エゴン・シーレとは?
エゴン・シーレ(Egon Schiele 1890-1918)は、20世紀初頭にウィーンで活躍した画家です。幼いころから絵の才能があり、アカデミックな絵画を嫌い、グスタフ・クリムトやフィンセント・ファン・ゴッホ、オスカー・ココシュカなどの近代的な絵画の影響を受けました。
次第に独自の画風を確立し、他にはない不自然なポーズをとった人物像や独特の色使いなど、シーレらしい特徴が表れてきました。当時、世界中で蔓延したスペイン風邪で28歳で亡くなるまで、短くも充実した画家人生を送っています。
エゴン・シーレの来歴
ここからはエゴン・シーレの誕生から亡くなるまでの、28年の人生を振り返りましょう。
幼少期~美術アカデミー入学まで
エゴン・シーレは1890年6月12日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーン近郊の町、トゥルンに生まれました。シーレの父親はトゥルン駅の駅長だったため、家族は駅の職員用の宿舎で暮らしており、シーレは幼い頃から列車の絵を描いています。
シーレが14歳の時に父親が病気で亡くなりましたが、裕福な母方の叔父、レオポルト・ツィハチェックが後見人となったおかげで生活に困ることはありませんでした。叔父はシーレが大学に進むことを望んでいましたが、学業に実が入らず、成績は悪かったといいます。しかし、美術の教師に絵の才能を認められており、美術アカデミーに入ることを勧められました。
美術アカデミー入学~退学まで
シーレは1906年に難関のウィーン美術アカデミーに当時最年少の16歳で合格しました。しかし、授業は旧態依然としたもので、期待していたものとは違ったのです。落胆したシーレが、徐々に美術アカデミーから足が遠のいていったのは自然な成り行きでしょう。
この頃のシーレは、前衛的なアーティストグループ・ウィーン分離派の中心的存在、クリムトに憧れていました。クリムトに直接会う機会に恵まれたシーレが「僕に絵の才能がありますか?」と尋ねると、「才能があるかって?あるどころかありすぎる」と答えたと言います。クリムトはその後も絵のモデル料を払ったり、パトロンを紹介したりするなど、なにかとシーレを援助しています。
1909年クリムト主宰の美術展「クンストシャウ」の第2回展に招待され、シーレは4点を展示しました。しかし、美術アカデミーでは生徒の公の場での作品の発表を禁じていたことなどもあり、美術アカデミーを中退したのです。
また、シーレは4歳年下の妹、ゲルトルーデ(愛称:ゲルティ)をモデルに絵を描いています。ヌードの絵を何枚も描くなど、2人の仲の良さは近親相姦関係を疑われるほどでした。
自画像の時代
美術アカデミーを中退したシーレは、同じ志を持つ仲間たちとアーティスト集団「ノイクンストグルッペ(新たなる芸術の集い)」を結成しました。当時のヨーロッパは、ドレスデンやミュンヘンで表現主義のグループが結成された時代でした。シーレもゴッホやエドヴァルド・ムンクなどに刺激を受けたこともあり、ウィーン分離派を離れて表現主義に興味を持つようになっていったのです。
この頃から自分自身をモデルに絵を描くことが増えていきました。シーレは自画像を通して自分の内面を見つめてアイデンティティを確立していき、同時に自身の絵を模索していきました。シーレにとって自画像は自分の内面をさらけ出す表現主義的なアプローチだったのでしょう。すべてをさらけ出すと言う意味なのか、全裸の自画像もあります。
ウィーンを離れて
やがてシーレはクリムトを通して知り合った女性、ヴァリー・ノイツィルと共にウィーンの喧騒を離れ、母の故郷であるチェコの田舎町クルマウ(現チェスキー・クルムロフ)へ移ります。しかし、常にヌードモデルが出入りするような生活は、町の住人達から良く思われず、わずか3ヵ月で追い出されるようにしてウィーンに戻りました。次にウィーン近郊のノイレングバッハへ移りますが、ここでも子供たちや裸婦画を描いていたことで、近隣住民に苦々しく思われていたのです。
そのような中で事件が起こりました。1912年4月にシーレを訪ねてきた14歳の少女を一晩泊めたことで、少女の家族から警察へ通報されてしまいました。シーレの家に警察が踏み込んだところ、大量の猥褻な絵が見つかったこともあり、シーレは警察に逮捕されてしまいました。少女の誘拐疑惑は解けたものの、24日間の拘束後、禁固3日に処されました。この事件でシーレは精神的なダメージを受けたといいます。
