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2024.08.09

竹内栖鳳とは?「西の栖鳳」の来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

竹内栖鳳とは?「西の栖鳳」の来歴や画風、エピソード、代表作について詳しく解説します!

近代日本画の先駆者とされる竹内栖鳳。伝統を大事にしながらも、それまでになかった表現を取り入れて日本画壇に新しい風を吹き込みました。

この記事では、竹内栖鳳の来歴や画風、エピソードをアートリエ編集部が解説します。竹内栖鳳についてもっと詳しくなりたい方は、ぜひ最後までご覧ください。

竹内栖鳳とは

竹内栖鳳(たけうち せいほう 1864-1942)は、明治から昭和までと長きにわたり主に京都画壇で活躍した日本画家です。早くから才能を見いだされ、若くして画壇で注目される存在となりました。

様々な流派や古画、西洋画などを研究し、それらを上手く調和させた独自の画風を確立しました。写生を重視したリアルな動物画でも有名です。また、後に続く多くの優れた弟子を輩出したことでも知られています。

竹内栖鳳の来歴

竹内栖鳳

ここでは竹内栖鳳の来歴を順を追って説明します。

幼少期

生まれから画家としての一歩

竹内栖鳳(本名:竹内恒吉)は、1864年(元治元年)11月22日、京都府京都市中京区の川魚料理屋「亀政」を営む家の長男として生まれました。十歳年上の姉・琴と2人姉弟でした。栖鳳が生まれた4年後の1868年(明治元年)には、明治政府が樹立しています。

亀政の常連には友禅画家の北村甚七などがおり、店で退屈する姉弟の目の前で絵を描いて楽しませたこともあったようです。幼いころから絵に触れる機会があったことなどから、しだいに栖鳳は画家を目指すようになりました。

1877年(明治10年)、13歳で近所に住んでいた四条派の画家・土田英林(つちだ えいりん)に絵を習いはじめました。英林は精密な写生画を描いたことで知られています。栖鳳もこの頃『写生帖』に、鳥類や猿、虫類などを緻密に描いています。

幸野楳嶺の門下へ

やがて栖鳳の才能を見抜いた英林の勧めもあって、1881年(明治14年)に17歳で四条派の塩川文麟と円山派の中島来章に師事した幸野楳嶺(こうの ばいれい)の画塾へ入門しました。

楳嶺から「鳳は梧桐に棲み竹実を喰う」という古語に由来する「棲鳳(せいほう)」の画号を授けられました。楳嶺は熱心な指導者で、栖鳳が入門した時には数十人の弟子がいたといいます。また、しっかりと基礎を身につけるまで、自由に絵を制作することはできませんでした。

1年で頭角を表す

栖鳳は入門の翌年には工芸長となり、独自に他の流派や古画、西洋画の画法を研究するようになりました。栖鳳を含めた都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の4人は、「楳嶺四天王」と呼ばれるほど特に優れた弟子と言われており、その中でも栖鳳は筆頭とみなされたのです。

楳嶺は自身が創立に関わった京都府画学校(現・京都市立芸術大学)に栖鳳を入学させたり、楳嶺のパトロンを伴った旅に同行させたりするなど、栖鳳に対する期待の高さがうかがえます。

1886年(明治19年)に、アメリカの東洋美術史家で、哲学者のアーネスト・フェノロサの日本美術に関する講演会が開催されました。講演を聞いた栖鳳は、自身の流派だけを大事にして、衰退している京都画壇に危機感を持ったといいます。

画家としての独立

Elephants (1904)

独立から新しい作品

1887年(明治20年)、23歳で西陣織物業を営む高山家の長女・奈美と結婚し、画家として独立して実家近くで自身の画塾を開きました。また、この年に京都府画学校を修了しています。

2年後の1889年(明治22年)から京都府画学校に勤め始め、同時にデパートの高島屋で輸出用染織品の下絵制作のため、画工として勤務するようになりました。高島屋では、世界で通用する製品を作るために外国の雑誌や画集、写真集などからもヒントを得て研究をし、同僚の画家からも刺激を受ける環境だったといいます。

