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2024.08.26

喜多川歌麿とは?来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

喜多川歌麿とは?来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

「美人画の天才」と呼ばれた喜多川歌麿は、江戸時代後期を代表する浮世絵師です。色気あふれる江戸の女性たちを描いた作品で有名です。出版業で名を馳せた蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)とのコラボで一世を風靡し、江戸っ子の人気をさらいました。喜多川歌麿はエピソードや逸話も多く、独特の画風とともに世界中で人気があります。

喜多川派の祖として江戸の文化に大きな影響を与えた喜多川歌麿は、どんな人生を送ったのでしょうか。喜多川歌麿の画風や代表的な作品とともに、アートリエ編集部が詳しく解説します。

 喜多川歌麿とは

喜多川歌麿は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師です。狂歌絵本で絵師として認められた喜多川歌麿は、当時の出版業者であった蔦屋重三郎に見いだされ、美人画で江戸の町を席巻。江戸を代表する絵師としての地位を築きました。

寛政の時代、大首絵と呼ばれる胸像を美人画に取り入れ、みずみずしさがあふれる肉感的な表現で女性たちを描いた喜多川歌麿。自由を愛した人気絵師で、数々の女性たちとの浮名を流したと伝えられています。

絵本≪画本虫撰(えほんむしえらみ)≫、錦絵の≪婦人相学十躰≫、肉筆画では≪更衣美人≫などが喜多川歌麿の代表作。現在は世界各地の高名な美術館に、喜多川歌麿の作品が所蔵されています。

喜多川歌麿の来歴

歌麿の肖像画 栄之六十歳筆

江戸前のすっきりとした美人画で知られる喜多川歌麿。江戸っ子たちを魅了した作風はどんな人生から生まれたのでしょうか。

喜多川歌麿の人生を追っていきましょう。

幼少期時代

喜多川歌麿が生まれたのは宝暦3年(1753年)といわれていますが、諸説あります。出生地は不明。江戸や川越、京都での出生説があり、江戸生まれという説が有力です。

本名の姓は北川、幼名は市太郎。のちに勇助(あるいは勇記)と名乗り、画号は豊章と名乗ったあと、歌麿に落ち着いたようです。

出生地が不明のため、喜多川歌麿の幼少期時代は謎に包まれたままになっています。

絵師としての修行時代

言い伝えによれば、喜多川歌麿はかなり若い時代から在野の狩野派(町狩野)の鳥山石燕に師事していたと言われています。鳥山石燕は、浮世絵の技法や発展に重要な位置を占める画家で、若き歌麿に強い影響を与えたといえます。

1775年(安永4年)、20代前半の喜多川歌麿は処女作となる≪四十八手恋所訳≫の下巻表紙絵を描きました。錦絵の初作は≪芳沢いろはのすしや娘おさと≫。1777年8、中村座に出演した役者の絵でした。豊章と名乗っていたこの時代の喜多川歌麿作品には、勝川春章の影響が強く残っています。勝川春章は、葛飾北斎の師匠でもありました。

1781年(天明元年)に出版された黄表紙≪身貌大通神略縁起≫には、「画工歌麿」の名前が記されており、「歌麿」の名前は20代後半から使用していた形跡があります。

歌麿を名乗り始めた時代から、彼のキャリアも上り坂となっていきました。

 蔦屋重三郎との出会い

喜多川歌麿は、歌麿と改名したあたりから師匠たちの画風とは異なる独自の作風を確立していきます。

そんな喜多川歌麿を後援していたのが、江戸時代における随一の出版業者、蔦屋重三郎でした。蔦重と呼ばれた蔦屋重三郎は江戸吉原生まれ。田沼時代の開放的な江戸文化の躍進に一役買った出版業者です。

商才に恵まれ気骨ある人柄であった蔦屋重三郎は、文人墨客との親交も華やかでした。喜多川歌麿だけではなく、葛飾北斎や東洲斎写楽も蔦重と組んで黄表紙や洒落本を制作しています。

喜多川歌麿の雲母摺による大首絵は、蔦屋重三郎の助言や物心両面における援助があったからこそ可能になったと伝えられています。喜多川歌麿という画家の大成のために必須だったのが、蔦屋重三郎の存在でした。