ウィーンへの帰還と晩年
ノイレングバッハにも居られなくなったシーレは、ウィーンに戻り、自らのアトリエをかまえました。そのアトリエの向かいに住んでいた、中産階級のハルムス家の姉妹、アデーレとエーディトと交流するようになったのです。やがてシーレは妹のエーディトと結婚を決め、恋人のヴァリーはシーレの元を去ります。
1915年にエーディトと結婚した時には、すでに第一次世界大戦が開戦しており、結婚式の3日後にシーレは従軍しました。画家であったシーレは前線に送られることなく、捕虜収容所の看守や兵站部門などに配属となり、スケッチなども続けられるほど恵まれていたそうです。
クリムトが1918年2月に脳梗塞が原因で亡くなった後、シーレはウィーン画壇の代表的な存在になりました。クリムトの追悼の意味もあった1918年のウィーン分離派展では、50点以上の作品を発表し、一躍話題となり多数の絵の注文が入ります。
シーレは高級住宅街にアトリエを移して絵の制作を行っていましたが、妻のエーディトが当時大流行していたスペイン風邪にかかり、お腹の子と共に10月28日逝去。その3日後にシーレもスペイン風邪で亡くなりました。
エゴン・シーレの画風やエピソード
ここからは、シーレの画風や様々なエピソードを4つの視点から紹介します。
夭折の天才
シーレは素晴らしい絵の才能を持ちながらも、わずか28歳で生涯を閉じたため、「夭折の天才」と呼ばれています。ナルシスティックな傾向を持ち、自身の存在に対する不安や苦悩、エロティシズムをテーマに、自画像を始め、女性や子供、風景画などを描いています。
画家としてこれからの活躍が期待されていた時期に亡くなりましたが、困難な時も常に絵を描くことが許されており、若くして世間からも評価され、画家として充実した人生を送りました。
シーレの生まれた1890年は、ゴッホが亡くなった年です。ゴッホの作品に大きく影響を受けたシーレは、たびたび自分はゴッホの生まれ変わりではないかと語っていたといいます。
シーレとクリムト
シーレとクリムトは28歳と親子ほど歳が離れています。クリムトに出会った頃のシーレは、クリムトの影響を強く感じる作品を何枚も描いています。やがてシーレは独自の画風を確立していきました。
シーレとクリムトはどちらも当時タブー視されていた、死やエロスをテーマに絵を描きました。ただし、その表現方法は異なっており、クリムトは女性をエロスの対象としながらも、美しさの象徴として描いています。一方、シーレは女性を現実感を持った存在として、猥褻にも感じる絵を描いています。シーレの表現は苦手と感じる方もいるでしょう。
ウィーン世紀末
シーレが生きた19世紀末から20世紀初頭のウィーンは、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊の予感や、急激な都市化や工業化などで社会情勢の変化が起こり、それまでの価値観が揺らいでいた時代でした。
ぼんやりとした不安感がヨーロッパ全体を覆い、特にウィーンはその傾向が強かったといいます。シーレの作品に見られる不安感や苦悩はそんな社会情勢を反映したものでもあります。
この時代のアートは「世紀末芸術」と言われ、退廃的な雰囲気がありました。同時にアーティストたちはアカデミズムを脱却し、自由に独自の路線を模索して、様々な表現が盛んになった時期でもあります。
シーレと二人の運命の女
シーレの人生のなかには多くの女性の気配がありましたが、そのなかでも重要なのが恋人ヴァリーと、妻のエーディトです。
ヴァリーはクリムトのモデルでもあった女性で、シーレを献身的に支えました。シーレがヴァリーを裏切って結婚を決めるとシーレのもとを去り、従軍看護婦に志願します。1917年に派遣先のクロアチアで猩紅熱にかかり、23歳で亡くなりました。
シーレの妻となったエーディトは、教養深く、一方で奔放な性格でもあったと言われています。シーレは結婚式の3日後に従軍しましたが、配属された駐屯地近くの自宅にエーディトと住んでいました。また、シーレとエーディトは3日違いで亡くなっています。
エゴン・シーレの代表作
ここからは、数あるシーレの作品のなかでも代表的な5点を紹介します。
ほおずきのある自画像
1912年に制作された作品で、ウィーンのレオポルド美術館に所蔵されています。シーレが生涯に描いた自画像は約100点とも200点とも言われていますが、そのなかでも代表的な作品です。
