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2024.05.13

【徹底解説】写実主義とは?代表的な画家と作品をわかりやすくご紹介

【徹底解説】写実主義とは?代表的な画家と作品をわかりやすくご紹介

写実主義とは?その基本を解説

写実主義とは、19世紀ヨーロッパの文学と美術において盛んになった芸術様式です。写実主義という言葉は「リアリズム」の訳語であり、しばしば自然主義とも訳されます。美術史における写実主義は主にフランスを中心として発展しました。

レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、多くの傑出した芸術家が登場したルネサンスにおいて、芸術家たちは現実世界を本物らしく表現することに苦心してきました。その後のバロック美術やロココ美術などの様式においてもその基本は変わらず、絵画の伝統となったため、ルネサンス以降の美術も広義では写実主義とも呼べるかもしれません。しかし美術様式としての写実主義の運動は、主に19世紀のフランスで起こりました。

ここでいう写実主義とは、現実世界を見たままに描くという技法的な側面だけでなく、急激に変化する社会に生きる人々の現実や自然のありのままの姿を描くという、主題的な側面も含んでいます。本記事では写実主義の特徴と代表的な画家について詳しく解説します。

写実主義の主な特徴とは何か?

クエスチョンマーク

既存の価値観への反発

写実主義が登場する以前は、古代ギリシャ・ローマの美術を自分たちの美術の規範とした「新古典主義」と、それぞれの国と歴史に根ざした主題を時に主観的な激情で描いた「ロマン主義」が台頭していました。新古典主義はかつて栄華を誇った古代の人間や社会を理想として追求し、ロマン主義はしばしば非現実的な幻想を追い求めたことから、両者とも目の前の社会の現実から遠ざかってしまうという傾向がありました。写実主義はそのような潮流に反発し、現実の人間と社会のありようをあくまでも客観的に描くことを目指しました。

時代をとらえて現実を描く

19世紀前半のヨーロッパでは、イギリスで起こった産業革命の波が押し寄せ、経済と産業が急速に発展していました。それと同時にそれまで権力を握っていた貴族階級の地位は低下し、労働者階級の人口が急激に増えていきました。フランスでは七月王政のもとでブルジョワジーが力を増したと同時に、厳しい生活を強いられた労働者たちによる彼らへの不満が募り、階級格差がどんどん開いていきました。

写実主義の画家たちはそのような厳しい現実から目を背けず、驕り高ぶった支配層や汗を流して懸命に働く労働者たちの姿、都市化とは無縁の田舎の風景などを理想化することなく描きました。

中心人物と影響力ある画家たち

ギュスターヴ・クールベ

ギュスターヴ・クールベ

写実主義画家の中心人物として欠かせないのがギュスターヴ・クールベの存在です。彼は1819年にフランス・オルナンの農村に生まれました。社会主義者だった彼は当初はロマン主義的な作品を描いていましたが、いつしかロマン主義特有の激しい感情や行き過ぎた想像力は現実からの逃避に過ぎないと確信するようになりました。クールベは労働者や一般市民の日常生活を、それまでの絵画の伝統で最も重視されてきた物語画や歴史画と同じように、価値のあるものとして描きました。

他にも美化されていない女性の裸体といった挑戦的な作品や風景画、狩猟画、海景画なども多数手がけ、当時の硬直したフランスの美術業界にたびたび衝撃を与えました。またクールベは世界で初めて「個展」を開いた芸術家としても知られています。1855年のパリ万国博覧会の際に個展を始めて開き、自分が生きる時代の出来事を目に見えるままに描くことを主張した「レアリスム宣言」を掲げて、人々の目を自分の作品に向けさせました。

オノレ・ドーミエ

オノレ・ドーミエ

生前はほとんど無名のままでしたが、当時の社会を強烈に風刺した画家としてオノレ・ドーミエの活動は見逃せません。ドーミエは生涯の大半を様々なパリの週刊誌に風刺画を寄稿して過ごしました。40歳を過ぎてから油絵の制作も始めましたが、大衆からはほとんど関心を示されることなく、1879年の死の直前にようやく初めての個展を開催できたほどでした。

ドーミエは人物の特徴を思いきり誇張して描く風刺画特有の表現によって、貧しい人々の厳しい現実と権力に対する鋭い批判を作品に込めました。鋭いまなざしと人間への共感に満ちた作品の数々は、ロートレックやゴッホなどの多くの画家に影響を与えました。

