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2023.12.18

小磯良平が送った人生とは?作品の特徴や代表作について徹底解説!

小磯良平が送った人生とは?作品の特徴や代表作について徹底解説!

「美術家の小磯良平はどんな人なのか」と、作品を見てから画家の存在に興味が湧く方もいるでしょう。小磯良平は、高いデッサン力や油彩画を評価されており、今でもファンから愛されているほどの人気ぶりです。

この記事では、日本人画家である小磯良平の人生を中心に、代表作などについて解説していきます。小磯良平の人生を知り、改めて作品をご覧になってみてください。

小磯良平ってどんな人?

小磯良平は、親しみやすい女性像を中心に、伝統的な西洋絵画において親しみと気品あふれる作品を生み出す画家でした。小磯良平は高いデッサン力を有し、独自の画境を切り開くための研究を根気強く続けます。

理由は、「欧州の絵画が持つ古典的な技法を日本の洋画に根付かせたい」という小磯良平の強い想いがあったからです。研究の継続によって東京芸術大学の教授になり、若い学生たちの感性を大切にしながら教育を行いました。

小磯良平は、日本の洋画界において、大きな貢献をした画家の1人でもあります。

小磯良平が送った人生とは?

小磯良平が送った人生を時代ごとにご紹介していきます。

  • 少年時代
  • 美術学校時代
  • フランス留学時代
  • 従軍画家の時代
  • 戦後の時代
  • 晩年

少年時代

小磯良平は、1903年(明治36年)に貿易に携わっていた岸上家の次男坊として、神戸市で誕生しました。当時の神戸は、貿易の窓口となっており、外国人の居留地として発展していました。クリスチャンの家庭に生まれ、洋館が立ち並ぶ環境で育った小磯は、自然と西洋的な空気を吸って生活していました。

小磯は、少年時代から紙とペンを持ち歩き、黙々と絵を描き続けていました。「飽きがこなかった」と本人が明言しているほど、絵を描くことが好きでした。幼い頃から見て描くことを繰り返し、高いデッサン力を養いました。

美術学校時代

小磯は、1922年(大正11年)に、東京美術学校の西洋画科に入学しました。同級生の中には、後に有名画家となる猪熊弦一郎・岡田謙などがおり、共に研鑽を積んでいます。在学中の小磯(23歳)は、実直に努力を重ねて「大正14年帝国美術院美術展覧会」で入賞を果たしました。

さらに、翌年に『T嬢の像』は特選に選ばれ、在学中の学生にとって珍しいということで話題に上がったのです。学生が描いたとは思えないほど、完成度が高い作品の評価によって小磯は画家として鮮烈なデビューを果たしました。

1927年(昭和2年)は、規定課題である『自画像』、竹中郁をモデルとした『彼の休息』を提出し、98点という最高得点を取り主席で卒業しています。

フランス留学時代

美術学校を卒業した翌年、小磯は念願のフランス・パリへ留学を果たします。当時のパリには絵画を学ぶ日本人画家が100人以上いたそうです。2年間の留学では、技法の習得よりも各地の美術館を巡り、巨匠たちの作品鑑賞を熱心に行っていました。

巨匠たちの細かく端正なデッサンを目の当たりにし、小磯は目を肥やしたのです。また、劇場の踊り子たちの姿を楽しみながら、クラシックにも楽しみを見出したと言われています。他にも、サーカスや音楽会の鑑賞などを楽しみ、感性も養いました。

従軍画家の時代

1930年にフランスから帰国し、新制作派協会の結成に協力しました。しかし、戦争が始まると、1938年から戦争の記録画を製作する従事画家として中国に4回渡航します。戦地に赴いて描いた作品は疲労した兵士など、ありのままの戦場を描いていることから、「従軍後しても絵画は迎合しない」という意思を感じさせました。

また、後の代表作品の1つでもある『斉唱』は、制服を着て裸足のまま歌う少女たちの姿が描かれており、「平和への祈り」が込められています。

しかし、1945年に神戸空襲によって自宅とアトリエが焼け、作品も消失してしまいました。当時、小磯は2人の娘を持つ父親として気丈に振る舞ってはいましたが、戦争で負った心の傷はなかなか癒えませんでした。

