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2024.07.11

クロード・モネとは?印象派を代表する画家の来歴や画風、代表作まで幅広く解説します

クロード・モネとは?印象派を代表する画家の来歴や画風、代表作まで幅広く解説します

クロード・モネといえば日本で人気が高く、大規模な展覧会が開催されるたびに大きな話題となる有名な画家ですが、その生い立ちや作品の特徴について詳しく知らないという方は意外と多いのではないでしょうか。

この記事ではモネの生涯や画風、代表作のほか、国内でモネ作品が見られる場所について、アートリエ編集部が詳しく解説します。

クロード・モネとは?

クロード・モネはフランス印象派の代表的な画家で、その長い画家人生の中で移ろう光や空気を表現する方法を探究し、時間帯によって風景やモチーフの見え方が変化するさまを、連作の形で描き出そうと試みました。

彼はほとんど独力で画家としての道を切り開き、伝統的な絵画観を覆す印象派の運動を牽引しました。その人生は苦難こそ多かったものの精力的に多くの作品を制作し、後世に多大な影響を与えました。

クロード・モネの来歴

クロード・モネ

生い立ち

クロード・モネは1840年11月14日にパリで卸売商人である父と歌手の母のもとに生まれ、1841年にパリの教会であるノートルダム・ド・ロレットでカトリックの洗礼を受けました。

ノルマンディー時代

1845年ごろ、モネの一家はノルマンディー地方のル・アーヴルに移住しました。父はモネに家業を継ぐことを望んでいましたが、幼い頃から絵の才能を発揮していたモネは1851年にル・アーヴルの美術中等学校に入学します。勉強は不得手でしたが、この頃から画家のフランソワ=シャルル・オシャールから素描を学び、人物のカリカチュア制作の注文を受けるなどしてお金を稼いでいました。

1858年ごろにモネの描いたカリカチュアが風景画家のウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、二人は知り合うことになります。ブーダンの手ほどきで油絵と戸外での絵画制作に取り組み始めたモネは、ついに画家としての第一歩を踏み出します。

パリへ

カリカチュアの販売で貯めたお金で父を説得し、モネは1859年にパリに出ることになります。自由画塾であるアカデミー・シュイスに入学して絵の勉強を行い、ここでカミーユ・ピサロと出会いました。ほどなくして兵役に召集され、1861年から62年までアルジェリアで従軍するも病気のため一度除隊し、ル・アーヴルに戻ります。ブーダンとともにモネの重要な指導者となるヨハン・ヨンキントと出会い、画業を続けることを勧められ、兵役を免除されてパリに戻ります。

シャルル・グレールのアトリエに入門すると、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーらと出会い、彼らとともに戸外制作をして光の描写を探究しました。

印象派

1865年にサロンに初入選するも、以降は落選を繰り返します。宗教や神話を主題としたアカデミックな画題が良しとされていた風潮の中、モネはアトリエの仲間達と自由な発表の場を求めて独自にグループ展を計画します。1874年に開催されたその第一回印象派展で「印象、日の出」が出品され、それを見た批評家による批評文がきっかけとなり「印象主義」「印象派」という呼び名が定着しました。

第二回印象派展では、モネの数少ない日本趣味の作品である「ラ・ジャポネーズ」が出品され好評を博し、2000フランで売れたものの、当時経済的に困窮していたモネを救うことにはなりませんでした。モネは借金に追われ、支援者たちに度々資金援助の依頼をしながらも制作を続け、印象派展への出品を重ねていきました。

経済的な苦境に陥る中で妻カミーユが重病にかかり、日に日に健康状態が悪化していきました。その頃モネ一家はヴェトゥイユ村に移り住みますが、モネのパトロンであり破産して住む所を失っていたエルネスト・オシュデの家族と共同生活を送ることとなります。1879年にカミーユが亡くなると、モネは失意の底に沈みます。

