ、エドゥアール・ヴュイヤール、ポール・ランソンたちに自らが体験した内容を話します。
話を聞いた各人はゴーギャンの理論を評価し、ナビ派と呼ばれる集団を結成するに至るのでした。
ナビ派の主なテーマと特徴
ナビ派が取り扱うテーマや思想
ナビ派では日常的な要素と神秘的な要素の両方をテーマとして取り扱いました。具体的にはメンバーの内、セリュジエやランソンなどは宗教や夢、幻想を主題にしています。その一方で、ヴュイヤールやボナールなどは庭や室内、家族や公園といった身近な主題が多い傾向にありました。
また、基本的にナビ派は19世紀の主流だった写実主義(レアリスム)から離れ、芸術の神秘性を追求するという思想を持っていたと言われています。こうした思想はナビ派に属する画家たちの大半がカトリック教徒であることも関係。宗教的なものなど目に見えないものに関心を持ち、中世の精神を受け継ぐという意識のもと活動していました。
なお、目に見えないものに興味を持つ、という概念は印象派が視覚的な要素に執着していく中で除外されていった要素でもあります。
ナビ派の特徴や表現手法
ナビ派の特徴として共通するのは、ゴーギャンなどが用いたクロワゾニスム(明るくない輪郭線で特定の形を縁取るポスト印象派の様式)の影響です。
クロワゾニスムの継承をし、更に発展させたような平面性やフラットな装飾性が多くのナビ派作品で確認できます。加えて、余白を効果的に活用した表現や存在感が強い縦長構図、三次元的には存在しない平面模様や装飾も表現手法として使用していました。
これらの要素は浮世絵などの日本美術から取り入れられています。
ナビ派の代表的な画家たち
ピエール・ボナール
ナビ派メンバーとの出会い、モデルとなる妻との結婚
ピエール・ボナールは1867年にフランスのオー=ド=セーヌ県フォントネー=オー=ローズで生まれました。
陸軍省に務める役人の子として生まれた彼は、1887年に大学入学を果たし、翌年には弁護士資格を取得。その傍らアカデミー・ジュリアンで美術の腕を磨いていきます。その際、以降で紹介するモーリス・ドニやポール・セリュジエと知り合いました。そして、彼らと共にナビ派として活躍していきます。
1893年頃には後にボナールが結婚することになるマリア・ブールサン(通称マルト)と出会いました。マルトとの仲が深まってからは描く女性モデルに彼女が選ばれることが多くなっていきます。また、マルトがかなりの入浴好きだったため、彼女を描いた作品の背景は大体浴室でした。
日本の浮世絵・版画に影響を受けた一面も
ボナールの作品を語る上で欠かせないのが日本美術による影響です。美術学校が開催した日本美術展覧会をきっかけに浮世絵・版画などに傾倒したことで、彼は日本かぶれ(ジャポネール)のナビと呼ばれることもありました。
その影響が目に見えて分かるのが1891年に発表した4枚のパネルによる連作《庭の女性たち》です。この連作には掛け軸を思わせる様な画面作りが行われています。また、その4枚の内の1つ《白い水玉模様の服の女性》に関しては日本の見返り美人図を思わせる様なポージングで描かれました。
モーリス・ドニ
ボナールとは異なるアプローチをしたナビ派
モーリス・ドニは1870年11月25日、フランスのグランヴィルで生まれました。幼いころから芸術や宗教に興味があったドニはルーヴル美術館でボッティチェリやラファエロの絵を良く見ていたと言われています。学生となったドニは美術を学ぶためにアカデミー・ジュリアンとエコール・デ・ボザールの両方に通いました。その過程の中で人物画家でありながら理論家でもあるジュール・ジョゼフ・ルフェーブルの教えを習得していきます。
アカデミー・ジュリアンでは後にナビ派となるメンバーと出会いました。ケル・グザヴィエ・ルーセルとエドゥアール・ヴュイヤールに関してはボナールの繋がりを通して親しくなっていきます。そして1890年から、新しい表現を作り出すという意思の元グループが無くなるまでナビ派としての活動を行いました。
ナビ派といってもドニの絵はボナールやヴュイヤールとは違い、日本美術よりもイタリアの初期ルネサンス美術に影響を受けていたのが特徴です。その原始的な表現からインスピレーションを受け、神秘的な要素を含んだ宗教的画題に取り組みました。彼の思想や手法はヴュイヤールやボナールといったナビ派だけではなく、グループではないアンリ・マティスにまで影響したと言われています。
ナビ派無き後は、宗教的なテーマや壁画制作に更に没頭します。
