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2023.12.18

クリムトの送った人生とは?代表作や印象派との関係についても解説!

クリムトの送った人生とは?代表作や印象派との関係についても解説!

グスタフ・クリムトは、20世紀初頭のオーストリアを代表する画家の1人です。その作品は美の探求と個性的な表現との融合を象徴しています。

この記事では、クリムトの芸術的な人生を探り、その代表作や印象派とのつながりに焦点を当てます。彼の魅力的なキャリアと独自のスタイルについて深堀りし、クリムトの人生と芸術に迫ってみましょう。

クリムトとは?

グスタフ・クリムトは、オーストリアを代表する画家であり、ウィーン分離派の創設者として名を馳せた芸術家です。

彼の作品は、装飾芸術、絵画、壁画、ドローイング、オブジェなど多岐にわたって制作され、アレゴリーや肖像画、風景画なども残されています。

クリムトの作品は、女性を主にモチーフとし、率直な愛や性愛の表現が特徴です。彼の作風は、日本画とその手法から最も影響を受けており、独自の視点で表現されています。

クリムトの送った人生とは?

ここでは、クリムトの生涯について解説していきます。生い立ちから黄金時代まで、クリムトの人生を見ていきましょう。

生い立ち~若齢時代

グスタフ・クリムトは、1862年にオーストリアのウィーン近郊で、彫刻師の父エルンストとミュージカルパフォーマーの母アンの間に7人兄弟の2番目として生まれました。クリムトは、早い段階から芸術的な才能を発揮します。

若い頃のクリムトは、貧しい状況の中でウィーン応用美術工芸学校に通い、石膏像のデッサンや古典作品の模写など、古典主義的な建築美術を学びます。初期のクリムトの作品は伝統的な美術教育の影響を受けていたため、アカデミックな評価を受けました。

弟エルンストもウィーン応用美術工芸学校に入学し、同じ道に進んでいたためクリムトはエルンストと友人のフランツ・マッチとともに「芸術家商会」を立ち上げ、装飾建築の仕事をはじめます。

1892年には父親と弟エルンストが亡くなり、クリムトはエルンストの家族を養う責任を負うことになります。同じ時期にオーストリアのファッションデザイナー、エミーリエ・フレーゲと出会い、彼女と生涯をともにすることになります。

ウィーン分離派時代

クリムトは1908年までウィーン分離派に所属し、創設メンバーで初代会長でもありました。分離派は個性溢れる若手アーティストの発掘や、彼らの作品の展示を目的として活動し、作品紹介のための美術誌も独自で発行していました。

当初オーストリア政府は、展示活動のための土地を貸し与えたりと、分離派の活動をサポートしていました。

クリムトの代表作の1つである「パラス・アテナ」は、分離派を代表する作品として知られています。1898年に制作されたこの絵画は、ギリシャ神話の女神パラス・アテナを描いたものです。

ウィーン大学大講堂天井画事件

1894年、クリムトはウィーン大学の大講堂の天井装飾画の制作依頼を受けました。三つの学部「哲学」「医学」「法学」を表現するパネルを制作しましたが、あからさまな性的表現が多くの人々にとって不快なものであり、政治的、審美的、宗教的な理由から大衆の抗議が続出したのです。

最終的に、クリムトは天井画3作品の契約を破棄し、受け取った報酬を返却する決断を下しました。

残念ながら、これらの3作品は1945年にナチス・ドイツ軍が撤退中にインメンドルフ城が焼却され、現在は残っていません。

分離派から分離した時代

1902年、クリムトは第14回ウィーン分離派展示会で「ベートーベン・フリーズ」を発表しました。しかし、ウィーンはこの作品を許容せず、クリムトは国家からの援助を完全に失う結果となります。