江戸の文化界を席巻した蔦屋重三郎との出会いは、喜多川歌麿の評判を強固なものにしたのです。

狂歌絵本の挿絵で活躍

蔦屋重三郎と昵懇であった時代に喜多川歌麿が制作した《画本虫ゑらみ》《汐干のつと》≪百千鳥狂歌合≫などの作品は、豪華な多色摺りの狂歌絵本でした。

狂歌絵本を描いていたころの喜多川歌麿は、虫や貝、鳥を中心とした花鳥画の技法が高く評価されています。

喜多川歌麿といえば役者絵や美人画を思い出しますが、花鳥画における写実力も実感できる狂歌絵本シリーズ。虫や植物を描く繊細な表現や観察力は、美人画における個性の表現へとつながっていきました。

美人画への転向

「江戸の花 娘浄瑠璃」 歌麿画

1791年(寛政3年)、不惑を目前にした喜多川歌麿は胸部から上の部分を描く美人画、大首絵を制作。市井の話題をさらい、絵師としての隆盛を極めました。1792年(寛政4年)から1796年(寛政8年)ごろが、喜多川歌麿のキャリアの絶頂期とされています。

喜多川歌麿の美人画への転向は、後援者であった蔦屋重三郎の事情が関係していました。

この年、蔦屋重三郎が山東京伝と組んだ洒落本が罰則を受けてしまいます。幕府による風紀の粛清が、蔦屋重三郎の身に及んだのです。身上半減の刑まで課された蔦屋重三郎が起死回生の一手として企画したのが、歌麿による美人画の大首絵シリーズでした。

この目論見は大当たり、従来の美人画の概念を一変させるほど喜多川歌麿の浮世絵は江戸っ子の間で大人気に。蔦屋重兵衛と組んだ《婦女人相十品》《婦人相学拾躰》《歌撰恋之部》のほか、他の版元から出版した《当時全盛美人揃》《北国五色墨》などの作品も大いにもてはやされました。

絶頂期の喜多川歌麿には、蔦屋重兵衛のほかにも、40軒を超える版元からの依頼が引きも切らなかったと伝えられています。

幕府の規制と晩年

絶頂期にあった喜多川歌麿も、1797年(寛政9年)によき理解者であった蔦屋重三郎が亡くなると、作品の画品は次第に落ちていきます。多作や乱作が原因といわれていますが、喜多川歌麿自身もその後に来る退廃的な風潮を予期していたという説があります。当代随一の美人画家を自負していた喜多川歌麿は、美人画の変化も敏感に感じ取っていたのかもしれません。

1801年(享和元年)ごろから作品の質の低下は著しくなり、二代目歌麿の作品と区別がつかないほどにまでなりました。

そして1804年(文化元年)、≪太閤五妻洛東遊観之図≫の錦絵が幕府にとがめられ、入牢と手鎖の刑を受けました。この事件により浮世絵師としての生命を絶たれた喜多川歌麿は、文化3年(1806年)9月20日、失意の中で死去。54歳でした。

喜多川歌麿の門人には、二代目を名乗る歌麿や月麿、藤麿などがいましたが、いずれも師匠ほどの評判を得ることはありませんでした。

喜多川歌麿の画風やエピソード

式亭三馬によって「女絵を新たに工夫する」と激賞された喜多川歌麿。独特の画風やエピソードを知って、喜多川歌麿の作品をさらに楽しんでみてください。

表情豊かな美人画の画風

喜多川歌麿の美人絵が江戸っ子にもてはやされた理由のひとつに、女性たちの表情の豊かさが挙げられます。

喜多川歌麿の美人画は、従来の型にはまらない革新的なものでした。女性が見せる一瞬の表情、なにげない仕草を捉えて描くことで、感情まで感じさせる作品が生まれたのです。

喜多川歌麿の作品は実在のモデルを描いたものが多く、江戸の名だたる美女たちが描かれ、現在のブロマイドのような役割を果たしました。江戸一の美女といわれた難波屋おきたや高島屋おひさ、吉原大文字屋の多賀袖花魁は、喜多川歌麿のモデルとして名を残しています。

喜多川歌麿とこうした女性たちのかかわりは、小説などでも取り上げられています。

浮世絵における革新性

江戸の社会風俗をテーマに描かれた浮世絵は、日本美術史の転換点となりました。値段が安く良質な絵画を貴賤に関係なく楽しめるというコンセプトが、浮世絵の機軸となっています。