1931年には国際クリスチャン労働組合連盟からの要望で労働の尊厳という作品も制作しています。この作品はジュネーブのセンター・ウィリアム・ラッパルトの階段に飾られました。
理論家としてのモーリス・ドニ
ドニは理論家の一面を持つ人物でもありました。1890年に発表した論文《新伝統主義の定義》では「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的に、ある順序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを、思い起こすべきである」といった言葉も残しました。
このようなドニの言葉は新しい芸術運動を起こす後世の画家たちの精神的な支えとなっていきます。
また、1922年には《現代美術と宗教美術に関する新理論》というそれまでの論文を収録した書籍を出版しました。彼の平面性を追い求める理論にはゴーギャンやセリジュエたちの影響が色濃く見られます。そして長年の芸術運動の中でその理論をより昇華していき、平面性から装飾性への追求に視点を変えていきました。
当時としては先見性が高い絵画論を論じていた事から、ドニの理論こそがモダニスムの出発点という見方もあります。
ポール・セリュジェ
ポン=タヴァンでの指導とナビ派結成
ポール・セリュジェは1864年11月9日、会社経営者の息子としてパリに生まれました。彼は名門学校で古典や哲学を学び、父親経由で働いた後1885年にアカデミー・ジュリアンに入学しています。
リュジェの明るい人柄はアカデミーの学生や先生たちに親しまれたと言います。その頃から前述したモーリス・ドニとは親交がありました。
そして1888年の夏、セリュジェはブルターニュの芸術家村、ポン=タヴァンに足を運びます。当時ポン=タヴァンには、ポール・ゴーギャンやエミール・ベルナールが核となる美術グループが活動していました。セリュジュはゴーギャンを訪ね指導を受けることに成功。その際、これまで学んできた美術論とは大きく違ったアドバイスを聞いて驚愕します。そのあまりの衝撃に彼はその日の内にパリに戻り、描いた《タリスマン》を示しながらゴーギャンの教えについて仲間たちと議論。それに共感した仲間たちとナビ派を結成したのでした。
しかし、1891年にゴーギャンがタヒチに向かった頃からグループの結束は日に日に緩んでいきます。当時はメンバーの各々が独自の画風を確立していく時期でもあったのです。1892年にもなると、セリュジエもそれまで毎年夏に訪れたポン=タヴァンへ出かけなくなりました。
また、同年はパリにて演出家兼俳優でもあったリュニェ=ポーが関わる舞台の美術仕事に参加。以降もこのような画業以外の仕事に取り組んでいくようになります。
セリュジェが惹かれたポン=タヴァンの森
セリュジュは風景を主題とした作品を生涯多数制作しました。
そうして描いた風景の中でもひと際興味を持っていたと言われているのがポン=タヴァンの森です。この森は《森の中の焚火》や《呪文或いは物語 聖なる森》の題材となっています。これらの作品は幻想世界や異国の宗教儀式を感じさせる不思議な構図や色使いなのが特徴。ある種象徴主義的な部分も見られる独特な作品です。
晩年には神智学(オカルト)にも興味を持ったセリュジュは、この森で何か霊的な要素を感じ取っていたのかもしれません。
エドゥアール・ヴュイヤール
美術学校での出会いを通してナビ派へ
エドゥアール・ヴュイヤールは1868年11月11日、ソーヌ=エ=ロワール県キュイゾーで生まれました。
学生になる頃には彼は出身地からパリに移り、リセ・コンドルセ(日本の高等学校に相当する教育機関)に通います。その時に共にナビ派となるモーリス・ドニやケル・グザヴィエ・ルーセルと知り合いました。リセ・コンドルセ卒業後はルーセルのアドバイスもあり、画家ディオジェーヌ・マイヤールの工房で働きました。
その後1886年から1888年にはアカデミー・ジュリアンで、1887年あたりからはエコール・デ・ボザールで本格的に美術を学んでいきます。そして、1890年までにはポール・セリュジエやピエール・ボナールと知り合っており、その繋がりでナビ派に属しました。ナビ派時代はドニやボナールと制作の場を共有していたと言われています。
そんなセリュジエはナビ派の中ではボナール同様、日本美術からインスピレーションを受けたメンバーでした。作品としても日本と西洋両面の要素を感じる様な屏風絵などが存在しています。ナビ派無き後は繊細なパターン模様を多く描き、雑誌のイラストや装飾画の仕事も行いました。晩年である1937年にはパリのシャイヨー宮における室内装飾まで担当しています。
