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2024.08.14

円山応挙とは?来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

円山応挙とは?来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

円山応挙(まるやま おうきょ)は江戸時代中期から後期に活躍した絵師で、写生を重視した画風で京都画壇の中心的な存在となり、特に町人階級に絶大な人気を博しました。近現代にまでその系統が続く「円山派」の祖として、生前は多くの弟子を抱えました。日本美術史において重要な地位を占める存在ですが、名前は知っていても詳しいことは分からないという方も多いのではないでしょうか。この記事では円山応挙の人物と作品についてアートリエ編集部が詳しく解説します。

円山応挙とは

貧しい農村に生まれた円山応挙は幼い頃から絵師を目指し、類まれな才能とパトロンの支えに恵まれて実力を磨き、その作品は30代にして大人気となり一躍京都の有名人となりました。ここではそんな応挙の来歴を詳しく見ていきましょう。

円山応挙の来歴

円山応挙の肖像

初期

円山応挙は現在の京都府亀岡市にあたる丹波国穴太村の貧しい農家に生まれました。幼少期のことは詳しくは分かっていませんが、10代の頃には京の都に出て画技の研鑽に励みながら、びいどろ道具屋人形を扱う玩具店である尾張屋で働きました。一時は狩野派の画家である石田幽汀の元で絵を学びましたが、ほとんど独学でさまざまな流派の画風から学び、写生を重視した独自のスタイルを形成していきました。

画風確立期

応挙は20代の頃、生活のために「眼鏡絵」の制作に携わっていました。眼鏡絵とは浮世絵の一種で、鏡に写した絵をレンズを通して覗くことで立体的に見える絵を楽しむものです。彼は玩具店で目にしたオランダ渡来の眼鏡絵を見て影響を受け、京都の風景を描いた眼鏡絵を多数制作しました。眼鏡絵は西洋絵画に見られる遠近法が用いられているため、応挙もその奥行き表現に関心を惹かれて空間表現の仕方を学びますが、単純な透視遠近法をあえて避けるなどの試行錯誤を経て独自の画風を築きました。

1766年、34歳の時に「応挙」を名乗り始め、この頃から円満院門主である祐常との知遇を得て、支援を受けるようになります。祐常は二条家から円満院に出家し後に大僧正に任じられた人物で、当代きっての知識人でした。祐常が日常の雑事を記録した「萬誌」には応挙の絵画技術に関することや制作に対する考え方が記録されています。応挙は祐常の指導と庇護を受けながら森羅万象を写生していきました。

黄金期

祐常が1773年に入滅したのち、応挙の最大の庇護者となったのが三井家でした。三井家は呉服商・両替商を営む裕福な町人階級で、三井越後屋として江戸時代の経済史に大きな足跡を残しました。応挙との関係が発生した際の詳細は分かっていませんが、応挙は三井高美と最も親しく関わり、「夕涼み図」において彼の姿を描いています。

この頃には応挙の作品は三井家だけでなく京都の上層町人に広く受け入れられるようになっていました。六曲一双の大画面の屏風絵の注文を受けるほど評判が高まり、京都の文化人名録である「平安人物志」の1775年版に堂々の一番目に選出されたほどでした。

円熟期

1780年代に入ると応挙は多くの門弟を抱えた工房を形成し、次々と障壁画制作を手がけていきます。応挙の弟子のうち主だった十人の絵師を応門十哲と呼びましたが、中でもユニークな画家としては長沢芦雪が挙げられます。地方出身の一画家であった応挙は「円山派」として狩野派に対抗する一流派を形成するに至りました。円山派の工房は兵庫・大乗寺の一連の作品においてその総力を結集しました。1780年代は障壁画だけでなく屏風や掛幅においても多くの傑作を残し、代表作である「雪松図屏風」が誕生したのもこの頃です。

晩期

1788年の天明の大火は御所や二条城、幕府の役所、町人の居住区域などを含む広範囲が焼失する大災害となりましたが、その2年後の1790年には早くも寛政度御所造営が竣工し、応挙は一門を率いてその障壁画制作に携わりました。土佐派や狩野派など伝統的な画派の絵師たちに並んで手がけた御所造営の仕事は、絵師としての栄光の舞台でしたが、障壁画は1854年の大火で焼失してしまい、残念ながら現存していません。

