表現主義とは何か
「表現主義」をご存じでしょうか。美術好きなら誰もが思い浮かべる「印象主義」に比べると、表現主義という言葉はマイナーかもしれません。
風景や静物など目に見えるものを描写するのでなく、内面や感情といった見えないものを表現しようとしたのが表現主義。20世紀初頭にヨーロッパで起こったこの運動がなければ、その後100年の「現代美術」は今のような形になっていなかったとまで言われます。芸術が次の時代へと移り変わる転換期に現れたのが表現主義なのです。
この記事では、アートリエ編集部が表現主義についてわかりやすく解説します。
表現主義誕生の背景
19世紀末から20世紀初頭、産業革命の影響で都市化が進み、人びとの生活は大きく変貌を遂げました。便利で華やかな都市生活を手に入れた反面、急速な社会の変化は人びとに不安や緊張を呼び起こしました。
ヨーロッパ各国では中産階級(ブルジョワジー)の台頭とともに階級闘争が生まれ、資本主義国同士の覇権争いが起こります。人びとの不安不満、孤独感は増大し、不安定な社会になります。
印象派や写実主義が描いてきた日常の風景や都市生活に換わり、芸術家たちは個人の感情や社会問題に焦点をあて、不安や苦悩を描くようになります。目に見えるままを描くのではなく、歪んだ形や強烈な色彩で人の内面を表現しようとしたのです。
「表現主義」その名前の由来
「表現主義」は、「印象主義」に相対する言葉として生まれました。英語でも、 Expressionism(表現主義) はImpressionism(印象主義)と対立する言葉です。
現実に見た外面を自分の印象で描く印象主義に対し、目に見えない内面を様々な方法で表現する表現主義。表現主義は、作品のテーマや手法において印象主義とは全く異なるアプローチなのです。
表現主義の代表的な芸術家たち
ドイツの表現主義
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
ドイツの画家・キルヒナーは表現主義運動の中心人物のひとりで、表現主義グループ「ブリュッケ(橋)」の設立者として知られます。キルヒナーは、都会生活や人々の孤独、疎外感を大胆な筆致と鮮やかな色彩で描きだしました。フォービズムやアフリカの彫刻などプリミティブな要素を取り入れているのも特徴です。
第一次世界大戦で兵役につきますが、神経衰弱がひどくなり除隊。スイス・ダボスに移り創作活動を続けますが心身の衰弱が激しく、またナチスによって「退廃芸術」と称されたことで自殺しました。
ワシリー・カンディンスキー
ロシア出身の画家で美術評論家でもあるカンディンスキーは、ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィッチと共に抽象絵画の先駆者として知られます。ミュンヘンで絵を学んだカンディンスキーは、1911年にフランツ・マルクとともに「青騎士」を結成。青騎士は、精神性を探求し抽象的に感情や精神を表現しようとした集団です。カンディンスキーは、形でなく色によって精神を表現した抽象画を手がけるようになります。
第一次世界大戦後ロシアに帰国、しかしスターリンに疎んじられ1921年にドイツに戻ります。ドイツではバウハウスでクレーらと共に教鞭をとりました。ナチスによりバウハウスが閉鎖されると亡命しますが、フランスで1944年に亡くなりました。
フランツ・マルク
カンディンスキーと共に青騎士を設立したフランツ・マルクは、動物を描いた作品を多く遺しました。動物そのままの姿を描くのではなく、動物から感じる精神性や内面性を求め、さまざまな色彩で幻想的に描写しました。神経質で内向的だったマルクは、動物と触れ合うことで自由な心を見出すことができたと語っています。
この頃マルクはキュビズムに出会います。1912~13年に描かれた絵は、キュビズムの影響が色濃くみられます。1914年、第一次世界大戦が勃発。マルクはドイツ軍に従軍、1916年に命を落とします。36歳の若さでした。
オーストリアの表現主義
エゴン・シーレ
20世紀初頭のオーストリアの画家エゴン・シーレは、代表的な表現主義作家のひとりです。歪んだ形態やポーズを強烈なタッチで描き、挑発的な絵を残しました。
幼い頃から絵の才能を見出されたシーレ。最年少16歳で難関ウィーン美術アカデミーに合格しますが、伝統的な教育に満足できず退学、個性的表現を目指すウィーン分離派の旗手・クリムトのもとを訪れます。クリムトに認められ影響を受けつつも、死や性などタブーとされた題材を描き独自のスタイルを築きました。シーレが最も多く選んだモチーフは自画像。また女性像も多く、母性を表現した作品からエロティックな裸婦像、少女像など多岐にわたります。
1918年シーレは28歳という若さで命を落としましたが、彼の作品は今なお現代的といわれるほど鮮烈な印象を発しています。