貴族や富裕層が楽しむ高雅さではなく、庶民に人気のあった役者や遊女がテーマとなった浮世絵。江戸の文化の一翼を担う浮世絵によって、喜多川歌麿は画家として大成したと言っても過言ではないでしょう。

幕府の規制に対応した判じ絵

喜多川歌麿や蔦屋重三郎が活躍した時代、彼らの前に立ちはだかったのが幕府による「寛政の改革」でした。質実剛健を目指した松平定信の政策は、女性の肖像画や風俗画だけではなく、艶本も手掛けていた喜多川歌麿には脅威となりました。

風紀の刷新をはかった寛政の改革では、絵画に遊女以外の名前を書くことさえ禁止されてしまいます。

喜多川歌麿はこれに対し、判じ絵という手段を用いました。判じ絵とは、発音に通じる文字や絵を組み合わせていくパズルのようなものです。作品の中にヒントとなる絵を紛れ込ませて、モデルとなった女性の名前が浮き上がるという判じ絵の手法。江戸らしい洒脱さは、喜多川歌麿の名をさらに高めました。

同世代の絵師と一線を画す独自のスタイル

美人画を描き始めた当初の喜多川歌麿は、鳥居清長を慕っていたと伝えられています。天明年間の闊達な世相や粋好みが、鳥居清長の特徴。喜多川歌麿はその影響を受けながら、独特の技法を磨いていきます。

30代に入ったころから、喜多川歌麿は清長の模倣から脱却。師匠や同世代の絵師とは一線を画すスタイルを確立しました。そのスタイルとは、人物の全身図ではなく上半身だけを描く大首絵の発明でした。喜多川歌麿の人気を支えた大首絵は、団扇絵にヒントを得たといわれています。

大首絵によって、喜多川歌麿は女性や役者の微妙な表情を描くことに成功しました。また雲母の粉を用いた「雲母摺 (きらずり) 」の技法で、女性の柔肌をよりリアルに表現。朱線を用いたり輪郭をぼかしたり、独自の表現方法を会得しました。

寛政の改革によって色摺りの度数が制限されたことを逆手に取り、明快な美的表現を実現させたのも成功の一因です。各階層に属する女性たちの描写には、心理的な深みも感じられます。

喜多川歌麿の代表作

江戸の雰囲気や情緒を伝えてくれる喜多川歌麿の作品。とくに有名な代表作を紹介します。

婦女人相十品

婦女人相十品 文読美人

喜多川歌麿のキャリアが最盛期へと上り詰めようとした時期に制作された≪婦女人相十品≫。大判の錦絵10枚で一組になった大作です。それまでの全身図から脱却し、女性の上半身をクローズアップしたことで、より繊細な表現が可能になりました。

眉をそり落とした人妻の色気や仕草、若い娘の生き生きとした動きなどがとてもリアルです。

雲母摺 (きらずり)を駆使した女性の柔肌の美しさ、動作のみやびさ、江戸好みの衣装の数々など、円熟期へ向かう喜多川歌麿の技法を堪能できます。

婦人相学十躰

婦人相学十躰

蔦屋重三郎とのコラボで大当たりした作品のひとつ≪婦人相学十躰≫。観相学をベースに、人相から性格やタイプを描き分けたシリーズです。江戸らしいユーモアも感じるこのシリーズは、喜多川歌麿の傑作と呼ばれています。

肩に手ぬぐいをかけた湯上りの女性や、胸元がはだけてふっくらとした頬を持つ女性など、しっとりとした風情が感じられます。

「相見(そうみ)歌麿」と自称したほど女性たちの表情やキャラクターに精通していた喜多川歌麿。遊びの要素を内包した江戸文化のスピリットが光ります。

当時全盛美人揃 

當時全盛美人揃・瀧川

1795年(寛政7年)ごろ、実在する全盛の遊女や茶屋娘をモデルにしたシリーズ。類似型の江戸美人ながら、個々の特徴が微妙に描き分けられており、人気を博しました。

単なる接近描写ではなく、下から見上げるような構図によって小顔が目立つ美女やしなやかな上半身のラインが印象的。うりざね顔の女性たちは、典型的な歌麿型美人といわれています。