応挙は61歳に病を患い、眼病により制作にも支障をきたすようになります。しかし弟子たちの支えに恵まれ、大火で中断していた金刀比羅宮と大乗寺の障壁画を完成させ、1795年に息を引き取りました。

円山応挙の画風

円山応挙_近世名家肖像

日本写生画の祖

応挙は近世の日本画家の中でも写生を重視した画風で際立った才能を見せています。応挙の前半生の重要なパトロンであった祐常門主が記した「萬誌」の中には、応挙は常に写生帖を持ち歩き、暇さえあればスケッチをしていたという記述があります。「写生帖」や「写生図鑑」の中ではさまざまな動物や昆虫、草花などがあらゆる角度から仔細に描写されています。その質感までもがありありと感じられる描写力は、同時代の画家の中でも際立って優れていると言えるでしょう。

装飾性豊かな画面

卓越した写生の技術を基本としつつも、応挙の作品はしばしば豊かな装飾性にあふれ、親しみやすい平明さも備えています。応挙の黄金期の傑作の一つである「藤花図屏風」では、花の部分は写実的に描かれている一方で藤の幹や枝は付立ての技法で大胆に描写され、全体として見れば琳派を思わせる装飾性が際立っています。このような応挙作品の親しみやすさと独特の華やかさは、当時の裕福な町人たちに好まれて大いに人気を博しました。

円山応挙のエピソード

足のない幽霊の元祖

応挙は足のない幽霊のイメージを作った元祖として一般に知られていますが、実際には17世紀末の浄瑠璃本の挿絵にすでに見られています。しかし現代でも想起される女性の幽霊のイメージを作ったのはやはり応挙と言えるでしょう。「幽霊図」はその源泉となった作品で、反魂香を意識して描かれたと言われています。反魂香とは焚くと煙の中に亡き人の姿が現れる香のことです。本作においては女性の腰から下は描かれておらず、悲しみを帯びた表情が特徴的です。

応挙が描く動物

応挙が描く動物

応挙の作品には鶴、孔雀、虎、兎などの動物が多数登場しますが、中でも子どもの動物が遊んでいる様子を描くのを得意としていました。コロコロとした愛らしい子犬たちが戯れる様子を描いた「朝顔句子図杉戸絵」はその代表的な作例の一つです。応挙の子犬は生前も人気があったようで、多くの作例が現存しています。

応挙とパトロン

応挙の画業を語る上で外せないのがパトロンの存在です。彼の前半生に最も大きな影響を与えたのが円満院門主の祐常です。応挙はしばしば琵琶湖に面する円満院を訪れ、祐常から絵の注文を受けたり、また祐常に画技の指導を行ったりしていました。また画業の黄金期には三井家の庇護を受け制作に励んだことで、その名を京都中に知らしめることとなりました。

応挙の弟子たち

狩野派に並ぶ一大画派を築いた応挙の門下には多数の個性あふれる絵師がいました。応挙の右腕と言われたのが源琦で、師に画風を最も忠実に継承しました。

源琦とともに二哲と評された長沢芦雪も応挙の弟子でしたが、師とは対照的に大胆さや斬新さにあふれる画風で奇想の絵師と呼ばれました。

円山応挙の代表作

雪松図屏風

雪松図屏風

応挙の代表作として知られ、現在は国宝として三井記念美術館に所蔵されている「雪松図屏風」は、1786年ごろに描かれた六曲一双の屏風です。右隻には力強くまっすぐ伸びる松が描かれ、左隻には曲線的な若木が二本描かれています。墨と金、紙の白色のみの色彩で表現されていますが、構図のダイナミックさ、絶妙な余白使い、雪の白と墨の美しいコントラストによって情感豊かな風景に仕上がっています。

雪の部分は紙の白が生かされているのみで、応挙は雪を描くための筆は一筆も入れていません。松の樹皮は幾重にも筆を重ねて質感が出され、枝葉は墨のグラデーションがうまく利用されています。また金箔を粉状にした砂子により雪に光が反射した様子を表現するなど、応挙は本作において大気や光までも表現しています。

牡丹孔雀図

牡丹孔雀図

孔雀は応挙が得意としたモチーフで、多くの作例が見られます。重要文化財に指定されている本作は、祐常の依頼によって1771年に描かれています。孔雀は羽の一枚一枚が繊細な筆致で描かれ、その質感まで伝わってきます。牡丹と孔雀の組み合わせは吉祥図の伝統とされていることから、本作もめでたいイメージが強調されています。孔雀が乗る石は太湖石と呼ばれ、日本画においては中国憧憬の表彰としてしばしば登場します。