体を斜めに向けて、こちらを挑戦的に見ているシーレが描かれています。頭部と胸部をカットして背景にホオズキを配置した、計算されたバランスの取れた構図です。
こちらは「ヴァリーの肖像」と対になった作品で、2つを並べるとシーレとヴァリーが向き合っているように見えます。この絵が制作された1912年は、シーレが警察に拘束される事件が起き、ヴァリーが献身的に支えてくれたことから、感謝の気持ちで描かれたことが伺えます。
家族
1918年に制作された作品で、ウィーンのヴェデーレ宮殿内にあるオーストリア・ギャラリーの所蔵です。シーレと妻のエーディト、その子どもが描かれていると言われています。この絵が描かれた時点ではエーディトは妊娠中で、いずれ生まれてくる子どもを想像して描いたのでしょう。
しかし、同年10月28にエーディトは妊娠6ヵ月で胎児を宿したままスペイン風邪で亡くなり、シーレもその3日後に亡くなりました。その事実を知ってこの絵を改めて見ると、シーレとエーディトは物憂げで、これから起こる悲劇を予感しているようにも見えます。
抱擁(恋人達Ⅱ)
1917年に制作された作品で、ウィーンのオーストリア・ギャラリーの所蔵です。1918年のウィーン分離派展のメインホールに展示されました。裸の男女がクシャクシャの白いシーツ(または敷物)の上でしっかりと抱き合っている様子を描いています。
女性の黒々とした髪が広がっている様子や男性のゴツゴツとした体、柔らかい曲線の女性、シーツの表現と相まって2人の間の情熱や激しさを表現しているのかもしれません。
この絵が描かれた1917年にシーレは兵站部門に配属され、ウィーンに戻りました。戦争中にも関わらず最も多くの作品を制作した年とも言われています。
左足を高くあげて座る女
1917年に制作された作品で、チェコのプラハ国立美術館の所蔵です。緑色の服を着た女性が左足を立て膝にして座り、こちらを見ている姿を描いています。絵の女性は妻のエーディトがモデルだと言われており、こちらに向けた強い目線が印象的な作品です。
カジュアルでモダンな服装でリラックスした雰囲気でありながら、下から見上げている挑戦的にも感じる様子は、生き生きとした若さと生命力を感じさせます。
死と乙女
1915年に制作された作品で、ウィーンのオーストリア・ギャラリーの所蔵です。黒い服を着た男に若い女性がしがみついている姿を描いています。絵のモデルはシーレとヴァリーと言われており、2人が別れた時期あたりに描かれたそうです。
ゴツゴツとした背景の雰囲気もあって、死神にも見えるシーレに、ヴァリーが細い腕でなんとか抱きついている姿は、生や愛の儚さが感じられます。また、2人の関係が終わったことを示唆している絵とも言われています。
エゴン・シーレ作品を所蔵する主な日本の美術館
ここでは、シーレの作品を所蔵している国内の美術館を紹介します。
宮城県美術館(宮城県)
宮城県仙台市にある宮城県美術館は、明治時代以降の近現代美術や東北地方にゆかりのある作品、カンディンスキーやクレーなど海外作家の作品などを中心に所蔵しています。
テンペラ画2点を含むシーレ・コレクションも主要作品群のひとつで、「黄色の女」「第49回ウィーン分離派展ポスター」などがあります。シーレの「黄色の女」を含むコレクション30点をデジタル化(高精細データ記録)しており、Webサイトで見ることが可能です。
※令和5年6月19日(月曜日)から改修工事のため休館中(令和7年度中オープン予定)
豊田市美術館(愛知県)
愛知県豊田市にある豊田市美術館は、世紀末のウィーンの動向に注目しています。ウィーン分離派を中心とした作品をコレクションの出発点に、19世紀後半から現代までの美術やデザイン、工芸のコレクションを所蔵しています。
シーレ作品では、叔父の「レオポルト・ツィハチェックの肖像」や、従軍時の上官であり後のパトロンでもあった「カール・グリュンヴァルトの肖像 」「第49回ウィーン分離派展ポスター」、リトグラフ、版画など多彩です。
また、Webサイトでは、コレクション・オーディオガイドで作品の解説を聞くことができます。
まとめ:エゴン・シーレはウィーン世紀末を駆け抜けた夭折の画家
ここまでエゴン・シーレの来歴やエピソード、代表作についてお伝えしてきました。シーレは早熟で、十代のころから生涯に渡って自分らしい表現を模索し続けました。時には陰鬱で、また過激でもある、他にはない唯一無二の作品を、ぜひ美術館で味わってみてください。
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