ジャン=フランソワ・ミレー

ジャン=フランソワ・ミレー

フランスのノルマンディー地方の農家に生まれたミレーは、少年時代に絵の才能を見出されてパリに渡り、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で絵画の基礎を学びました。一度パリを離れてシェルブールで肖像画家としての名声を得て次々に肖像画の注文を受けました。この時期に出会った妻とともにパリに戻り、ミレーの農民画の出発点となった《箕をふるう人》が1848年のサロンで好評を得て、これを機に政府からの絵画制作の注文を受けるという成功を収めました。

1849年にバルビゾンに移住し、仲間たちとともに田舎の風景や田園での生活を描き始めました。彼らはバルビゾン派とも呼ばれますが、バルビゾン派はフランスの写実主義運動の一部としてみなされています。農家の生まれであることや幼少期の農作業の体験が、彼の画家としての目を農民や田舎に向けさせました。ミレーは風景の理想化や政治的主張に走ることなく、日々汗を流して労働する農民たちのありのままの姿を真摯に観察し、彼らの生活と彼らを取り囲む自然を丁寧に描きました。

エドゥアール・マネ

エドゥアール・マネ

1832年にパリの裕福な家庭に生まれたマネは、伯父の影響で絵に興味を持ち、歴史画家のトマ・クチュールに師事しながらヨーロッパ各地で巨匠たちの絵を模写することで実力をつけていきました。1861年にスペインの写実主義絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などの作品でサロンに初入選を果たしました。

マネは理想的な主題や造形を求める古典の巨匠たちの作品に学びましたが、そのようなアカデミックな立場から距離を置き、近代パリの都市生活をはっきりした輪郭線と平面的な色面で描き出しました。彼の絵はアカデミックな絵画を見慣れた人たちから、しばしば俗悪で不道徳なものとして激しい批判を浴びせられました。しかし伝統的な絵画からモチーフや主題を引用しつつも、それらを現代的な文脈に置き換えて人々の風俗を描き出した彼の作品は美術界にとって革命的でした。

印象派の画家たちから敬愛され、彼らへ多大な影響を与えましたが、マネ自身は印象派の運動には参加しませんでした。彼は写実主義から出発し、独自の率直な画風で印象派につながる新たな潮流を生み出したという点で美術史上の重要な人物としてみなされています。

アンリ・ファンタン=ラトゥール

アンリ・ファンタン=ラトゥール

アンリ・ファンタン=ラトゥールはフランスのグルノーブルに画家の父親の元に生まれました。パリに出てエコール・デ・ボザールで学びながら、ルーブル美術館に通い17世紀オランダ絵画や18世紀フランスのシャルダンらの作品を模写して基礎を固めました。一時期はクールベのアトリエで学び、彼をはじめとした写実主義の潮流からも刺激を受けました。

ファンタン=ラトゥールは初期から晩年まで精力的に静物画を描き続け、フランス国内よりも先にイギリスで認められました。従来の美術アカデミーの価値観では、静物画はマイナーなジャンルとみなされていました。彼は高位のジャンルとみなされていた歴史画や宗教画の文脈を無視し、アカデミズムには反対の立場を示していました。印象派が台頭する前に卓上に並べた花と果物といった身近なモチーフに着目し、それらをあくまで写実的に描くことで独自の画風を確立しました。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー

コローは1796年にパリの裕福な家庭に生まれました。画家になることを反対していた父に従って、青年時代は商人としての修行をしていましたが、26歳の時に父の許しを得て画家を志しました。当時のアカデミックな風景画家に師事しながら学び、徐々に画家としての基礎を学んでいきました。生涯に3度イタリアへ赴き、ルネサンス絵画の巨匠たちに学びながら戸外での制作も積極的に行いました。

1827年に《ナルニの風景》がパリのサロンで初めて入選し、高く評価されました。イタリアで身につけた技法による自然光の忠実な再現とアカデミックな価値観からの逸脱という点で、本作は印象派の萌芽ともみなされています。 同時代の新古典主義の画家たちも戸外でスケッチをすることがありましたが、コローは彼らとは異なり、自分の戸外でのスケッチを理想化された風景に変えることはありませんでした。彼はスケッチでさえ独立した作品とみなし、類まれな観察眼でありのままの自然を描き続けました。