自らをアンティミストと呼んだヴュイヤール
ヴュイヤールの作品はナビ派の中でも平面的かつ装飾的な要素が多く見られるのが特徴です。ボナールと同様に身近な人や日々過ごす室内をモデルおよびテーマにして、生活の情景を親しみのあるテイストで描きました。
そんな彼らは当時から「アンティミスト(親密派)」と呼ばれていて、ヴュイヤール自身もそれを自称していたと言われています。
ポール・ランソン
ボナールよりも日本の影響を受けたナビ派
ポール・ランソンは1864年にフランスのリモージュで生まれました。地方政治家の息子として育った彼は国立装飾芸術高等学校に通った後、教師に勧められてパリで生活します。
1888年には入学したアカデミー・ジュリアンにてトニ・ロベール=フルーリーに師事。ボナール、ドニ、ヴュイヤールたちとも交友を持つようになり、ナビ派の一員になりました。メンバーとの繋がりは厚く、1890年あたりからは自身が住むアパートに彼らを呼んで定例会を開いていたそうです。
ナビ派としてはボナールよりも日本の浮世絵・版画の影響を受けたと言われています。装飾芸術のジャンルでの生涯実績も豊富で、ステンドグラスやタペストリー、敷物などを多数世に出しました。
妻やナビ派メンバーと美術学校を創立
1908年には妻のマリーやセリュジエと共にランソン美術学校の運営を開始。こちらはボナールや仲間たちが教師を務めていて、パリ以外の地域でも評判を聞くほど実力派校として有名になっていきます。
しかし、ランソン自身はその評判を聞くことなく、学校創立の翌年に47歳で亡くなりました。
なお、ランソンの学校に関しては、洋画家の梅原龍三郎がピエール=オーギュスト・ルノワールに画塾について相談したところ、彼の学校を勧められたというエピソードもあります。
ナビ派の代表的な作品
ピエール・ボナール〈白い猫〉
《白い猫》はピエール・ボナールによって1894年に制作された作品です。
背中を丸める素振りをした白猫を湾曲した線で描き、独特の存在感を表現しています。背景の奥行を無くしモチーフが平面的に配置されたこの作品はナビ派のスタンダードな作風だと言えるでしょう。
足のふんばりによる力強さからは一見、猫の野性味が感じられます。しかしその半面、表情や雰囲気からは飼い猫のような愛らしさが漂っています。
近年では習作からの情報により、この白猫のフォルムや足の配置の決定に多大な時間をかけていたことが明らかになりました。実際、X線で見ると多くの修正跡が残っており、肉眼でもそのいくつかの跡が確認できます。
モーリス・ドニ〈セザンヌ礼賛〉
《セザンヌ礼賛》は1900年にモーリス・ドニによって制作された油絵です。
ポール・セザンヌの静物画である《果物入れ、グラス、りんご》が中心にそのまま描かれており、それを囲むようにして画家や批評家たちが配置されています。
周囲の人物は左側奥から順にエドゥアール・ヴュイヤール、批評家アンドレ・メレリオ、アンブロワーズ・ヴォラール、作者モーリス・ドニ自身、ポール・ランソン、ケル=グザヴィエ・ルーセル、ピエール・ボナールと続き、一番右にはモーリス・ドニの妻マルタ・ドニが描かれています。
手前にいる2人は左からオディロン・ルドン、彼に話しかけているのがポール・セリュジエです。ナビ派が支持するポール・ゴーギャンは描かれていませんが、セザンヌの絵の所有者こそがゴーギャン本人であるため、間接的にその存在が感じられるようになっています。
この《セザンヌ礼賛》に対してベリンダ・トンプソン は「フィンセント・ファン・ゴッホやゴーギャンなどに見られる印象派主義から脱却し、セザンヌから探り当てた古典的価値の再発見に向かった作品」と評しています。
ポール・セリュジェ〈タリスマン〉
1888年 に制作された《タリスマン》はセリュジエの初期の頃の作品です。また、ナビ派結成のきっかけになった作品でもあります。
制作はゴーギャンの指導を受けながらポン=タヴァンにて行われました。ゴーギャンの教えは視覚的に見たことだけではなく、心象に沿って色を使うように勧めるものだったと言います。その関係から《タリスマン》で描かれている木々の形は非常に抽象的であり、色彩もリアルな観点からは大きく離れた大胆なものになっています。また、水面に反射した木々の姿が実物のサイズと違うなど、遠近感の部分でさえ崩しているのも特徴です。
ゴーギャンの教えを通してナビ派が始まった象徴と言えることから、本作はナビ派メンバーから護符を意味する《タリスマン》と命名されました。
エドゥアール・ヴュイヤール〈ヴォークレソンの庭〉
