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2024.10.04

ピカソのゲルニカとは?作品の意味とゲルニカにまつわるエピソードをくわしく解説します!

ピカソのゲルニカとは?作品の意味とゲルニカにまつわるエピソードをくわしく解説します!

こんにちは。アートリエ編集部です。パブロ・ピカソは、20世紀の美術界における偉大な作家。彼が生み出した数多くの名作のなかで、異色にして最高傑作とされているのが《ゲルニカ》です。今回は《ゲルニカ》の歴史とその魅力について解説します。

ピカソのゲルニカとは

ゲルニカ、1937年、パブロ・ピカソ作
出典:pablopicasso.org

ピカソの《ゲルニカ》は、スペイン内戦中に起こった、ドイツ軍による、スペインのバスク地方ゲルニカへの空爆を主題とした作品です。巨大なカンヴァスには、もがき苦しむ人物や動物たちが、黒と白のモノトーンで象徴的に描かれています。

ピカソが描いた象徴的なモティーフは、シンボルとしての意味をもつものであり、現在までにさまざまな研究が行われ、多様な解釈がなされてきました。反戦のシンボルとして広く世界中に知られ、戦争の悲惨さや愚かさを、鑑賞する側の心に強く訴えかける作品です。                   

作品の基本情報

作家名:パブロ・ピカソ(Pablo Picasso;1881-1973)

作品名:ゲルニカ(Guernica)

制作年:1937年

使用された素材・画材:油彩・カンヴァス

サイズ:349.3cm×776.6cm

所蔵場所:ソフィア王妃芸術センター(スペイン、マドリード)

主題になった事件と当時の社会情勢                                                           

スペイン内戦の勃発

1936年2月、スペインの人民戦線派が総選挙で勝利すると、その年の7月、スペイン領モロッコでフランシスコ・フランコが率いる軍部がクーデターをおこしました。さらに軍部はドイツ、イタリアの援助を受け、スペイン本土に上陸します。対する人民戦線派には国際義勇軍が加わりました。ファシズムと人民戦線の戦いというスペイン内戦は、は国際的な対立へと発展し、首都マドリードで攻防戦を繰り広げることになりました。

マドリードでの戦いが長期戦となるなか、戦火はスペイン各地に広がっていきました。1937年、フランコ軍を援助していたイタリア軍が、マドリード北方の地、グアダラハラで人民戦線派に大敗を喫します。これをきっかけに、フランコ軍はスペイン北部への攻撃を強めていきました。

スペイン北部バスク地方の小都市、ゲルニカの町が爆撃されたのは、同年の4月26日のことでした。当時のイギリスの新聞「タイムズ」は、反乱軍の空襲部隊が、無防備な町と武器を持たない住民たちを組織的に爆撃し、壊滅していく様子を詳細に伝えています。ピカソが《ゲルニカ》を制作したのは、この爆撃からわずか6日後のことでした。

戦時下のヨーロッパ

世界大戦のはざまにあった1930年代、ヨーロッパは、ファシズムの脅威にさらされていました。ソヴィエト連邦政府(現在のロシア)ではスターリン政権が確立。ドイツではアドルフ・ヒトラーを党首とするナチス党が勢力を伸ばします。さらにイタリアではベニート・ムッソリーニが政権を握り、スペインではフランコ将軍の反乱によるスペイン内戦が勃発しました。

このような状況下にあった1937年に、フランスのパリで開催されたのがパリ万国博覧会でした。ファシズムが台頭したソヴィエト、ドイツ、イタリアの各国は、自国の威信をかけて堂々たるパヴィリオンを建設します。ピカソの《ゲルニカ》は、この万博のスペイン館の壁画として描かれた作品でした。

ピカソがスペイン政府からの依頼を受けた時点では、主題は決まっていなかったといわれています。ゲルニカ爆撃の翌月には45作の習作を終え、翌々月には壁画を完成させました。ヨーロッパの不安定な社会情勢のなかで蓄積されてきたピカソの感情がゲルニカの爆撃によって噴出し、作品として一気に結実したと考えられます。

ゲルニカの数奇な運命

壁画《ゲルニカ》の誕生

ピカソがグルニカを制作している写真
出典:pablopicasso.org

1937年の1月、フランスにアトリエ兼住まいを構えていたピカソのもとに、在仏スペイン大使館文化参事官マックス・アウブら数名が訪れました。目的はパリ万博のスペイン館に飾る壁画制作の依頼です。しかし、壁画ほどの巨大な作品を手がけたことがないこと、また、それが宣伝的な意味合いをもつことなどが、巨匠ピカソを躊躇させました。