写実主義の代表作を解説

落穂拾い

落穂拾い

1857年に描かれ同年のパリでのサロンに出品された《落穂拾い》はミレーの代表作であり、写実主義の中でも重要な作品です。本作では刈り入れが終わった後の麦畑で残った穂を拾い集める3人の農民が描かれています。遠景には穀物がうず高く積まれており、馬に乗った地主と見られる人物も描かれています。ミレーは豊かで賑やかな農園の風景と、貧しい農婦たちを明らかに対比させています。描かれているのは名もない庶民たちですが、本作の主題は『旧約聖書』の「レビ記」に基づいています。

レビ記に定められた律法では、貧しい農民たちが落穂拾いをすることは命をつなぐために認められている慣行であり、畑の持ち主が麦を残さずに回収されることは禁じられていました。本作にはこの律法に基づいた人間の労働の根源的な意味が重ね合わされています。

本作は貧困や格差を示唆していると批判された一方で、農民の崇高さを表しているとして高い評価も得ました。本作は1867年の第2回パリ万国博覧会に出品され好評を博し、ミレーは画家としての大きな躍進を果たしました。

草上の昼食

草上の昼食

1862年から1863年にかけて描かれたマネの《草上の昼食》は彼の代表作であり、発表された際に大きな物議を醸した作品でもあります。森林の中で2人の着衣の男性と1人の裸の女性が地面に腰掛けています。左手前には果物やパン、かごなどのピクニックの道具と女性が着ていたであろう服が無造作に置かれており、背景には水浴びをする女性も描かれています。

伝統的な絵画において、女性の裸体は神話や歴史上の人物を描いた作品にのみ登場するものでした。マネの《草上の昼食》に描かれている女性は女神などの聖なる人物ではなく、あくまで現実の女性である上に美化されずに描かれているため、批判の対象となりました。1863年のサロン落選展に出品された本作はスキャンダルを巻き起こし、厳しい批判にさらされた一方で、何人もの画家たちが同じ主題で作品を制作するほど美術界に大きな影響を与えました。

ドラクロワ礼賛

ドラクロワ礼賛

アンリ・ファンタン=ラトゥールによる《ドラクロワ礼賛》は、ロマン派の画家ウジェーヌ・ドラクロワへのオマージュとして1864年に描かれました。前年に亡くなったドラクロワの葬式の際に、参列者の少なさにショックを受けたファンタン=ラトゥールは、追悼の意を表するために本作を描くことを決意しました。作品にはドラクロワの肖像画を中心として、ファンタン=ラトゥール本人、ホイッスラーやマネといった画家たち、詩人のシャルル・ボードレールなどの10人の人物が描かれています。本作は1864年のパリでのサロンに出品され、フランスの芸術界や文学界から称賛されました。

オルナンの埋葬

オルナンの埋葬

《オルナンの埋葬》はギュスターヴ・クールベが1849年から1850年にかけて描かれた315×668㎝の大作です。本作はクールベの故郷であるオルナンにて大叔父が埋葬された時の様子を描いたものです。実在のオルナンの住民たちをモデルに50人ほどの人物が大画面の中に描かれています。歴史画や宗教画が描かれるような大画面に、現実にある田舎の葬儀の様子を描くという試みは、当時としては画期的でした。それゆえ1850年のロンで発表された際は批評家たちから厳しく非難され、後の1855年のパリ万博では展示が拒否されるという事態となりました。

しかし本作における聖職者と一般人を平等に扱う描き方、自身の経験に基づいて名もなき人物たちが喪に服している場面を大画面に描いたことはクールベのリアリストとしての態度をよく表しています。クールベが「私は天使を描くことはできない。なぜなら、天使を見たことがないから」という言葉を残したという話は有名です。自身が実際に見たものを理想化することなく描いた本作は、写実主義の絵画としても、19世紀フランス絵画としても非常に重要な意味を持つ作品としてみなされています。

モルトフォンテーヌの思い出

モルトフォンテーヌの思い出

《モルトフォンテーヌの思い出》(1864年)は、コローの後期の作品の傑作として知られています。フランス北部の村モルトフォンテーヌにある静かな湖畔で2人の人物が木の実を取ろうとしている場面が描かれています。コローは1850年代に頻繁にこの地域を訪れており、戸外で制作しながら光と水の反射を熱心に研究しました。