分離派内でも「ベートーヴェン・フリーズ」の不成功について賛否がわかれ、クリムトを支持する者と批判する者の間で論争が巻き起こりました。

その結果、クリムトはカール・モル、ヨーゼフ・ホフマン、コロマン・モーザー、オットー・ヴァーグナーなど、彼に忠実な追随者に支えられながら、分離派を離れます。

クリムト黄金時代

クリムトの「黄金時代」は1903年から始まりました。以前から金箔を使用していたクリムトは、1907年に「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」や「接吻」などの代表作を制作し、これらの金箔作品がクリムトの名声を高めました。

1904年にクリムトはベルギーの富豪、アドルフ・ストックレー邸の内装を手がけました。この邸宅は、モダニズム建築の世界遺産に登録されています。

クリムトの「黄金時代」は、彼の芸術的探求心が最も輝いた時期であり、金箔やモザイクなどの要素を駆使して独自の美を追求しました。

クリムトの作品の特徴

クリムトの作品の特徴は、官能的なテーマによる赤裸々な表現でありながら、常に死の存在を感じさせる点です。

女性の裸体、妊婦、セックスなどのエロスが妖艶に描かれ、”ファム・ファタル”(宿命の女)というテーマも頻繁に登場します。

特に「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気が漂います。クリムトの作品はそのエロスと死、東洋文化への傾倒、風景画の独自性などが複雑に結びついているのです。

クリムトの代表作

ここでは、クリムトの代表作をいくつか紹介します。官能的で華やかなクリムトの世界をお楽しみください。

接吻

『接吻』は、1907年から1908年にかけて制作されました。クリムトの最も有名な作品で、クリムトの黄金時代や分離派、またアール・ヌーボーを代表する作品です。

当時のウィーンの人々の精神状態を男女の愛に置き換えて視覚的に表現したものといわれています。モデルとなっているのは、クリムトが生涯をともにしたパートナーのエミーリエだと言われています。

1908年の総合芸術展「クンストシャウ」で大評判となり、展覧会終了後すぐにオーストリア政府に買い上げられました。現在は、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館に所蔵されています。

生命の樹

この作品はクリムトが43歳から47歳の間に制作されました。ブリュッセルのベルギー大実業家、ストックレー邸の食堂の壁画として描かれ、そのスケッチは今日まで残っています。

「生命の樹」は「ストックレー・フリーズ」の一作として知られ、「期待」や「抱擁」などと共に邸宅の内装を飾る一部として制作されました。

大きな樹が美しい大地に根を張り、複雑で曲線的な枝が広がり、その先端は螺旋状に巻かれています。現在は、オーストリア工業美術館に所蔵されています。

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」はクリムトが1903年から1907年にかけて制作した油彩作品で、金箔が多用されています。

この作品はクリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品の1つで、ブロッホ=バウアーの肖像画2作品のうちの最初の作品です。

絵画は1億3500万ドルでエスティ・ローダー社(当時)の社長であるロナルド・ローダーによって購入され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーに所蔵されています。

クリムトと印象派の関係は?

クリムトの芸術の発展において、印象派は重要な役割を果たしました。一時期、クリムトは装飾画を制作しており、1888年には皇帝から勲章を授与されるほどでした。

この時期に印象派から多大な影響を受けました。その影響は風景画にも現れ、特に風景画「池の朝」において、モネ、スーラ、ゴッホ、マネなどの印象派の要素が見て取れます。山の岩肌や森の木々が映った湖面を、丁寧かつ繊細に描いています。

また、クリムトの作品には印象派の影響だけでなく、エロティシズムも含まれており、女性を題材としている作品が多いのも特徴です。一方で、クリムトの姪へレーネの肖像は、禁欲的で感情的にも控えめに描かれており、印象派の影響が感じられます。

まとめ

クリムトは、20世紀初頭のオーストリアを代表する画家で、ウィーン分離派の創設者としても知られています。

幼い頃に才能は頭角を現し、「黄金時代」と呼ばれる時期には、金粉を用いた絢爛な作品を世に出しています。

クリムトは女性をモデルとした絵画を多く描いているのが特徴ですが、印象派から影響を受けた風景画もとても魅力的です。当時から多くの方に愛されているクリムトの作品を、ぜひ楽しんでください。

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