静寂を湛えた、どこか寂しげなパリの街並みを描き続けたモーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)。ノスタルジックで詩情に富んだその作品に、心を奪われた人も多いのではないでしょうか。
今回は、モーリス・ユトリロについて、アートリエ編集部が詳しく解説します。
モーリス・ユトリロとは

モーリス・ユトリロは20世紀初頭のフランスを代表する画家のひとりです。多くの風景画を描いたことで知られていますが、とくに裏通りや小さな教会など、人々が無関心で通り過ぎるような街の風景を好んで描きました。
その静謐さに満ちた画風とは裏腹に、彼は常にアルコール依存症に苦しみ、孤独な人生を送っています。しかし、もっとも苦しんだその時期こそが、豊かな「白」を生みだし、画家として大きく開花した「白の時代」でした。晩年にかけて、作品の輝きは失われていきますが、彼は生涯をかけてモンマルトルの街の風景を描き続けました。
モーリス・ユトリロの来歴

パリに生まれ、パリに生きたユトリロの人生とはどのようなものだったのでしょうか。
出生と青年時代
1883年、モーリス・ユトリロはパリのモンマルトルで誕生しました。母シュザンヌ・ヴァラドンは出産当時18歳でした。彼女は職を転々としたのちに画家のモデルとなりました。その時にユトリロを身ごもりましたが、父親が誰であるかははっきりしていません。
若い母に代わってユトリロの世話をしていたのは、祖母のマドレーヌでした。そしてユトリロは7歳のとき、スペイン人の文芸作家ミケル・ユトリロ・イ・モルリウスの養子となり、正式にユトリロの姓を得ます。
母シュザンヌは女流画家としても活躍し、ひとりの女性としても奔放な人生を歩みました。寂しい少年時代を過ごしたユトリロは学校に馴染めず、少年時代から飲酒をしていたといわれています。繊細かつ激高しやすい性格ゆえに、仕事も長続きしませんでした。度重なる失敗に疲れ果てて休養を試みますが、彼はすでに重度のアルコール依存症となっていました。
芸術への目覚め
ユトリロの病状は深刻となり、治療のためにサン=タンヌ精神病院に入院することになりました。約2カ月ほどの入院生活を送ったのち、ユトリロは母シュザンヌの住むモンマルトルに戻ります。医師は治療の一環としてユトリロに絵を描くことを勧めましたが、ユトリロもまた、精神病院に連れ戻されないための手段として、積極的に絵画に取り組むようになりました。
そして19歳の頃、ユトリロより2歳年下の風景画家アルフォンス・キゼと知り合い、絵画の基礎を教わります。このことは、ユトリロが本格的に制作を始めるきっかけとなりました。
印象派時代
職を転々とする一方で、ユトリロは絵画とのつながりをいっそう深めていきます。彼の絵がモンマルトル近郊に出回るようになると、22歳のときに初めて作品が買い取られ、関心を寄せる画商や批評家も現れました。しかし、ユトリロの飲酒癖は相変わらずで、わずかな絵の収入でさえも酒代へと消えていきます。
生活は荒れていましたが、絵画制作への意欲は高く、パリ近郊のモンマニーやモンマルトル、セーヌ河畔など、多くの風景画を精力的に描いていきます。その作風に、ピサロやシスレーなど印象派の影響がみられたこの時期は、のちに「モンマニーの時代」と呼ばれるようになりました。
白の時代
1909年、ユトリロは25歳を迎えた頃から、モンマルトルの街並みや人通りのない細い道など、静かな街の風景を描くようになりました。また、大聖堂や寺院、小さな教会などが主題となり、印象派の影響は次第に薄れていきます。
この時代は「白の時代」と呼ばれています。その特徴のひとつに、凹凸のある重厚なマチエール(絵肌)があげられます。多くの作品に描かれた白い壁には、その感触を表現するため、漆喰などを混ぜた絵具が使われました。このような白を基調とした作風は、1916年頃まで続きます。数多くの傑作を生みだしたこの時代が、ユトリロの画家としての絶頂期となりました。
色彩の時代
「白の時代」はユトリロにとってもっとも創作意欲に満ちた時代でした。しかしその一方で、飲酒癖は悪化の一途をたどり、アルコール中毒の治療のために、何度も入退院を繰り返します。そうしたなかで、ユトリロの作品には、次第に「色彩の時代」へと向かう傾向が表れていました。
1916年頃に「白の時代」が終わりを告げると、ユトリロの作風は赤や緑といった豊かな色を取り入れた「色彩の時代」を迎えます。すでに多くの批評家から賞賛を得ていたユトリロは、1928年にレジョン=ドヌール勲章を授けられるなど、画壇の流行児としてその名を轟かせていました。
キャリアの成功と晩年
ユトリロは押しも押されぬ流行画家となっていましたが、精神病院の入院費は画商と折半で支払っていたなど、その生活は貧しいものでした。彼が経済的な安定を得るのは、銀行家の未亡人であったリュシー・ポーウェルと結婚し、画商ペトリデスと独占契約を結んだ1930年代半ばのことです。ユトリロはすでに50歳を過ぎていました。
パリ近郊ル・ヴェジネの別荘に定住したユトリロは、穏やかな晩年を過ごしながら制作活動を続けていきます。しかしその作品にかつての輝きはみられず、自らを模倣するような作品を生みだすばかりでした。そして1955年、休養のために滞在していた南仏ダックスで、71年にわたる生涯に幕を閉じました。
モーリス・ユトリロの画風