コローはもともと写実主義から出発しましたが、後期になるとロマン主義からの影響も受けました。本作は実際の風景を元にしながらも、やや理想的で抒情的な光景として描いています。本作はサロンに出品された際に好評を博してナポレオン三世に購入され、現在はルーヴル美術館に所蔵されています。

三等客車

三等客車

1862年ごろに描かれた《三等客車》は、鉄道の三等車両に乗った労働者たちの貧困と孤独を描いたドーミエの作品です。彼は1840年代から鉄道で旅行する人々に着目した作品を制作していました。

本作は現在ニューヨークのメトロポリタン美術館、オタワのカナダ国立美術館、サンフランシスコ美術館にそれぞれ同主題の作品が所蔵されています。旅行そのものではなく、鉄道に乗る貧しい人々に焦点をあてて描いたこれらの作品には、集団の中にあっても孤独を感じ、暗い表情を見せる労働者たちの姿がドーミエの深い共感を持って描かれています。

写実主義が後世の芸術に与えた影響

写実主義とバルビゾン派

19世紀フランスは激動する政治体制の中で、産業革命の影響で工場と人口が増え、パリは急速に都市化していきました。ジャーナリズムが発達したことにより美術批評は活発になり、またブルジョワジーが力を増して作家のパトロンとして存在感を示すようになりました。このような社会と美術界の大きな変化の中で、人間の理想の具現化を目指した新古典主義とロマン主義から、現実を客観的に捉えようとする写実主義へと時代が変化していきました。

コローやミレーをはじめとする画家たちはフランスのバルビゾン村に移住して豊かな自然と農民の生活を描き、バルビゾン派を形成しました。人の手が加わっていない自然の風景を求める彼らの活動は、急激な工業化・都市化への反動ともとれます。バルビゾン派の絵画は、社会の変化への漠然とした不安を抱える市民たちに受け入れられ、評価されました。

絵画をめぐる状況の変化

クールベやマネなどは労働者や一般市民の生活を理想化することなく率直に描き出し、しばしば厳しい批判にもさらされましたが、既存のアカデミックな絵画やサロンのあり方を世に問うものでもありました。特にクールベはサロンの落選を機に世界で初めての個展を開催し、この個展のカタログに掲載された文章はのちに「レアリスム宣言」と呼ばれるようになり、写実主義の名称を世に広めることとなりました。また、パトロンの台頭、個展の開催、画商の誕生といった数々の変化によって、絵画が商品として流通し市民の手に渡るようになった時期もこの頃です。写実主義が市民の生活に目を向け始めた背景には、このような絵画をめぐる状況の変化も大きな要因となっていました。

印象派への影響

バルビゾン派や写実主義の台頭、そして社会と美術界の大きな変化は、後の印象派の活躍の素地を作っていきました。農民や自然のありのままの美しさを捉え、戸外での制作によって光の表現を探究したバルビゾン派の画家たちの制作態度は、印象派の画家たちの光の表現につながっていきました。また印象派の画家たちが審査なしの自主展覧会を盛んに開催することができたのも、写実主義の画家たちが古典的な絵画観に風穴を開け、アカデミーから距離を置いたからでした。

日本で写実主義の作品を鑑賞できる場所

絵を鑑賞する人の後ろ姿

東京・上野の国立西洋美術館では、常設展にて写実主義の作品を年間を通じて鑑賞することができます。中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画を時代を追って鑑賞することができるので、写実主義から印象派への流れを展示室で追うこともできます。

また山梨県立美術館は、ミレーの作品を中心としてバルビゾン派の作品も数多くコレクションしています。特に「ミレー館」と名付けられた展示室ではミレーの良作とともにその生涯をたどることができます。

また愛知県のメナード美術館ではクールベの作品が、東京富士美術館と箱根のポーラ美術館にはマネの作品が所蔵されています。

まとめ

写実主義の運動と代表的な画家、作品について解説しました。19世紀の西洋絵画と言えば日本では印象派が圧倒的な人気を誇っていますが、写実主義の画家たちの「今」を見つめるまなざしとアカデミーの権威の否定と革新がなければ、印象派は台頭していなかったでしょう。彼らが鋭い観察眼でとらえた自然と人々の生活は、今の私たちの共感を誘うものも多くあります。日本でも気軽に写実主義の作品にアクセスすることができるので、この機会にぜひ実物を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

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