オスカー・ココシュカ
オスカー・ココシュカは、クリムトやエゴン・シーレと並ぶ20世紀初頭のオーストリアを代表する表現主義画家。グループには参加せず、独自に描き続けました。
クリムトに早くから才能を見出されたココシュカは、華やかで装飾的なクリムトと異なり、自分の内面の深い感情を作品に投影。彼の作品は、独特の強い筆致と色彩で観る者に強いインパクトを与えます。絵画だけでなく舞台美術や詩作にも取り組んだ多彩な芸術家でもあります。音楽家、グスタフ・マーラーの未亡人、アルマ・マーラーとの恋愛でも知られます。
ココシュカはドイツで美術大学の教授になりますが、ナチス政権に弾圧されプラハ、ロンドンなどへ移り住み、スイスに永住しました。
北欧の表現主義
エドヴァルド・ムンク
「叫び」で有名なムンクは、19世紀末から20世紀前半のノルウェーの国民的画家。世紀末芸術の中でも表現主義の先駆者として知られ、ドイツ表現主義に大きな影響を与えました。ムンクは鋭敏すぎるほど感受性が豊かだったうえ、幼い頃から度重なる家族の死に直面、また自らも病弱だったことが作品に大きな影を落としています。
観る者に強烈な印象を与える歪んだ線や独特の色彩はムンク自身の経験や感情の表出であり、孤独や死、不安、愛などのテーマが探求されています。
彼はノルウェー王立絵画学校で学んだ後にパリに留学。その後ベルリンで個展を開きますが「ムンクの絵は狂人のものだ」と批判されます。一方で、ドイツ国内を巡回するうちに作品を支持する者が増えることにつながりました。
表現主義の代表的な作品
エドヴァルド・ムンク「叫び」
ムンク作品の中でも最も世界的に有名な作品。幼い頃から肉親の死に直面してきたムンクは、死や孤独、愛から生まれる不安をテーマとした「生命のフリーズ」という連作を描きます。「叫び」はその中の一枚。
血のように赤くうねる夕焼け空と青黒い海。歪んだ風景の中、目を見開き口をあけ、歪んだ顔を両手で抑える人。タイトルからもこの人物が叫んでいるように思えますが、作家の日記には「私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聞いた」と書かれています。画中の人物は、叫びを聞いて耳をふさいでいるのはと考えられています。人間の不安や孤独といったテーマで鑑賞者の心を捉え、深く揺さぶる作品です。
エゴン・シーレ「自画像」
まるで見る者を見下したような眼。小馬鹿にしているのか猜疑心の表れか、それでいて怯えているようにも見えます。
オーストリアの表現主義画家、エゴン・シーレが1912年に描いた22歳の「自画像」。シーレは短い生涯の中で100点以上の自画像を描いています。彼は生涯にわたって揺れ動く自らの心境をキャンバスに写し続けました。
この頃のシーレは、まさに波瀾万丈の時期。少女誘拐の疑いで家宅捜索され、猥雑な作品が見つかって逮捕。自画像の複雑な表情は、当時のシーレの心境そのもの。内面の葛藤や苦悩、孤独を感じさせます。シーレの自画像は単なる肖像画ではなく、精神的苦悩を率直に表す手段だったのです。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「街頭、ベルリン」
ブリュッケを創設したキルヒナーが、ベルリンの都市生活を描いた代表的な作品。表現主義を象徴する鮮やかな色の対比と大胆な筆致で描かれています。
中央にはドレスで着飾った華やかな女性たち。しかし周囲は彼女たちに無関心で、都会の喧騒の中での孤独や疎外感を象徴しています。背景には建物や通行人が配置され、都会の持つエネルギーとともにそこに潜む不安や緊張感を感じさせます。
キルヒナーはこの作品を通じ、急速に変化する都市とその中で生きる人々の心象風景を表現しました。
フランツ・マルク「青い馬」
1911年、カンディンスキーとドイツ表現主義グループ「青騎士」を結成したフランツ・マルク。「青い馬」はその頃に描かれた一枚です。青騎士は、抽象的な表現で人の内面を表現しようとしたグループ。「青い馬」は象徴的な色彩でその精神を表しています。
青騎士の色彩理論では、「青」は平和や穏やかな精神状態を表す色。画面いっぱいに青く塗られた馬が描かれ、背景には強いコントラストの補色があしらわれています。現実的ではない精神世界が描かれています。
ワシリー・カンディンスキー「コンポジション」
幾何学的な形や色彩が複雑に組み合わさり、独自の世界を構築する「コンポジション」。カンディンスキーは、色彩や形態で内面的な精神世界を表現することを目指しました。「コンポジション」は、抽象絵画の中でも特に高い評価を受けているシリーズ。幼い頃から音楽に親しんだカンディンスキーは、音楽を色や形に見立て、楽曲のように絵画を構成しました。