ジヴェルニーへ

カミーユの死後も失意の中でサロンへの出品を続けていたモネは、1883年にジヴェルニーへ移り住み、以後没するまでこの地で制作を続けました。フランスの経済状況の回復、印象派の立役者である画商ポール・デュラン=リュエルの活躍もあってモネは次第に経済的に立ち直り、生活の安定を手に入れました。家の前の庭園は一家で念入りに整備され、モネ最大のインスピレーション源となりました。

1890年代よりモネは光の移ろいを表現する連作の手法を確立し、「積みわら」「ルーアン大聖堂」「セーヌ川の朝」などを手掛けていきます。1892年には子育ての手伝いなどで献身的に支えてくれたアリス・オシュデと結婚します。

「睡蓮」の時代

モネの連作の中でも最も有名な「睡蓮」は1899年から生涯を費やして数多く描かれました。1900年までに描かれた「睡蓮」第1連作では太鼓橋を中心とした構図で、睡蓮と枝垂れ柳が描かれています。1909年には睡蓮をテーマとした個展をデュラン=リュエル画廊で開き、第二連作の48点を展示し、大成功を収めました。この個展の際にモネは「睡蓮」で一室を装飾する計画を思いつきますが、視力の低下、妻アリスと長男ジャンの死といった不幸に見舞われ、再び失意に陥ります。

1914年に大作を描くためのアトリエを建て、モネは制作を再開します。高さ2メートル、幅4.3メートルのキャンバスを横につなげて「睡蓮」大装飾画を描き、作品は1921年にパリのオランジュリー美術館に収容されました。

失明の危機を乗り越えながら、残りの生涯をかけて大装飾画の制作に没頭し続け、モネは1926年に86歳で亡くなりました。

クロード・モネの画風やエピソード

Water Lily Pond

画風

「印象派スタイルの典型」と評されるモネの画風の特徴は、巧みな色づかいによる光の効果の表現と「筆触分割」の手法に表れています。

モネは師ブーダンの手ほどきで戸外での制作に夢中になり、目の前にある空気や光そのものを描くことを望んでいました。光とその反射がもたらす対象物の色の変化をとらえるために、鉛筆で素早くモチーフを描くこともあれば、準備もせず一回で絵を完成させることもありました。

風景画においてはしばしば鉄道や工場などの産業的要素、またパリ郊外の田舎での人々の余暇活動に焦点が当てられました。特に1877年にサン・ラザール駅で描いた一連の作品においては、鉄道の蒸気や煙が色彩と視界に及ぼす影響を熱心に観察しました。ここでの大気がもたらす影響の研究は、睡蓮をはじめとする後の連作へと発展しました。

またモネは印象派の画家たちが基本として用いた技法である「筆触分割」の技法を編み出しました。これは赤、青、黄の三原色を中心として、色をなるべく混ぜ合わせることなく並置させていくという手法です。この技法によりモネの絵画は筆のタッチが活かされ、明るい光とそれがもたらすモチーフの色の変化が表現されているのです。

印象派

モネは今でこそ世界的に有名で人気のある画家ですが、その人生は決して順風満帆ではありませんでした。モネがパリのサロンに最初に出品し始めた頃は、宗教画や神話画が絵画ジャンルの中で圧倒的に権威を持っており、アカデミーもそれを評価の基準としていた時代でした。自然や人々の現代生活を見たままに表現しようとしたモネはじめとする印象派の画家たちは、こうしたアカデミーの権威に不満を抱いていました。初期のモネは経済的苦境の中でなかなかサロンに認められませんでした。

1873年にモネはルノワールやピサロらとともに「画家、彫刻家、版画からの無名美術協会」を組織し、独自に展覧会を行います。「印象派展」と呼ばれるこの展覧会は第8回まで続き、当初は世間の評価も厳しかったものの徐々に認められ、アカデミー中心の美術の流れを大きく変えることとなりました。

妻カミーユへの愛

モネは1865年にモデルの仕事をしていたカミーユ・ドンシューと出会い、絵画のモデルとして雇いながら愛人としての関係も持ちます。モネの父からは交際を反対されながらも、1867年にカミーユは長男ジャンを出産します。翌年から親子3人でともに暮らすこととなりましたが、経済的に困窮し、債権者からも逃れ続けていたモネは住まいを転々としながら1870年にパリで結婚式を行いました。