1892年(明治25年)の京都市美術工芸展に出品した『猫児負喧』は、複数の流派の画法を取り入れた作品でした。伝統的な画法を守っている画家たちは栖鳳のこの作品を、いろいろな動物を寄せ集めた妖怪に例えて「鵺派(ぬえは)」と批判しました。しかし、当時の日本画壇では革新的な作品だったのです。

京都画壇での地位向上

1895年(明治28年)に楳嶺が死去し、同時期に京都画壇の重鎮たちが相次いで亡くなると、栖鳳は京都市美術工芸学校(京都府画学校から改称)の教諭となります。1998年(明治31年)の第四回新古美術品展では、鑑査委員に任命されるなど、しだいに京都画壇の中心的存在となっていきました。

また、栖鳳の画塾は「竹杖会」と称するようになり、上村松園や西山翠嶂、西村五雲など、次世代を担う弟子たちが集まっていました。

ヨーロッパ視察

1900年(明治33年)の36歳になる年に、京都市と農商務省の依頼を受けてパリ万博博覧会の視察と、ヨーロッパの絵画事情を探るための旅に出ました。約7ヵ月をかけてヨーロッパを巡り、多くの西洋美術に触れた栖鳳は、特にウィリアム・ターナーやカミーユ・コローの作品に感銘を受けたといいます。

翌年に帰国すると、画号をそれまでの棲鳳から、西洋の「西」に由来する栖鳳に改めました。また、『獅子(金獅子)』や『スエズ景色』、『羅馬之図(ろうまのず)』などを次々と発表しています。これらの絵では、ヨーロッパの動物園で出会ったライオンや象などの当時の日本では珍しかった動物や現地の風景を、西洋画と日本画の画法を上手く組み合わせて描いています。

京都画壇の筆頭としての地位の確立

1907年(明治40年)から行われた「文部省美術展覧会(文展)」では、開催当初から審査員を努め、自身も『雨霽』や『飼われたる猿と兎』、『絵になる最初』などの秀作を出品しました。文展の後を受けて1919年(大正8年)から開催された「帝国美術院展覧会(帝展)」でも審査員となっています。

京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)が開設されると教授に就任し、1913年(大正2年)には、優れた美術家や工芸家に贈られる「帝室技芸員」に推薦されました。さらに1919年(大正8年)には国の美術の機関である、帝国美術院(現・日本芸術院)の会員となっています。

また、1924年(大正13年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章を、1925年には勲五等に叙し瑞宝章を受章。1931年(昭和6年)にハンガリー最高美術賞、1933年(昭和8年)にドイツのゲーテ名誉賞と、国内外から勲章や賞を贈られるなど、日本を代表する画家となりました。

晩年

画家として順風満帆な生活を送っていた栖鳳でしたが、1929年(昭和4年)、65歳で肺炎を患います。1931年(昭和6年)に肺炎が再発し、静養のために神奈川県・湯河原町を訪れました。湯河原を気に入った栖鳳は、天野屋旅館をたびたび訪れるようになり、京都と湯河原を行き来するようになりました。

自身の作品の制作に集中するためか、1933年(昭和8年)には竹杖会を解散しています。天野屋の敷地内にアトリエと「山桃庵」を建設し、同時期に『東本願寺大寝殿障壁画』を制作しました。

1937年(昭和12年)には第1回文化勲章を受章するなど、晩年まで精力的に活動していましたが、1942年(昭和17年)8月23日、肺炎のため77歳で死去しました。

竹内栖鳳の画風やエピソード

ここからは竹内栖鳳の画風やエピソードを、6つの視点からお伝えします。

伝統的な日本画と西洋画の融合

円山派や四条派の教えを受けた栖鳳ですが、自身でも狩野派や大和絵、西洋絵画や中国の古典絵画の研究を行っていました。特に1900年から翌年にかけてヨーロッパの美術を見て回った際に大きな衝撃を受け、帰国後に西洋にちなんだ画号に改めたほどでした。

やがて伝統的な日本画と、西洋の写実法や遠近法などを取り入れた独自の画風を確立し、停滞していた近代日本画に新しい息吹を吹き込んだのです。様々な画法を取り入れながらも、全体が調和した絵を描く力量は高く評価されています。