学生時代、モネの「積み藁」を見て「主題がわからなくても心を動かすことができる」経験をしたカンディンスキー。「コンポジション」は、直接的にストーリーを示すことなく抽象的な形や色彩を通じて感情や精神的共鳴を呼び起こす作品として評価されています。
表現主義の主なテーマと特徴
表現主義の特徴は、内面の感情や精神的状況を表現しようとする点にあります。印象主義(Impressionism)は、目に見える風景などを描き自然の瞬間的な印象を捉えようとしました。それに対して表現主義(Expressionism)は、目に見えない感情を表現することを主眼としました。
人間の内面を表すため、表現主義の画家たちは筆致や色彩で感情を表しました。対象を歪ませ抽象化する、鋭く乱れた線を使用する、鮮烈な色彩といったさまざまな手法で、激しさ、苦悩、不安を描きました。社会や政治への批判をテーマに盛り込んだことも大きな特徴です。
表現主義が与えた影響
ドイツから広がる表現主義
表現主義は、まずドイツで発展します。ドレスデン工科大学の学生だったキルヒナーらによって「ブリュッケ」というグループが結成されました。「ブリュッケ」はドイツ語で「橋」の意。強烈な色彩と大胆な筆致、社会への批判が特徴で、グループとして共同制作したり、展覧会を開くなど活動は活発でした。
「ブリュッケ」が活動していた時代、より国際的な芸術活動がミュンヘンで起きました。カンディンスキーやマルクによって結成された表現主義グループ「青騎士」です。精神性を探求し、写実的な描写よりも色彩や形の抽象表現を追求しました。
表現主義は隣国のオーストリアにも波及。「ブリュッケ」や「青騎士」のような集団は生れませんでしたが、ウィーン分離派のグスタフ・クリムトに見出されたシーレやココシュカが独創性を発揮しました。
そして現代へ
人間の感情の深みを伝えようとする表現主義は、20世紀の芸術に大きな影響を与えました。
20世紀半ばにアメリカで興った「抽象表現主義」。内面の世界を表現するために形や色を自由に操り、インパクトを重視してさまざまな手法を用いました。また表現主義が社会や政治に対する批判を取り上げた点も、現代に引き継がれています。バンクシーなどのストリートアートにもその影響があるとされます。
表現主義の影響は絵画だけにとどまらず、演劇や映画の世界にも及びます。映画では「メトロポリス」や「巨人ゴーレム」などが一例。カメラアングルや極端な陰影などは後の「市民ケーン」の中でも見られ、さらに「ブレードランナー」などにも影響したと言われています。
またパフォーマンスアートやインスタレーションアート、ダンスや演劇、文学にもその影響は広く波及していきました。
今なお高い評価を得る表現主義の作品
現代の芸術に多大な影響を与えた表現主義。人間の内面や精神性、感情や社会的批判を芸術で表現するアプローチは、バンクシーなどグラフィティーと呼ばれる現代作家たちの中に色濃く息づいており、現代美術の原点としての評価を固めています。
その価値は美術市場でも高く評価され、2012年、ムンクの「叫び」は当時の世界記録である約96億円で落札されました。2023年、ワシリー・カンディンスキーの作品「教会のあるムルナウの眺めⅡ」が約45億円で落札。エゴン・シーレの作品も20億円以上で落札されるなど、揺るぎない人気を誇っています。
表現主義の作品が楽しめる場所
「モダンアートの殿堂」と称されるニューヨーク近代美術館(MoMA)は、表現主義のコレクションも豊富。カンディンスキー、エゴン・シーレ、キルヒナーなど幅広い作品を所蔵しています。
ニューヨーク5番街に、20世紀初頭のドイツとオーストリアの美術に特化した「ノイエ・ギャラリー・ニューヨーク」があります。クリムトやココシュカ、シーレなどオーストリアの作家の作品と、カンディンスキー、クレー、キルヒナー、エルンストなドイツ表現主義の作品が豊富に展示されています。
スイス最大規模のチューリッヒ美術館では、後期ゴシックやバロック、印象派からの流れの中で表現主義絵画を観ることができます。ムンクやココシュカをはじめ、母国の画家パウル・クレーの作品も充実しています。
日本では、国立西洋美術館にカンディンスキーやエゴン・シーレの作品が収蔵されています。愛知県美術館は表現主義の作品など20世紀美術をコレクションの柱としており、エミール・ノルデやキルヒナーらの作品を観ることができます。また、横浜美術館はクレーやカンディンスキーの作品を所蔵しています。
まとめ
表現主義の登場で、芸術は「見たものを写しとる」から「感情など人の内面を表現する」という新たな意味を持つようになりました。芸術の脈流は、表現主義を原点として後の抽象芸術などさまざまな現代アートにつながっていくことになります。
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