しかし、ゲルニカの爆撃によって状況は急変します。爆撃の情報がパリにも届くと、ピカソは故郷スペインへの支援と軍部への抗議、そしてファシズムへの批判を込めて、壁画の制作をはじめました。

爆撃からわずか6日後の5月1日、グラン=ゾーギュスタン街のアトリエで、ピカソは習作に着手します。45枚におよぶ習作には日付とナンバーが振られました。カンヴァスの下絵の段階では、写真家であり愛人であったドラ・マールによって、制作の様子が度々撮影されています。そして6月6日頃、一部の関係者と親しい友人をアトリエに招き、完成した《ゲルニカ》が披露されたといわれています。

パリ万博での評価

イタリアのパヴィリオンに《ゲルニカ》が飾られるとその評価は二分します。一部の知識人には強く支持されたものの、爆撃されたゲルニカを直接的に表現していない、スペインの危機を伝えるものではない、などと批判する声も少なからずありました。また、批判しないまでも、《ゲルニカ》という作品が話題になることはなく、新聞で報道されることもありませんでした。

《ゲルニカ》の評判は分かれましたが、6ヶ月間にわたるパリ万博は大成功のうちに閉幕しました。スペイン館の展示作品は、海路バレンシアに送られましたが、反乱軍の攻撃への対応で混乱していたスペイン政府は、このとき貴重な作品を紛失してしまうという事態を招きます。ところが幸いにして《ゲルニカ》は、誕生の地であるピカソのアトリエへと送り返されていました。

《ゲルニカ》の救済

この頃アメリカでは、1936年に「アメリカ芸術家会議(AAC)」が共産党によって設立されていました。市民の自由が侵害されることを懸念し、ファシズムに組織として対抗するAACにとって、ファシズム下にあったスペインの救済は急務でした。

1937年、AACはスペイン共和国を支援するために「ゲルニカ展」を企画します。実現に向けて動き出したのは1939年。同年5月に《ゲルニカ》はアメリカに送られ、ニューヨークやロサンゼルス、サンフランシスコなど各地の展覧会で公開されました。

しかし、同年9月に第二次世界大戦が勃発します。そのため《ゲルニカ》は戦場に近いフランスには戻らず、そのままニューヨーク近代美術館にとどまることになりました。

スペインへの帰還

1950~60年代にかけて、《ゲルニカ》は、欧米各地の展覧会を巡りました。多くの賞賛を浴び、ピカソが20世紀を代表する作家という地位を確立していくなかで、フランコ政権から驚くべき声明が発表されました。それは《ゲルニカ》をスペインのマドリードに取り戻したいというものでした。敵対関係にあるピカソの、しかも内戦を主題とした作品を取り戻す目的は、政権の権威を高めることにあったといわれています。

《ゲルニカ》のスペインへの返還は、「スペインに人民の自由が確立したとき」であることがピカソの意志でした。それが実現するのは、フランコ政権が幕を閉じ、フアン・カルロスが国王に即位してから約5年後、1981年のことです。スペイン政府とニューヨーク近代美術館で激しい議論が交わされたのち、《ゲルニカ》はピカソ没後8年を経て、マドリードのプラド美術館へと帰還しました。

ピカソがゲルニカで伝えたかったこと

グルニツァの博物館の写真
出典:pablopicasso.org

《ゲルニカ》には、象徴的な動物や人物が描かれました。ピカソが作品を通して伝えたかったこととはなんだったのでしょうか。

ゲルニカに描かれているもの

普遍的なメッセージ                           

《ゲルニカ》は、ゲルニカが負った悲劇を直接的に写しとったものではありません。背景や図像が単純化され、シンボルとして描かれたこの作品は、現実に起こった爆撃の告発というよりも、「戦争」や「暴力」などの本質的で普遍的な問題を訴えるものといえます。

パリ万博での公開時は、作品の評価は芳しくありませんでしたが、それゆえに、多くの批評家や知識人たちの間で論争が繰り広げられました。特に牡牛と馬の象徴性については、国際的な議論へと発展しています。ピカソ本人は、描かれた動物たちにについて、象徴的な意味があるとだけ述べ、具体的なことは明言しないままこの世を去りました。主題や図像の象徴性について議論が深まるなかで、《ゲルニカ》は反戦と平和のシンボルとしての名声をいっそう高めていきます。