ヴァイヤールの作品は庭園や街中の道、公園、インテリアをメインテーマにして、穏やかに描いたものが多くありました。
1923年に制作されたこの《ヴォークレソンの庭》もそうした作品の一つです。
《ヴォークレソンの庭》は明確な輪郭線や筆触分割により、平面的かつ色合い豊かな様式で構成されているのが特徴。ヴァイヤール独特の渋いカラーリングも日常的風景の柔らかさを表すのに見事に作用しています。
なお、作品名にあるヴォークレソンとは「緑の町」を意味する言葉です。パリの西側にあるヴェルサイユとサン=クルーの中間地域を指します。
後世に残したナビ派の影響や逸話
後世への影響
ナビ派の活動は約12年しか続かなかったと言われています。1900年代に入る頃には個別の活動が多くなり、グループとして自然消滅していきました。しかし、そこまで長くない活動期間でも後世の歴史に影響を与えたのがナビ派という存在だったのです。
たとえば、ポスターや版画の分野で活躍したヴュイヤールやドニの活動は19世紀末~20世紀前半頃に行われた美術運動「アール・ヌーヴォー」の確立に影響を与えました。
また、ナビ派が提唱した絵画論はそれまでにない秩序の多様化とも言える考え方でした。特にドニは「絵画作品とは、何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた線や色彩によって覆われた平坦な面である。」という有名な1句で、秩序が人それぞれにあることを説いています。
こうしたナビ派の考えは独立性や多様性といった20世紀における芸術の方向性を形成することに繋がっていきます。そして、フォーヴィスム(野獣派)やキュビスム、抽象絵画を構築する精神的論理として重要な役割を果たしました。
もしかしたら今日における現代アートなどにもその影響はあるかもしれません。
ナビ派命名に関する逸話
ナビ派という名前は当時の詩人であるアンリ・カザリスが命名したという説が有力です。彼は古い時代のイスラエルを預言者が導いたように、ナビ派の画家たちがいずれ美術界を牽引していくことを願ってナビ(ヘブライ語で予言)という言葉を用いたと言われています。
ナビ派の活動が後世に多大な影響を与えていることを考えると、彼の願いは見事に叶ったと言えるのではないでしょうか。
現代でのナビ派の評価・受容
19世紀末のパリで伝統に反しながら新たなスタイルを切り開いたナビ派の評価は、現代でもフランスを中心に高まりつつあります。
キュビスムやフォービスムの精神的理論がすでにナビ派メンバーによって構築されていたという事実から、20世紀美術史の出発点としてナビ派に着目する有識者も少なくありません。
日本では日本美術と西洋美術が交差した芸術運動としてフォーカスされることが多いです。また、ナビ派独特のやわらかい色調や空気感は美術入門者からの印象が良く、解説本も発売されています。
ナビ派の作品が楽しめる場所
世界で特にナビ派の作品が充実している場所
フランスのパリに存在するオルセー美術館では、ナビ派の作品が所蔵されています。ナビ派が活動したパリにある美術館だけあってその所蔵数は世界一です。
なお、ナビ派が手掛けた作品群は基本的に常設されていますが、時には企画としてナビ派展が行われています。
日本国内でナビ派の作品が見られる場所
国内では、主に国立西洋美術館でナビ派の作品を見ることができます。
こちらの美術館で所蔵されているのはモーリス・ドニによる素描やピエール・ボナールの《坐る娘と兎(1891年発表)》などです。更にナビ派のルーツとも言えるポール・ゴーギャンの絵画も所蔵が確認されています。ただし、これらは常設展示はされておりません。
展示情報の案内をチェックしてナビ派展示をするタイミングに足を運んでみてください。
まとめ:ナビ派は絵画史に新たな流れを作った集団
ナビ派は写実性や印象主義から離れて平面の中での秩序を求めた画家集団です。約12年という短い活動期間ですが、20世紀の絵画史に続く転換期を生み出したとして現代でも評価されています。浮世絵の影響やそれに似た要素が作風の根幹にあるため、日本人にとっては親しみやすい存在かもしれません。
アートリエではアートに関する情報を発信しています。アートのことをもっと知りたいという方は、こまめにウェブサイトをチェックしてみてください。
また、実際に絵を購入してみたいという方は、活躍中のアーティストの作品をアートリエで購入、またはレンタルすることもできます。誰でも気軽にアートのある生活を体験することができるので、ぜひお気に入りの作品を探してみてください。