動物画の精緻さと表現力

栖鳳作品の特徴のひとつに、鳥や猫、昆虫などを精緻に描いた動物画があります。師の教えを受けて写生を大事にした栖鳳は、兎や猿、家鴨などを実際に自宅で飼ってまで写生をしたといいます。「写生帖」にはキジの部位ごとの羽を貼りつけた写生が残っているほど、こだわって描いていました。

また、「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と語ったとされるほど精密で、動物の体温や匂いをリアルに感じられると錯覚するほどの表現力を持っていました。

繊細な描写と色彩感覚

栖鳳の優れた描写力は、動物画では猫や犬などのフワフワとした思わず触ってみたくなるような写実的な毛並みを描き、樹々は細かい葉の特徴を捉えるなど、繊細な筆致で描いています。

色彩感覚にも優れており、『アレタ立に』では深い青の着物や金と赤の扇など、鮮やかで華やかな色彩を用い、対照的に『艶陽』ではエンドウ豆の葉や花とヘビを穏やかな晩春を感じる色彩で描かれています。ヨーロッパでは印象派の絵画の光の表現に感銘を受け、自身の作品にも取り入れました。

写生

栖鳳が最初に指導を受けた土田英林と、続いて師事した幸野楳嶺は、どちらも写生を重要視した画家でした。特に楳嶺は「画家にとっての写生帖は武士の帯刀である」と説いたと言われています。

2人の教えを受けた栖鳳は、自分の目で実物を見て描くことを重視しました。晩年まで写生の重要さを説き、質感や躍動感が伝わってくるようなリアルな絵を描いています。

西の栖鳳、東の大観

栖鳳と同じく、明治から大正、昭和の時代を生き、ほぼ同時代に活躍した日本画家に横山大観がいます。京都を中心に活動した栖鳳に対して、大観は東京を活動の拠点としたことから「西の栖鳳、東の大観」と称されました。

また、栖鳳は文展や帝展など主に官展に参加していましたが、大観は民間の美術研究団体を立ち上げるなど対照的な活動をしています。しかし、両名は共に第一回文化勲章を受章するなど、近代日本画壇には欠かせない存在です。

「竹杖会」を主宰

楳嶺の画塾から独立した栖鳳は画塾を開き、後進の育成にも力を入れています。1897年(明治30年)頃から「竹杖会」と称するようになり、明治中期以降の京都画壇では、もっとも大きな画塾でした。

門下生には、美人画で知られる上村松園や、動物画では栖鳳を凌ぐと言われた西村五雲、「新南画」を確立した橋本関雪などそうそうたるメンバーがいました。

竹内栖鳳の代表作

ここでは竹内栖鳳の代表作を3点紹介します。

班猫(はんびょう)

班猫(はんびょう)

1924年(大正13年)に制作された作品で、東京都渋谷区広尾にある山種美術館に収蔵されています。国の重要文化財に指定されており、栖鳳のもっとも有名な作品のひとつです。キジ白の猫が毛づくろいをしながら、こちらに視線を向けている様子を描いています。

写実的なフワフワとした柔らかそうな毛並みと、ブルーグリーンの瞳が印象的です。モデルの猫は、旅行で静岡県の沼津を訪れた際に、八百屋の店先でくつろぐ姿を見て、中国・南宋の徽宗皇帝の描いた猫の絵が頭に浮かび、栖鳳はこの猫をどうしても描きたくなったそうです。後日、猫を譲られて自宅で描いたのがこの作品だとされています。

雨霽(あまばれ・うせい)

雨霽

出典:文化遺産オンライン

1907年(明治40年)制作された作品で、東京都千代田区北の丸公園内にある東京国立近代美術館に収蔵されています。6曲1双の屏風絵で、左隻に樹の上で毛づくろいをするワシの群れと、右隻に飛び立っていく一匹のワシが墨一色で描かれています。

雨霽(あまばれ)とは雨上がりのことで、樹々も濡れたような全体的にしっとりとした雰囲気が漂っています。同じタイトルで、足立美術館収蔵のトビとセキレイが描かれた屏風絵や、山種美術館のシラサギが描かれた作品もあります。

大獅子図

大獅子図

出典:ネット美術館

1902年(明治35年)に制作された作品で、大阪市都島区網島町にある藤田美術館に収蔵されています。四曲一隻の屏風絵で、横たわった雄ライオンが鋭い牙を見せている様子を描いています。