戦後の時代

戦後の小磯の活動は、挿絵画家や建築装飾へと切り替わっていきます。1947年(昭和22年)に、『婦人公論』という雑誌で連載されていた『細雪』の小説挿絵を担当しました。当時は、挿絵の締切が過ぎても原稿が手元に届かないこともあり、小磯は展開を予想しながら挿絵を構想していたそうです。

建築装飾に携わった小磯は、神戸銀行(三井住友銀行)の壁画『働く人』などを手がけます。それから、小磯は独自の画境について考えを深めた結果、母校の美術学校で教授となりました。後進の育成のために、若い感性を持つ学生を大切に育てたと言われています。

晩年

小磯は、1988年(昭和63年)に85歳で死去します。1982年に親友だった竹中を亡くし、さらに翌年の1983年に最愛の妻を亡くしていました。悲しみに包まれたまま小磯は制作を続け、その後も多くの作品を残しています。

小磯の死後、作品や愛用品は神戸市に寄贈され、大切に保管されています。また、1991年(平成3年)に、小磯の遺作展が全国を巡回し、多くの人々が集まりました。小磯が「愛された日本人画家」であったことを表しました。

小磯良平の作品・絵画の特徴

小磯良平の作品・絵画は、描く対象を正確にとらえ、落ち着いた色彩を用いた品格ある作品です。日本の近代洋画界に大きな影響を与えた小磯良平の作品は、現在でも多くのファンに愛されています。

小磯良平の代表作

小磯良平の代表作は、下記の3点があります。

  • 若い女の座像
  • フランス人形
  • 白川女

各作品が持つ特徴や鑑賞できる場所を含めて、詳しく解説します。

若い女の座像

小磯良平の作品は、婦人像が多くあり、『若い女の座像』は鉛筆で描かれた作品です。鉛筆のラフなタッチで描写されていますが、小磯の高いデッサン力と西洋文化が取り入れられたモダンなタッチは、留学で培われた小磯の感性の高さを表しています。

小磯の作品の魅力を十分に感じさせてくれるでしょう。小磯の代表作の1つである『若い女の座像』は神戸市立小磯記念美術館に所蔵されています。

フランス人形

小磯良平の代表作の1つである『フランス人形』は、アンティーク調のフランス人形を本格的に描くようになった晩年頃の作品です。知人の画廊から、コレクションされていたフランス人形を描いてみないかと勧められたことがきっかけだそうです。

小磯の作品と同様に、モデルとなったフランス人形も神戸市立小磯記念美術館に寄贈されているため、モデルと作品を一緒に鑑賞することができます。

白川女

小磯の代表作でもある『白川女』は、京都の白川に住んでいる女性が、四季の草花が入っている籠を頭に乗せて、売り歩いている様子を描写しています。白い手ぬぐいで頭を包み、紺色の作務衣と白色の腰巻、脚絆を身につけているのが特徴的です。

当時の働く女性を緻密かつリアルに描き起こした様子は、現代でも高い評価を得ています。まさに小磯が持つ「見る力」の高さをも感じさせるでしょう。

小磯良平の作品はどのように評価された?

小磯良平の作品は、晩年までに2,000点にのぼる作品が確認されています。学生時代からの展覧会で、デッサン力の高さが評価されていましたが、フランスへの留学後は西洋絵画の親しみやすさと上品さを兼ね備えた作品だとさらに評価されました。

小磯の作品の中でも、最も評価が高いのは『婦人像』であり、油彩で描かれた作品は高い値がつけられるほどです。

まとめ

小磯良平は、伝統的な西洋絵画において、親しみと気品あふれる作品を生み出す日本人画家です。小磯の持つ高いデッサン力は、当時の状況や人物を切り取ったかのような臨場感を生み出します。また、小磯の油絵は現在でも高価買取が行われるほどの人気ぶりです。

代表作の中には、『若い女の座像』『フランス人形』などがあります。生涯で残した作品は2,000点にのぼり、多くが神戸市立小磯記念美術館に寄贈されているため、ぜひ立ち寄ってみてください。

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