カミーユが第二子を妊娠中に重い病にかかり、オシュデ家との共同生活を始めることとなっても、経済的な困窮は改善されませんでした。1878年に次男のミシェルが誕生するとカミーユの体調はさらに悪化します。モネが作品を売って得たお金のほとんどは治療費に当てられ、アリス・オシュデによる看病もありましたが1879年に亡くなってしまいます。カミーユの死後モネはひどく打ちのめされ、「死の床のカミーユ」という作品で、彼女の最期の姿を荒々しいタッチで描いています。

浪費家モネ

作品においては真摯に独自の表現を追求していたモネでしたが、私生活では料理やワインを嗜む贅沢な暮らしを好み、浪費癖があったために経済的に困窮していました。モネは父のみならず印象派仲間のバジールやマネ、画商のデュラン=リュエルらからたびたび資金援助を受け、生活費や引越し資金などに充てていました。

モネと日本の美

モネは1871年にオランダを訪れた際に初めて浮世絵を購入し、フランスでジャポニスムが流行してからも熱心に浮世絵版画を収集していました。彼のジヴェルニーの家には233枚もの浮世絵版画が残されていたと言います。モネは「ラ・ジャポネーズ」において、妻のカミーユに日本の打ち掛けを着させた肖像画を描いており、浮世絵のモチーフも画面に多数登場させています。

クロード・モネの代表作

印象、日の出

印象、日の出

1872年に描かれた作品「印象、日の出」は、モネにとっても、また印象派の歴史にとっても重要な意味を持つ作品です。

モネの故郷であるル・アーヴルを舞台として、日の出が港を明るく照らしている風景が描かれています。逆光に照らされた船や人々は影として描かれ、遠景は朝靄にかすんだ光に満ち、太陽の光を反射した水面は筆触分割による荒いタッチによってそのゆらめきが表現されています。

本作は1874年の第一回印象派展に出品されました。批評家ルイ・ルロワが書いたルポルタージュ風の展覧会評において、本作のタイトルについて言及され、「印象派」という名前が普及することになりました。

ラ・ジャポネーズ

ラ・ジャポネーズ

1875年に制作された「ラ・ジャポネーズ」は、モネの作品の中でも数少ない日本趣味を全面に反映させた作品として有名で、現在はボストン美術館に所蔵されています。

日本刀を持った侍が刺繍された赤い打ち掛けを着たカミーユが、扇子を持ってポーズをとりながら笑っています。背景と地面には浮世絵の柄が描かれたうちわが多数散らばっており、床は畳が誂えられています。浮世絵のコレクターであり、日本の演劇用の衣装も所有していたというモネは本作において、大胆な構図とモチーフの描き込みによって遊び心ある日本趣味を表現しています。

散歩、日傘をさす女性

散歩、日傘をさす女性

「散歩、日傘をさす女性」は1875年に描かれ、同年に描かれた「ラ・ジャポネーズ」とともに翌年の第二回印象派展に出品されました。

白いドレスを着て日傘をさしたカミーユと、長男ジャンが散歩をする姿が下から仰ぎ見る構図で描かれています。二人の背後から太陽の光が当たっており、ドレスは逆光の効果により青紫色で表現され、手前には深い色の影が草原の上に落ちています。逆光によるモチーフの色、明るい光の反射と影、風の吹きさす爽やかな空気の表現が見事な作品です。

モネは本作の構図を1886年に2つの「戸外の人物習作」という作品で意図的に再び採用しています。

ジヴェルニーの積み藁、夕日

ジヴェルニーの積み藁、夕日

1888〜89年に制作された「ジヴェルニーの積みわら、夕日」は、後に手がけることとなる「積みわら」の連作の先駆けとなった作品です。それまでの画風とは異なり、繊細で柔らかい筆触が隅々まで重ねられ、どっしりと高く積まれた藁が夕日に照らされている様子と空気感が表現されています。