全盛の遊女たちの名前が含まれた狂歌が絵の中に記されるなど、遊び心も満載のシリーズです。

寛政三美人

寛政三美人

喜多川歌麿が活躍した寛政年間に描かれた≪寛政三美人≫。水茶屋で働く女性や人気を誇った芸者など、市井の女性3人が描かれています。

歌麿によって描かれた女性たちは大変な人気者となり、彼女たちが働く水茶屋もほくほくだったようです。

桐紋、柏紋、桜草紋で3人の女性を描き分けたこの作品、三角形の構図も斬新です。

画本虫撰

江戸時代に流行した狂歌に挿絵をつけた本を、狂歌絵本といいます。

美人画で名をはせた喜多川歌麿はキャリアの初期、狂歌絵本の挿絵で画力を発揮していました。とくに、虫をテーマにした狂歌本≪画本虫撰≫で高い写実力を見せています。

虫や植物の細部まで丁寧に描く喜多川歌麿の筆力は、この後に女性たちの肖像画で生かされることになります。

ビードロを吹く女

≪婦女人相十躰≫の中でもとくに有名な1枚≪ビードロを吹く女≫。「ビードロ」はガラス製のおもちゃの一種で、吹くとポピンポピンという音がすることから≪ボッピンを吹く娘≫とも呼ばれています。

若さとしなやかさが匂い立つようなこの作品。赤い市松模様の着物に身を包んだおきゃんな江戸の女性は、時代を超えたみずみずしさをたたえています。

喜多川歌麿を収蔵する主な美術館

喜多川歌麿の作品や逸話を知ったら、ぜひ彼の作品を鑑賞してみましょう。喜多川歌麿の作品を所蔵する美術館を紹介します。

東京国立博物館(東京)

東京国立博物館 - Tokyo National Museum
出典:東京国立博物館

日本で最初に設立された東京国立博物館では、数多くの喜多川歌麿の作品を鑑賞できます。

≪婦人相学躰≫の1枚≪浮気之相≫や、≪当時全盛美人揃≫の≪瀧川≫など、喜多川歌麿が描いた江戸の美人たちが一堂に会しています。

≪寛政三美人≫に登場した「おきた」ひとりを描いた美人画もあり、喜多川歌麿の作風の変遷を追いながら鑑賞できるのも東京国立博物館の魅力です。

ボストン美術館(アメリカ)

世界でも有数の浮世絵コレクションを誇るアメリカのボストン美術館。5万点に上る版画を所有し、浮世絵が大流行した寛政年間の作品もたくさん見ることができます。

喜多川歌麿の作品は、江戸っ子に親しまれた≪お染 久松≫や、粋な吉原の風俗が魅力的な≪吉原仁和嘉 荻江松蔵 峯 いと≫など。

喜多川歌麿が影響を受けた鳥居清長や、役者絵で有名な写楽の作品と比較しながら鑑賞してみましょう。

大英博物館(イギリス)

東洋美術のコレクションが充実している大英博物館は、寛政時代の浮世絵も多数所有。数々の美人画だけではなく、喜多川歌麿の写実力が際立つ≪画本虫撰≫も揃っています。

近松門左衛門の名作『冥土の飛脚』のワンシーンを描いた浮世絵や、『八百屋お七』を描いた作品など、芝居をテーマにした作品が多い大英博物館。喜多川歌麿の作品を中心にして江戸文化の華やぎを実感できます。

まとめ:江戸美人をクローズアップして名を馳せた喜多川歌麿

江戸文化の円熟期、寛政年間に活躍した喜多川歌麿は、独特の技法で女性たちを描いた浮世絵師です。人物画だけではなく花鳥画にも優れ、狂歌絵本から大首絵にいたるまで数多くの作品を残しました。出版業を営む蔦屋重兵衛と組んだ作品を中心に、喜多川歌麿の作品は江戸っ子の人気をさらいました。

日本史の教科書などでもおなじみの歌麿による美人は、構図や画材に工夫を凝らし、他の画家たちとは一線を隠した魅力があります。

幕府からも目を付けられるほどの人気を誇った喜多川歌麿の作品、機会があったらぜひ鑑賞してみてください。

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