「白の時代」を迎えて、ユトリロの名は世に広く知られることになりました。パリで一躍ブームとなった、彼の画風について解説します。
詩情と静謐さに満ちた街の風景
モンマニーの時代から晩年に至るまで、ユトリロはパリとその近郊の風景を描き続けました。街の中心地にある大通りや大聖堂だけでなく、人通りのないひっそりとした小道や、小さな村の名もなき教会なども主題となりました。
ユトリロは人物を描くこともありましたが、そのほとんどが点景として、小さな後ろ姿で添えられています。画面の主役は街にひっそりと佇む建物や階段、坂道で、美しさよりも物悲しさや静謐さが際立ちます。このような詩情に満ちた作品の数々が、ユトリロの代表作となっていきました。
特徴的な白の表現
ユトリロの最盛期は「白の時代」といわれ、多くの名作が誕生しました。もっとも特徴的なのは建物の白い壁です。ユトリロは亜鉛白に漆喰などを混ぜた絵具を用いて、その質感を再現しました。
白には、空や道路など、対象によって多様なニュアンスがあります。長い年月、雨風にさらされてきた白、あるいは使い込んできた白など、ユトリロは技巧を凝らし、巧みに表現しています。そしてときには、現実とは異なる白を生みだしながら、作品全体に美しい調和を与えていきました。
シンプルな構図と筆致
ユトリロは、しばしば絵葉書や写真を頼りに街の風景を描いていました。その理由として、街を歩けば「飲んだくれ」とからかわれ、トラブルを起こしては交番に連行されるなど、室内で描かざるを得なかった状況が指摘されています。
絵葉書による手法は、作品の構図をシンプルにしました。遠近法を駆使した奥行きのある画面には、建物の窓やドアが幾何学的に描かれています。そのような単純化された構図に、ユトリロ独自の白や、それと調和する抑制された色彩が加えられることで、彼の芸術はよりいっそう高まっていきました。
モーリス・ユトリロのエピソード
ユトリロの複雑な生い立ちは、彼のその後の人生に暗い影をおとすと同時に、ただひたすらに絵を描くことへと向かわせました。
精神病を患った幼少期
ユトリロの幼少期には、2歳のときにてんかんの発作を起こして後遺症が残ってしまったという説や、8歳にときに精神薄弱と診断されたものの母シュザンヌが精神病院への入院を拒否した、という説があります。また、ユトリロは自伝で、小学生の頃に神経性の顔面けいれんが原因で「きちがい扱い」を受けたと語っています。
祖母に育てられたユトリロは、母に顧みられない寂しさや孤独感に苛まれ、飲酒をするようになりました。汽車で通学していた中学生時代には、学校から駅までの帰路で酒場に立ち寄るようになります。その素行の悪さと成績の不振で、ついには退学されられることになりました。
アルコール依存症との闘い
学校を中途退学したのち、義父の計らいで仕事を始めたものの、飲酒癖は悪化するばかりでした。仕事に就くも、トラブルを起こしては解雇され、長くは続きません。彼はわずか18歳にして深刻なアルコール中毒となり、入院を余儀なくされました。
その後51歳で結婚するまで、ユトリロは飲酒をコントロールできず、入退院や脱走を繰り返します。しかし、飲酒に溺れ苦しんだこの時期こそが、ユトリロの最盛期「白の時代」となりました。そして皮肉にも、結婚によって経済的、精神的な安定を得ると、ユトリロの芸術は急速に輝きを失っていくのでした。
母シュザンヌ・ヴァラドンとの関係
ユトリロは祖母の手によって育てられました。もっとも母の愛情を必要とする幼少期に顧みられず、孤独な日々を送ります。実の父は分からず、また法律上の父は母の結婚相手とは別人であるという生い立ちにあって、ユトリロが母の愛を生涯にわたって強く求めたことは想像に難くありません。
母シュザンヌは、自らも画家として注目されていましたが、ユトリロが名声を得ると、彼の仕事を管理するようになりました。ユトリロの結婚相手を選んだのも母でした。そして彼女が死去した際、ユトリロは激しく落ち込むあまり、葬儀に出席できなかったといわれています。
モーリス・ユトリロの代表作
ユトリロは、誰もが気にも留めなかった街の風景を描き続けました。その哀愁漂う、静かなる名作の一部を紹介します。
ラパン・アジル