シンボルが示すもの

《ゲルニカ》に描かれた象徴的なモティーフのなかで、「牡牛」と「馬」は45枚におよぶ習作のほとんどに描かれています。特に牡牛は、もっとも多様な解釈がなされてきました。野蛮な力で自由を阻むものの象徴であると論じられる一方で、災厄を見届け、そこから身を遠ざけようとするピカソ自身であるとの見方もあります。また馬は、犠牲者である人民や、共和制のスペインの象徴であるとする一方で、フランコ政権の崩壊であるとの考えもあります。

また画面には、灯火を捧げる、死児を抱く、建物から落ちていくなど、さまざまな女性が描かれています。さらには死んだ兵士、太陽、鳥、といったモティーフがあり、それらすべてをながめてみても、画面には攻撃する側が描かれていません。被害者側の絶望や苦しみを描くことで、戦争の愚かさが普遍的に表現されています。

《ゲルニカ》に描かれたモティーフは、ピカソの個人的なイメージに基づくものですが、ヨーロッパ美術史において長い歴史をもつものでもありました。このことから、研究者の間では《ゲルニカ》を古典古代の正統な絵画として位置づけようとする試みもなされています。

ゲルニカが白黒で描かれた理由

《ゲルニカ》がピカソ作品のなかで異彩を放っている理由のひとつに、白黒で描かれていることがあげられます。厳密には、白と黒のほかに、紫や青みがかった灰色など、さまざまな色調が使われています。色彩心理学の観点からも、黒は死や悪、恐怖をイメージさせる色であり、本作を白黒で描いたことは、作品の表現効果をより高めることにつながりました。

ピカソがなぜ白と黒を選択したのか、ということについては、ゲルニカの爆撃を視覚情報として伝える媒体が、唯一新聞だけであったからという説があります。また、写真家であり愛人でもあったドラ・マールの「ピカソは写真スタジオや暗室の白と黒の世界に影響されていた」という証言も残されています。

ピカソは制作の過程を詳細に記録しました。習作にはナンバーと日付を記し、カンヴァスの制作段階では、完成時を含めてその過程を8枚の写真に収めました。この記録によると、ピカソは途中、色彩のある生地でコラージュを試みましたが、多くの習作と検討を重ね、白と黒、そして灰色による《ゲルニカ》の誕生に至りました。                             

ゲルニカが見れる場所

1981年から約10年の間、プラド美術館別館で保管されていた《ゲルニカ》は、1992年、レイナ・ソフィア美術館の開館にあわせて移送されました。

レイナ・ソフィア美術館

ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)
出典:マドリード観光

レイナ・ソフィア美術館は、18世紀に建てられた「サン・カルロス館」を改装した美術館です。この美術館には、廃館となったスペイン現代美術館のコレクションが収められることになっていました。《ゲルニカ》が移送されたことにより、多くの人々が訪れるようになり、コレクションの充実と、美術館のさらなる発展へとつながっています。

レイナ・ソフィア美術館は、世界各地で行われるピカソの回顧展に際し、これまで幾度となく貸出しを求められましたが、すべて断り続けてきました。作品は脆く、輸送時の振動に耐えられないというのが理由です。現在《ゲルニカ》は同美術館での厳重な管理のもとで、常設展示されています。                                          

群馬県立近代美術館

群馬県立近代美術館は、《ゲルニカ》とほぼ同じサイズのタピスリーを収蔵しています。1996年、当時の館長が、戦争をテーマとした展示ができると9600万円で購入したといわれています。

《ゲルニカ》のタピスリーは3作あり、本美術館のほか、ニューヨークの国際連合本部ビル国際連合安全保障理事会議場前と、フランスのウンターリンデン美術館で収蔵されています。ピカソの指示のもと、フランス・オービュッソンの染色師ピエール・シドラが糸を染め上げました。やや色彩のある灰茶色を主な色調としています。

大塚国際美術館

大塚国際美術館には、原寸大のレプリカが展示されています。陶器の大きな板に、原画に忠実な色彩と大きさで描いたもので、紙やカンヴァスに比べ、経年劣化しにくいのが特徴です。このような特殊技術で制作された陶器名画からは、実物に近い迫力と臨場感が得られます。

同美術館は、徳島県鳴門市で1998年に開館しました。日本最大級の展示スペースを誇り、世界の名画を再現した陶器名画を1000点あまり展示しています。             

まとめ:ピカソが描いた反戦へのメッセージ

《ゲルニカ》は反戦を訴えるシンボル的な作品であるとともに、鑑賞する側の心のありようによって、さまざまな捉え方を許容する作品です。時代背景やピカソの人生にも思いを馳せながら、じっくりと鑑賞してみてください。

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