写生図鑑

応挙は自然観察を重視し、写生的な表現によって人気となった絵師で、生前に数々の写生図を残しています。2巻にわたる「写生図鑑」はそのうちの一つで、重要文化財に指定されています。本図鑑においては、兎や鼠などの小動物や草花が実物を元に描かれています。動物は様々な角度から描かれ、色彩も丁寧に施されています。本図鑑は応挙の写生図の中でも一際生彩に富み、応挙の優れた観察力と描写力が見て取れます。

雲龍図屏風

雲龍図屏風
雲龍図屏風

1773年に描かれた「雲龍図屏風」は六曲一双の大画面の屏風で、重要文化財に指定されています。架空の生物である龍がまるで実物を写生したように生き生きと描かれています。雲をまといながら太い胴体をうねらせている龍は躍動感にあふれ、奥行きのあるダイナミックな表現も特徴的です。右隻と左隻それぞれに描かれた龍は、反時計回りの円環を形作っており、空間を大きく見せる工夫がなされています。

遊虎図 襖

遊虎図 襖

「遊虎図 襖」は金刀比羅宮表書院の「虎の間」を飾る全16面の襖です。7頭の虎と1頭の豹が寛いでいたり、水を飲んだり、戯れたりする様子が描かれています。動物のなめらかな動きを写生的にとらえ、全面にせり出してくるようなダイナミックな表現が見られます。応挙没後の1837年に画面全体に金砂子が撒かれてしまったことで、本来の奥行き表現が失われてしまいました。

円山応挙作品を所蔵する主な日本の美術館・博物館・寺社

三井記念美術館

出典:三井記念美術館公式サイト

東京・日本橋にある三井記念美術館は、約4000点の美術工芸品と切手類を約13万点所蔵し、そのうち国宝を6点、重要文化財を75点、重要美術品を4点所蔵しています。中でも重要なコレクションとして応挙の「雪松図屏風」が挙げられます。三井家は応挙の重要なパトロンであったこともあり、本作は同館の最も重要な所蔵品として紹介されています。応挙の作品のほか、円山派の作品を数多く所蔵しています。「雪松図屏風」は年末に公開されることが恒例となっているため、応挙の作品の中でも比較的アクセスしやすくなっています。

相国寺承天閣美術館

臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、禅僧や如拙や雪舟などの日本水墨画の規範を築いた画僧を多く輩出してきた歴史を持ちます。相国寺承天閣美術館は中近世の墨蹟、絵画、茶道具などの文化財のほか、伊藤若冲、長谷川等伯、円山応挙などの作品も多数所蔵しています。重要文化財である応挙の「牡丹孔雀図」は同館に所蔵されています。

金刀比羅宮

讃岐のこんぴらさんの愛称で親しまれている金刀比羅宮は、大物主神を主たる祭神とする神社です。応挙はこの神社の表書院で「鶴の間」「虎の間」「七賢の間」「上段の間・山水の間」の四室の障壁画に揮毫しました。これらの制作にあたっては越後屋投手の三井高清が資金を援助しました。

大乗寺

「応挙寺」の愛称で親しまれる大乗寺には、応挙とその弟子たち12名の筆による165点の障壁画があり、その全てが重要文化財に指定されています。仏間の十一面観世音菩薩を中心として襖絵が13の部屋に配され、荘厳な仏の世界を表現しています。ここでは応挙の画家としての実力だけでなく、空間プロデュースの力量も感じることができます。

東京国立博物館

東京・上野の東京国立博物館には応挙と名乗る前に描いた虎の作品や人物画、「雪松図屏風」の派生作とも言える「雪中老松図」など、多数の応挙作品を所蔵しています。また「応挙館」と呼ばれる木造平屋建ての建物では、床張付などに応挙のものと伝えられる墨画が描かれています。

まとめ

類まれな写生の技術を基本としながらも、多くの人に親しまれる装飾性豊かな作品で一世を風靡した応挙の作品は、現代の私たちの心もとらえ続けるほど魅力的です。特に障壁画などは絵としてだけでなく空間演出としての魅力もあるため、ぜひ現地に足を運んでそのダイナミックさを体感してみてください。

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