出典:GALLERY AOKI
ラパン・アジルとは、サン=ヴァンサン街に位置する、ユトリロが足しげく通ったカフェです。ピカソやブラックなどの画家やコクトーなどの詩人らも顔を見せていたといわれ、若い芸術家のたまり場となっていました。
ユトリロのお気に入りであったこのカフェは、作品のモティーフとして繰り返し描かれてきました。そのいずれの作品も、対象となったのは鈍色の空のもとに佇むカフェの外観です。ユトリロがそこに集う人々や内部を描くことはありませんでした。
コタンの袋小路

出典:sgallery
1911年に制作された《コタンの袋小路》は、モンマルトルの丘の北側に位置する小路を描いた作品です。本作は「白の時代」を代表する傑作で、ユトリロ作品のなかでもとくに詩情に富んだものとして評価されています。
画面全体が抑えられた色彩で調和し、漆喰の壁がさまざまな表情を見せています。詩的な物悲しさと静けさが漂うなか、石段を登り切った先にある樹々と黄色い花からは、生命の息吹きが感じられます。
サン=セヴランの聖堂

モンマルトルの丘の風景を好んだユトリロが、丘を降りたときに関心を寄せていたのは大聖堂や教会でした。本作は、セーヌ左岸の学生街、カルチエ・ラタンに位置する、ゴシック式の聖堂を描いた作品です。
街の一角から聖堂を斜めに捉えた構図で、遠近法が効果的に使われています。画面右下の消失点へと流れる建物の輪郭線と、そそり立つ聖堂の尖塔とが対照的に描かれています。家々や聖堂の白い壁は質感も豊かに表現され、鈍色の空と美しく調和しています。
モーリス・ユトリロ作品を収蔵する主な美術館
ユトリロの主要な作品は、欧米の美術館に多く収蔵されています。
モンマルトル美術館(フランス)

出典:wikipedia
かつてユトリロと母シュザンヌが生活していたモンマルトルのアパルトマンは、現在モンマルトル美術館として公開されています。ユトリロや母シュザンヌの作品は、ルノワールやロートレックなど、ゆかりのある芸術家の作品とともに収蔵されています。
また、作品だけでなく、再現されたアトリエや居間を見学できるのも大きな特徴。ユトリロとシュザンヌの生活にも思いを馳せながら鑑賞を楽しめる美術館です。
ポンピドゥー・センター

出典:wikipedia
近代美術作品においては、ヨーロッパ最大のコレクション数を誇るポンピドゥー・センター。パリ4区のサン=メリ地区に位置する、総合的な文化センターです。ピカソやマティス、シャガールなど、20世紀を代表する芸術家の作品を収蔵し、さまざまな展覧会を開催しています。
ユトリロの作品は「モンマニーの時代」初期に描かれた《モンマニーの屋根》、「白の時代」の代表作《ラパン・アジル》や《コタンの袋小路》などがあります。デッサンを含めた名作の数々が収蔵されています。
リヨン美術館(フランス)

出典:wikipedia
リヨン美術館はダム・ド・サン・ピエール王立修道院として使われていた建物に設けられた歴史ある美術館です。1803年より絵画のコレクションが一般に公開されるようになりました。
メトロポリタン美術館(アメリカ)

出典:wikipedia
ニューヨークのマンハッタンに位置し、幅広いコレクションを有する世界最大級の美術館です。1870年の設立以降、各国の貴重な美術品が寄贈されてきました。度々、設備の増改築を行ったことにより、今日のメトロポリタン美術館が完成しました。
ユトリロの作品は、デッサンを含めて「白の時代」初期の作品を中心に収蔵しています。《ルノワールの庭》や《ラヴィニャン通り》など、モンマルトルの街の風景画が揃っています。
まとめ:人間味あふれる豊かな「白」を生みだした画家
多い時には、1年間に600点以上もの絵を描いたといわれているモーリス・ユトリロ。ときに哀しげで、ときにメランコリックな詩情あふれる名作を生みだしました。彼の心に思いを寄せながら、ぜひじっくりと鑑賞してみてください。
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