栖鳳は1900年のヨーロッパ訪問の際に、ロンドンやベルギーの動物園を訪れライオンを写生したそうです。それまでの日本画で描かれてきた「唐獅子」とは異なる写実的なライオンの姿が描かれており、当時の日本の人々には衝撃的だったといいます。

竹内栖鳳を収蔵する主な日本の美術館

東京国立近代美術館

出典:Wikimedia commons

ここからは、竹内栖鳳の作品を収蔵する国内の美術館を紹介します。

東京国立近代美術館

東京都千代田区北の丸公園内にある東京国立近代美術館は、明治時代後半から現代までの絵画や彫刻、素描、版画、写真など、13,000点以上を収集しています。日本の作品以外にも、海外作品にも力を入れています。

収蔵する栖鳳作品は、『雨霽』や『日稼』、『海幸』など8点です。(2024年7月現在)

京都国立近代美術館(京都府)

京都市左京区の岡崎公園内にある京都国立近代美術館は、近代から現代までの絵画や彫刻、版画、工芸、デザイン、建築、写真、映像と幅広い作品を取り扱っています。コレクション展では、毎回すべての作品を入れ替え、企画展と連動した展示なども行っています。

収蔵する栖鳳作品は、『春雪』や『漁村松濤』、『若き家鴨』など23点です。(2024年7月現在)

京都市美術館(京都府)

京都市左京区の岡崎公園内にある京都市美術館は、京セラ株式会社と50年間のネーミングライツ契約を締結しており、通称「京都市京セラ美術館」としています。近現代の京都のアートを中心に、日本画や西洋画、彫刻、工芸、書、版画など、2024年7月現在、約4400点を収蔵。

栖鳳の作品は、重要文化財の『絵になる最初』や、風景画の『潮沙永日』、動物画 『清閑』『驟雨一過』など、様々な作品があります。

山種美術館(東京都)

東京都渋谷区広尾にある山種美術館は、近現代の日本画専門の美術館です。実業家の山崎種二が収集したコレクションをもとに、明治から現代までの日本画を始め、古画や浮世絵、油彩画など1800点以上を収蔵しています。

栖鳳の作品は、重要文化財の『班病』をはじめ、同美術館でも人気の『みゝづく』や『蛙と蜻蛉』、『四季短冊』などがあります。

海の見える杜美術館(広島県)

広島県廿日市市にある海の見える杜美術館は、瀬戸内海を望む高台に1981年にオープンしました。創設者の梅本禮暉譽が収集した竹内栖鳳やその弟子たちを中心とした近代日本絵画や、ヨーロッパの香水瓶、中国新潮の版画などのコレクションが特徴です。

収蔵する栖鳳の作品は『羅馬之図』『春秋屏風』『家兎』など、初期から晩年までの絵画のほか、京都の株式会社思文閣出版から購入した粉本や素描、写真類など数千枚などがあります。

霞中庵 竹内栖鳳記念館(京都府・現在非公開 )

京都府京都市にある霞中庵(かちゅうあん) 竹内栖鳳記念館は、JR嵯峨嵐山駅近くにあった美術館です。栖鳳のほか、小野竹喬や土田麦僊、上村松園らの約1000点を収蔵していました。2003年に元の持ち主から現在のオーナー企業に売却され、現在は球体関節人形(SD)を展示販売をする「天使の里」という会員向け施設となっています。

記念館と隣接する霞中庵、嵐山を借景とする約3000坪の回遊式日本庭園は修復され、『金獅子』をはじめとする絵画約70点と共に保管されていますが、現在は非公開となっています。

また、霞中庵は、名前の元となった霞の透かしを入れた欄間や化粧屋根裏、二重構造の下地窓など、栖鳳自ら細かく指示を出して5年の歳月をかけて建設された数寄屋建築の傑作です。

まとめ:竹内栖鳳は近代日本画に革命をもたらした画家

ここまで竹内栖鳳の来歴やエピソード、代表作についてお伝えしてきました。栖鳳は、近代日本画を語るうえで、なくてはならない存在です。ぜひ美術館を訪れて、作品を実際に鑑賞してみてください。

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