モチーフとなっている積みわらは脱穀前の麦を積み上げたもので、食料貯蔵庫の役割も果たしていました。農業国フランスの豊穣を象徴するモチーフでもある積みわらを、モネはさまざまな時間帯で観察し、繰り返し描きました。

睡蓮

睡蓮

睡蓮を描いた作品は200点以上も現存していることからも、モネがいかに生涯をかけて熱心に取り組んだモチーフであるかが分かります。初期には日本風の橋が架けられた睡蓮の池をモチーフとし、1897年から99年にかけて描いた8点の睡蓮では睡蓮と水面のみが描かれました。以降、1900年までは再び橋をモチーフとした連作が描かれ、その後はしばらく睡蓮の制作を中断します。

1903年に再開し、1908年にかけて描かれた80点に及ぶ睡蓮の連作は「第二連作」とよばれ、デュラン=リュエル画廊で発表されました。以降再び中断の期間を経て、一つの部屋を睡蓮で埋め尽くす「大装飾画」を見据えた大画面の制作を始めました。

モネが長い期間をかけて手掛けてきた睡蓮の作品は、時期によって着目するモチーフや構図、タッチが異なっており、特に視力が低下した晩年の睡蓮は、大胆なタッチでより装飾的かつ抽象的な画面になっています。

クロード・モネの作品を収蔵する主な日本の美術館

国立西洋美術館(東京)

東京・上野の国立西洋美術館には、モネの睡蓮や人物画、雪景色も含む風景画などの作品が18点所蔵されています。常設展で公開されている作品も多いため、気軽にモネの作品にアクセスすることができます。また2024年10月5日から2025年2月11日にかけて「モネ 睡蓮のとき」という展覧会が開催されます。

アーティゾン美術館(東京)

東京・京橋のアーティゾン美術館にはアルジャントゥイユの風景画や睡蓮、イギリスの河川、ヴェネツィアを描いた優品が所蔵されています。

ポーラ美術館(神奈川)

神奈川・箱根のポーラ美術館には、有名な連作の一つであるルーアン大聖堂、代表作「散歩、日傘をさす女性」を想起させる人物画、積みわら、睡蓮などが所蔵されています。展示されている機会も比較的多く、完成度の高い作品なので一見をおすすめします。

埼玉県立近代美術館(埼玉)

埼玉県立近代美術館には、モネの1888年作の「ジヴェルニーの積みわら、夕日」が所蔵されています。モネが1890年に手がける25点の積みわらの連作の先駆けとなる貴重な作品のため、日本で一度は見るべき作品の一つと言えるでしょう。

ひろしま美術館(広島)

ひろしま美術館には1874年作の「アムステルダムの眺め」および1897年作の「セーヌ河の朝」が所蔵されています。特に後者の作品では睡蓮のシリーズにも通じる水面の反射の表現を見ることができます。

地中美術館(香川)

香川・直島の地中美術館には、モネ晩年の睡蓮作品5点が「クロード・モネ室」に展示されています。空間の正面には縦2m×横6mの睡蓮が展示されており、自然光の降り注ぐ空間で鑑賞することができます。パリのオランジュリー美術館に近い環境であるだけでなく、実際に自然光の下で制作したモネのまなざしを追体験することができます。

大原美術館(岡山)

岡山の大原美術館には1885年作の「積みわら」と1906年作の「睡蓮」が所蔵されています。特に前者は人物2人が積みわらとともに描かれている数少ない作例です。またモネのジヴェルニーの自宅の庭園から株分けされ移植された睡蓮の花も楽しむことができます。

(番外編)モネの池(岐阜)

美術館ではなく、モネの作品と直接の関係はありませんが、岐阜県関市板取にある通称「モネの池」と呼ばれる場所では、透明度の高い湧き水の中で睡蓮が咲き、錦鯉の泳ぐ美しい風景を見ることができます。

まとめ

モネは度重なる困難を乗り越えながら、長い生涯で多数の作品を残しました。初期作から晩年の作品まで幅広く見ると、モネのまなざしと表現の技術が洗練されていく流れが感じられます。国内でアクセスできる作品も多いので、ぜひ足を運んでみてください。

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